表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
51/66

第51話 記録の舞台袖

「舞台袖を探す」


翌朝、フィン先生が黒板にそう書いた。


短い一文。


けれど、意味はまったく短くない。


旧地下聖堂の第二回下見で、俺たちはナツキ・シノハラの新しい残響を拾った。


【ありがとう】

【第三幕は、舞台袖にある】


舞台袖。


舞台の横。

客席からは見えない場所。

役者が出番を待つ場所。

小道具が置かれる場所。

次の場面が始まる前に、物語が息を潜めている場所。


俺――アキト・アオキは、黒板の文字を見つめながら考えていた。


もしナツキが脚本家なら。


もし彼女が、自分の記録が神殿や転生者狩りに読まれることを予測していたなら。


彼女は本文の中には隠さない。


本文は校閲される。

表題も管理される。

最終処理術式は罠にされる。

旧地下聖堂の第二幕は、読まされる。


なら、残す場所はどこか。


本文ではない場所。


でも、物語の一部ではある場所。


「記録の余白……」


俺が呟くと、リュミエル・アークレインがこちらを見た。


「余白?」


「ああ。脚本や台本には、台詞以外の部分がある。ト書き、注釈、場面転換、カットされた台詞、演出メモ。読む人によっては見落とすけど、作る側には必要な場所」


「それが舞台袖?」


「たぶん」


フィン先生が腕を組む。


「つまり、正式な記録本文ではなく、記録作成時に発生した周辺情報を探す」


「はい」


俺はタイムラインを机に置いた。


「上位記録保管庫で見た索引には、第三幕計画書の第四断片が“所在不明”と出ました。でも関連語には、舞台袖、未完の脚本、名無しの観測者、主人公候補があった」


ミラ・クロウが窓枠で尻尾を揺らす。


「所在不明なのに関連語はあるって、変じゃない?」


「変だ」


リュミエルが言う。


「完全に消えているなら関連語も出ないはず。つまり、記録の本体は見つからないけれど、影だけは索引に残っている」


トーヤ・ラインハルトが真面目に頷く。


「足跡はあるが、本人がいない状態か」


「いい例えだな」


俺は頷いた。


「だったら、足跡を追えばいい」


セリア・フレイムロードが腕を組む。


「でも、記録の足跡ってどうやって追うのよ」


「編集ソフトで言えば」


俺は少しだけ前世の記憶を探る。


「削除された素材でも、プロジェクトファイルに参照だけ残っていることがある。ファイル本体はないのに、タイムラインには空白のクリップが残ってる、みたいな」


ノルン・エルシアが首を傾げる。


「ぷろじぇくとふぁいる……?」


「あー……記録を作るための作業場みたいなもの」


「作業場……」


ノルンは納得したように頷いた。


「じゃあ、完成した記録じゃなくて、作っている途中の跡を探すんだね」


「そう」


俺は黒板に書いた。


【舞台袖=完成記録の外側】

・削除された記録の参照

・未登録の余白

・注釈

・作成途中の断片

・観測者のメモ

・本文に入らなかった台詞


レオン・グランベルが低く言った。


「名無しの観測者、というのは、そのメモを書いた人物か?」


「可能性はある」


リュミエルが続ける。


「ナツキ・シノハラの記録を観測していた誰か。もしくは、彼女自身が用意した匿名の視点」


「匿名の視点?」


「脚本には、登場人物ではない語り手や観測者がいることがあるのでしょう?」


リュミエルに問われ、俺は頷いた。


「ある。ナレーターとか、カメラ視点とか、作者の視点とか」


「なら、“名無しの観測者”は、記録の外側から物語を見ている存在かもしれない」


その言葉に、背筋が少し冷えた。


記録の外側から物語を見る存在。


それは、神の視点にも近い。


でも、ナツキの第三幕に関係しているなら、神の視点とは違うのかもしれない。


