第50話 第二幕の外側
夜が来た。
昨日と同じ王都の夜。
けれど、俺――アキト・アオキの足取りは、昨日より少しだけ違っていた。
怖い。
それは変わらない。
旧地下聖堂の入口。
石扉の向こうから聞こえた声。
俺の名前を呼ぶ声。
青木明登という、前世の名まで掴んでくる声。
思い出すだけで、背筋が冷える。
だが、今夜の俺には準備があった。
【行動誓約ログ・更新】
一、扉を開けない。
二、内部へ入らない。
三、単独で声に応答しない。
四、前世名への呼称に即時反応しない。
五、誘導を受けた場合、アンカー確認を行う。
六、危険度が一定以上になった場合、撤退を最優先する。
何度見ても、俺の信用のなさが文章になっている。
でも、必要だ。
俺は自分の危うさを知っている。
だからこそ、記録する。
隣にはリュミエル・アークレイン。
前方にはフィン先生。
屋根の上にはミラ・クロウ。
後方にはトーヤ・ラインハルト。
昨日と同じ下見班。
だが、今夜は違う。
俺たちは、ただ扉を見るために来たわけじゃない。
旧地下聖堂の第二断片を、直接読まない。
読まされない。
その外側だけを採取する。
第二幕の中へ入るのではなく、第二幕の外側を読む。
それが今夜の目的だった。
「アキト」
リュミエルが小さく言った。
「呼吸」
「してる」
「浅いわ」
「……今、深くした」
「よろしい」
このやり取りにも、だいぶ慣れてきた。
慣れていいのかは分からない。
でも、戻る合図があるのはありがたい。
神殿区の裏通りは、昨日と同じように静かだった。
静かすぎる。
人の気配が少ない。
そのくせ、どこかで見られている感じがする。
石壁の影。
祈祷小屋の隙間。
閉じた窓の奥。
何もいないのに、視線だけがある。
「昨日より警戒が濃い」
ミラが屋根から小さく声を落とした。
「人は?」
フィン先生が聞く。
「灰色外套が三人。昨日の神殿兵っぽいやつと同じ匂い。あと、古い血の匂いが増えてる」
「迂回する」
フィン先生は即断した。
俺たちは細い路地をさらに回り込み、古い倉庫の裏へ抜けた。
そこから祈祷小屋の影へ入り、蔦に隠れた石扉の前へ出る。
旧地下聖堂の搬入口。
昨日、ここにはナツキ・シノハラが残したと思われる文字があった。
【ここで終わらせない】
今夜も、その文字は残っていた。
ただし、少しだけ違う。
昨日より、文字の周囲が赤黒く滲んでいる。
まるで、誰かがその文字を消そうとして、失敗したようだった。
「校閲されかけてる」
俺は呟いた。
タイムラインを構える。
「編集操作」
青い視界が広がる。
石扉の表面に、複数の記述が重なっている。
【旧地下聖堂・搬入口】
【第二幕通路】
【記述釘接続点】
【筋書き矯正残滓】
【閲覧者誘導】
【異界語痕:保護不能】
「保護不能……?」
嫌な表示だった。
リュミエルがすぐに聞く。
「何が見えたの?」
「ナツキの異界語痕が、保護不能って表示されてる。放っておくと消されるかもしれない」
「修復できる?」
「分からない。触りすぎると罠の可能性がある」
フィン先生が低く言う。
「目的を忘れるな。今日は外部構造採取だ」
「はい」
助けたい。
残した文字を守りたい。
その衝動が湧く。
けれど、今すぐ手を伸ばすのは危険だ。
俺は、ナツキの文字そのものではなく、周囲の校閲痕を見る。
文字を消そうとする赤黒い線。
それが、どういう順番で走っているか。
どこから来て、どこへ戻るか。
「外部構造をコピーします」
「深く入るな」
「分かってます」
俺は赤黒い線の外枠だけを選択した。
「部分コピー」
タイムラインが光る。
【コピー対象】
旧地下聖堂・第二幕通路
外部校閲構造
誘導術式外枠
異界語痕侵食線
警告:
内部記録への接続あり。
遮断しながら保存してください。
「遮断保存」
【遮断保存を開始】
赤黒い線が、黒い石板へ写し取られていく。
その瞬間。
石扉の奥から、声が聞こえた。
「アキト」
昨日と同じ。
俺の名。
胸が跳ねる。
だが、呼称フィルターが作動する。
【呼称検出】
名前のみ。
反応保留推奨。
俺は反応しない。
声は続く。
「アキト……こっちへ……」
【誘導句検出】
反応保留。
俺は息を吐く。
動かない。
次の声。
「青木明登」
前世名。
胸の奥が揺れる。
【呼称検出】
前世名のみ。
高警戒。
俺は奥歯を噛む。
反応しない。
声は、少し形を変えた。
「青木明登。あなたは異物ではない。人間だ」
ぞくりとした。
俺の現在記述を混ぜてきた。
「勝手に貼られた理不尽を、本人と共に剥がす編集者……でしょう?」
リュミエルが即座に俺の腕を掴んだ。
「偽装呼称よ」
分かっている。
でも、嫌な精度だった。
俺たちの防御を見て、敵が真似してきた。
名前+現在記述。
本来なら信頼呼称になる形だ。
だが、声には温度がない。
関係性がない。
ただ文章を読み上げているだけ。
タイムラインが赤く表示する。
【呼称認証 Lv.1】
名前+現在記述を検出。
ただし、関係性ログ不一致。
声質:不明
魔力:敵性
意図:誘導
判定:
敵性偽装呼称。
反応禁止。
「反応禁止」
俺は声に出した。
「俺は、お前