フィン先生が黒板を叩いた。


「仮説はいい。次は実行だ」


「また上位記録保管庫ですか?」


「いや」


先生は首を横に振った。


「今日は旧記録保管庫を使う」


「旧記録保管庫?」


「上位記録保管庫は完成記録の墓標だ。だが、旧記録保管庫には移送前の雑多な作業記録が残っている可能性がある」


「つまり、完成前の下書きや参照跡」


「そうだ」


俺は少しだけ胸が高鳴った。


旧記録保管庫。


勇者候補事故記録を見つけた場所。


神殿式補強の外部履歴に触れた場所。


危険もある。


でも、あそこには上位保管庫ほど整えられていない情報が残っている。


整えられていない。


つまり、校閲しきれなかった余白があるかもしれない。


「行きます」


俺が即答すると、リュミエルが目を細めた。


「早いわ」


「でも、必要だろ」


「必要ね。でも、早いわ」


「じゃあ、慎重に行きます」


「本当に?」


「本当に」


フィン先生がため息をついた。


「今のやり取りも記録しておけ」


「そこまで?」


「お前は“慎重に行く”と言った二分後に踏み込む」


「そこまで信用ないですか」


教室の全員が黙った。


「全員黙るな」


ミラが笑った。


「実績って大事だよね」


反論できない。


結局、旧記録保管庫へ行くのは俺、リュミエル、フィン先生の三人になった。


ミラとトーヤは学園外周の警戒。

ノルン、セリア、レオンは特異職科で記述釘と補強式の照合を続ける。


ただ、出発前にレオンが俺を呼び止めた。


「アキト」


「何だ」


「もし“主人公候補”という言葉が出たら、すぐに共有しろ」


「分かってる」


「お前は、自分だけで考え込む癖がある」


「レオンにまで言われるとは」


「俺にも分かるくらいだから重症だ」


ひどい。


でも、心配してくれているのは分かった。


「分かった。共有する」


「ならいい」


ノルンも小さく言う。


「ナツキさんの記録を見る時、苦しくなったら戻ってきてね」


「うん」


セリアは赤い水晶を渡してきた。


「一応、持っていきなさい」


「これは?」


「火属性の浄化痕跡を拾う水晶。旧記録保管庫に火で清めた跡があれば反応する」


「ありがとう」


「別に、あんたのためだけじゃないわ。情報が欲しいだけ」


「はいはい」


「はいは一回」


少しだけ笑えた。


こういうやり取りが、出発前の足場になる。


俺はタイムラインを手首に固定し、旧記録保管庫へ向かった。


旧記録保管庫は、以前と同じく薄暗かった。


古い紙の匂い。

乾いた魔力。

床を歩くと、微かに響く足音。


上位記録保管庫の白い冷たさとは違う。


ここはもっと雑然としていて、人の手垢が残っている感じがする。


怖いけれど、どこか生々しい。


フィン先生が保管庫の奥へ進みながら言った。


「今日は完成記録を開くな」


「はい」


「索引、移送票、破棄記録、閲覧履歴、注釈だけを見る」


「本文じゃなくて周辺情報」


「そうだ」


リュミエルが星の防護を張る。


「舞台袖を探すなら、主舞台を見すぎないことね」


「分かりやすい」


「あなた向けに言ったわ」


「助かる」


俺はタイムラインを起動した。


「編集操作」


青い視界が広がる。


旧記録保管庫の棚が、ただの棚ではなく、複数の記録線として見え始める。


正式記録。

閲覧履歴。

封印履歴。

移送記録。

破棄申請。

注釈。

未分類断片。


俺は深く息を吸った。


「舞台袖に相当する余白を検索」


【システム表示】


検索対象:

旧記録保管庫


検索語:

舞台袖

未完の脚本

名無しの観測者

主人公候補

第三幕計画書

ナツキ・シノハラ


注意:

一部語句に封印反応があります。


実行しますか?


「実行」


青い線が保管庫内を走る。


だが、すぐに赤い警告が出た。


【検索妨害】

「ナツキ・シノハラ」関連語に対し、旧式封印が作動しています。


検索結果:

なし


俺は眉をひそめた。


「ナツキの名前では引っかかりません」


フィン先生が言う。


「予想通りだ。別名や分類名で探せ」


別名。


転生者狩りは、彼女を名前で呼ばなかった可能性が高い。


台本外来訪者。

外来者一号。

脚本家。

筋書き干渉個体。


俺は検索語を変えた。


「外来者一号。未承認職脚本家。筋書き干渉。第三幕」


青い線が再び走る。


今度は、保管庫の奥で微かな光が返った。


【検索結果】


一件。


分類:

移送補助記録


表題:

【外来者一号・第二幕処理後搬送票】


状態:

破棄済み


備考:

参照痕あり。


破棄済み。


だが、参照痕あり。


俺の胸が鳴った。


「ありました。外来者一号・第二幕処理後搬送票。破棄済みだけど、参照痕があります」


フィン先生が目を細める。


「搬送票か。どこへ送ったかが書いてある可能性がある」


「開けますか?」


「本文は開けるな。参照痕だけ見ろ」


「はい」


俺は搬送票そのものではなく、そこから伸びている参照線を見る。


破棄された記録にも、誰かが別の記録から参照した跡がある。


薄い線。


消えかけている。


「参照線を追います」


リュミエルが短杖を握る。


「深く行きすぎないで」


「分かってる」


「本当に?」


「本当に」


俺は参照線を辿る。


それは保管庫の棚ではなく、床の下へ伸びていた。


いや、床の下ではない。


記録の層がずれている。


正式な棚に収まらない記録。


索引の隙間。


「……あった」


俺は呟いた。


「棚じゃない。記録と記録の間に、薄い層があります」


「舞台袖か」


フィン先生の声が低くなる。


俺は頷いた。


「たぶん」


タイムラインが震える。


【未登録余白層を検出】


通称候補:

【舞台袖】


状態:

閲覧不可。

ただし、外部輪郭の確認は可能。


関連語:

名無しの観測者

未完の脚本

主人公候補


「舞台袖、検出しました」


声が少し震えた。


本当にあった。


比喩ではなかった。


記録の本文でも索引でもない、余白層。


そこに、第三幕の第四断片があるかもしれない。


「外部輪郭だけ取れ」


フィン先生が言う。


「中を見るな」


「はい」


俺はタイムラインで舞台袖の輪郭だけを選択する。


薄い灰色の層。


紙と紙の間。

映像のカットとカットの間。

舞台の幕の裏。


そこに、何かが置かれている。


「外部輪郭コピー」


【コピー対象】

未登録余白層【舞台袖】

外部輪郭

参照線

搬送票との接続痕


警告:

内部に未完記録あり。

閲覧すると筋書き干渉を受ける可能性があります。


「未完記録……」


俺は息を呑む。


リュミエルが即座に言う。


「見ない」


「分かってる」


でも、見たい。


未完の脚本。


ナツキの第三幕。


主人公候補。


その言葉が、心を引っ張る。


タイムラインが赤く警告する。


【行動誓約未設定】


現在、舞台袖閲覧に関する誓約ログがありません。


推奨:

内部閲覧禁止を記録してください。


「……タイムライン、有能すぎる」


俺は小さく呟いた。


「どうした」


フィン先生が聞く。


「内部閲覧禁止の誓約ログを作れって出ました」


「作れ」


即答。


俺はタイムラインに触れる。


【行動誓約ログ】


本調査において、未登録余白層【舞台袖】の内部記録を閲覧しない。

取得するのは外部輪郭、参照線、接続痕のみとする。

内部から呼びかけや表示があった場合、反応せず撤退する。


記録しますか?


「記録」


【記録完了】


少しだけ心が軽くなった。


俺は外部輪郭のコピーを続ける。


その時。


舞台袖の奥から、かすかな文字が浮かんだ。


日本語。


【そこじゃない】


「っ……」


俺は反応しそうになった。


だが、すぐに呼称フィルターが反応する。


【表示誘導検出】

内部閲覧への誘導可能性。


行動誓約ログ:

反応禁止。


俺は歯を食いしばる。


「反応しない」


リュミエルが俺を見る。


「何か見えた?」


「日本語で“そこじゃない”って」


「見ないで」


「見てない。表面に出た」


また文字が浮かぶ。


【もっと横】


俺は目を閉じかける。


横?


舞台袖のさらに横?


それとも、検索位置が違う?


「アキト」


フィン先生が低く言う。


「今の言葉を追うな。ただし、記録はしろ」


「はい」


反応せず、内容だけ記録する。


「異界語表示、表面ログ保存」


【保存完了】


さらに一行。


【観測者を探して】


今度は、胸が強く鳴った。


名無しの観測者。


第四断片関連語の一つ。


ナツキの残響が、観測者を探せと言っているのか。


それとも、舞台袖の罠が俺を誘っているのか。


分からない。


でも、内部には踏み込まない。


俺は震える声で言った。


「観測者を探して、って出ました」


フィン先生が鋭く息を吸う。


「名無しの観測者か」


リュミエルが言う。


「舞台袖本体ではなく、観測者を探せということなら、次の検索対象は人か記録者ね」


「はい」


俺は舞台袖の内部ではなく、外部輪郭についた参照線をもう一度見る。


搬送票から舞台袖へ。

舞台袖から、さらに別の線が伸びている。


細い。


ほとんど消えかけている。


だが、確かにある。


それは保管庫の出口方向ではない。


旧記録保管庫の管理台の裏側へ伸びていた。


「参照線が管理台の裏へ行ってます」


フィン先生の顔が変わる。


「管理台?」


「はい」


「そこは、記録官の作業領域だ」


リュミエルが呟く。


「名無しの観測者は、当時の記録官?」


俺は参照線を追いながら管理台へ向かった。


古い木製の台。


表面には閲覧者名簿や貸出記録が残っている。


その裏側。


普通なら見ない場所。


そこに、小さな傷があった。


文字ではない。


記号。


丸と線。


まるで、カメラのファインダーのような形。


タイムラインが反応する。


【記録官私印を検出】


名称:

名無しの観測者


本名:

封印


役職:

旧記録保管庫臨時記録官


関連:

外来者一号

第二幕処理後搬送票

未完の脚本

舞台袖


「見つけた……」


俺は息を呑んだ。


名無しの観測者は、記録官だった。


ナツキを見ていた誰か。


名前を封印された記録官。


フィン先生が低く言う。


「本名封印か。厄介だな」


「でも、役職は見えます。旧記録保管庫臨時記録官。外来者一号と関係あり」


リュミエルが管理台の裏を見つめる。


「その記録官が、舞台袖を作った可能性があるわ」


「ナツキと協力した?」


「あるいは、ナツキを記録として残そうとした」


俺は胸が熱くなるのを感じた。


ナツキは一人ではなかったかもしれない。


少なくとも、誰かが彼女を観測していた。


ただ処分対象としてではなく、記録されるべき人間として。


タイムラインが表示を出す。


【新規目標】


名無しの観測者の本名封印を解除せず、関連記録を探してください。


推奨検索語:

旧記録保管庫臨時記録官

外来者一号

観測記録

私印

未完の脚本


「本名封印は解除するなって出てます」


フィン先生が頷く。


「当然だ。名前の封印は危険だ。今は周辺から行く」


俺は検索語を入れる。


「旧記録保管庫臨時記録官。観測記録。未完の脚本」


保管庫の奥で、古い引き出しが一つ、かたりと鳴った。


全員がそちらを見る。


フィン先生が慎重に近づき、封印を確認する。


「低位封印。開ける」


引き出しが開く。


中には、一枚の薄い紙片が入っていた。


紙片と言っても、ほとんど灰のように脆い。


俺は触れない。


タイムラインを近づける。


文字が浮かぶ。


【観測記録・断片】

記録者:

名無しの観測者


対象:

外来者一号


本文:

彼女は、最後まで自分を登場人物とは呼ばなかった。

自分は脚本を書く者ではなく、書かされた筋書きを拒む者だと言った。


彼女は、第三幕を作ったのではない。

第三幕へ逃げ道を残した。


俺は、声が出なかった。


ナツキは第三幕を作らされた。


でも、その中に逃げ道を残した。


脚本家として。


校閲される自分自身か。

後から来る誰かか。

どちらかを逃がすために。


紙片の下に、さらに文字が続く。


【注意】

第三幕の主人公は、彼女ではない。

彼女は、自分の役を降りた。


次に来る者へ、主人公候補の席を空けた。


俺の心臓が大きく跳ねた。


主人公候補。


第四断片関連語。


それは、ナツキのことではない。


次に来る者。


つまり。


俺かもしれない。


「……これ」


リュミエルが隣で静かに言う。


「アキトのこと?」


「まだ分からない」


俺は即答した。


でも、声が少し震えていた。


タイムラインも警告を出す。


【用語反応】

主人公候補


精神誘導リスク:


注意:

自分が選ばれた、という解釈へ短絡しないでください。


「タイムラインにまで注意された」


俺は小さく呟いた。


フィン先生が厳しい声で言う。


「その通りだ。主人公候補という言葉に飲まれるな」


「はい」


「お前が主人公かどうかなど、今はどうでもいい」


「どうでもいいんですか」


「大事なのは、ナツキが第三幕へ逃げ道を残したことだ」


その言葉で、俺は少し戻れた。


そうだ。


主人公候補という言葉に浮かれる場面ではない。


これは役割かもしれない。

罠かもしれない。

神の台本とは別の台本に乗せられる危険すらある。


俺は主人公になりたいわけじゃない。


ただ、理不尽を剥がしたいだけだ。


「記録を保存します」


俺は言った。


「要約でな」


フィン先生が釘を刺す。


「全文コピーは危険ですか?」


「危険だ。観測者の記録は、ナツキの筋書き干渉の近くにある。全文を持ち帰ると、未完の脚本まで引っ張る可能性がある」


「分かりました」


俺は要約ログを作成する。


【タイムライン】


要約ログ:

【名無しの観測者・観測記録断片】


内容:

・名無しの観測者は旧記録保管庫臨時記録官。

・外来者一号ナツキ・シノハラを観測。

・ナツキは「書かされた筋書きを拒む者」と発言。

・第三幕は作成物ではなく、逃げ道として構築された。

・ナツキは自分の役を降り、次に来る者へ主人公候補の席を空けた。


保存完了。


その瞬間、紙片が淡く光った。


そして、最後に一行だけ浮かび上がる。


【主人公とは、選ばれた者ではない】

【最後まで降りなかった者である】


俺は、その言葉を読んで息を止めた。


選ばれた者ではない。


最後まで降りなかった者。


神に選ばれる。

勇者候補に選ばれる。

主人公候補に選ばれる。


そういう話ではない。


最後まで、自分の意思で舞台を降りなかった者。


それが、主人公。


胸の奥で何かが静かに鳴った。


リュミエルが小さく言う。


「アキト」


「大丈夫」


「本当に?」


「本当に。今のは、たぶん大丈夫」


俺は深く息を吸った。


この言葉は、俺を持ち上げるためではない。


むしろ、逆だ。


選ばれた気になるな。

降りないと決めろ。


そう言われている。


フィン先生が紙片を見て、低く呟いた。


「名無しの観測者、か。なかなか嫌な置き土産を残している」


「でも、助かりました」


「助かるものほど危険でもある」


「分かってます」


「本当に?」


「今日は全員それ聞きますね」


「聞かれるだけの前科がある」


ぐうの音も出ない。


俺たちはそれ以上、舞台袖には触れず、旧記録保管庫を出た。


特異職科に戻ると、全員が集まっていた。


俺は黒板に新しい情報を書いた。


【舞台袖】

・旧記録保管庫の未登録余白層

・第三幕計画書第四断片と関連

・内部閲覧は危険

・名無しの観測者を探せという異界語痕あり


【名無しの観測者】

・旧記録保管庫臨時記録官

・本名封印

・ナツキを観測していた人物

・第三幕を“逃げ道”として記録

・主人公候補の席を次に来る者へ空けた


【観測記録の一文】

主人公とは、選ばれた者ではない。

最後まで降りなかった者である。


教室が静まり返った。


レオンがその一文を見つめていた。


「選ばれた者ではない……」


勇者候補である彼には、刺さる言葉かもしれない。


ノルンは静かに涙を拭いた。


「ナツキさん、一人じゃなかったんだね」


「たぶん」


俺は頷いた。


「名無しの観測者が、少なくとも彼女を記録しようとしていた」


ミラが腕を組む。


「本名封印ってことは、その観測者も危ない目に遭ったのかな」


「可能性は高い」


セリアが低く言う。


「第三幕の逃げ道を残したなら、神殿や転生者狩りにとっては裏切り者でしょうね」


トーヤが静かに言った。


「その人の名前も、いつか取り戻せるといい」


その一言が、妙に胸に残った。


名無しの観測者。


名前を封印された人。


ナツキを見ていた人。


もしかすると、彼女の物語を消さないために、自分の名前を捨てた人。


俺は黒板の端に、慎重に書き加えた。


【名無しの観測者】

名前はまだ不明。

でも、ナツキを記録した人。


本人の現在記述ではない。


勝手に定義はできない。


でも、これくらいなら許されると思った。


リュミエルが静かに頷く。


「いいと思うわ。役割ではなく、行動で書いている」


「名前が分かるまでは、これで」


「ああ」


フィン先生が黒板を見ながら言った。


「これで第三幕への入口は見えた。だが、まだ入るな」


「分かってます」


「次に必要なのは、舞台袖を安全に見る方法だ」


「安全に見る方法……」


「直接読むな。観測者の視点を借りる」


その言葉に、俺は顔を上げた。


「名無しの観測者の記録を経由するんですか」


「そうだ。ナツキが残した第三幕を直接読むと危険だ。なら、彼女を見ていた観測者の外側記録から読む」


「ワンクッション置く」


「お前の言葉で言えば、プレビューではなくサムネイルを見るようなものだ」


「先生、急に俺の世界の概念を使いますね」


「お前の説明を聞いて学んだ」


少し驚いた。


この先生、ちゃんと聞いていたのか。


いや、失礼か。


リュミエルが黒板に次の目標を書く。


【次の目標】

名無しの観測者の外側記録を集める。

舞台袖を直接読まず、観測者視点から第三幕の構造を把握する。


ミラがにやっと笑う。


「つまり、舞台袖を覗くために、覗いてた人を探すんだね」


「言い方」


セリアが呆れる。


「でも、だいたい合っている」


フィン先生が認めた。


俺は黒板を見た。


ナツキ・シノハラ。

名無しの観測者。

舞台袖。

主人公候補。


線は複雑になってきた。


でも、少しずつ見えてきた。


転生者狩りが用意した旧地下聖堂の第二幕。

ナツキが残した第三幕への逃げ道。

それを記録した名無しの観測者。


そして、次に来る者へ空けられた席。


俺はその席に座るつもりはない。


少なくとも、誰かに座らされるつもりはない。


でも。


最後まで降りない者が主人公だというなら。


俺は、まだ降りない。


この物語から。


この理不尽な世界から。


ナツキが残した一行から。


俺はタイムラインに手を置いた。


【新規目標更新】


名無しの観測者の外側記録を集める。

舞台袖への安全な観測経路を作る。


重要度:

最大


黒い石板が、静かに光った。


第三幕は、まだ開かない。


けれど、その袖口に手は届き始めている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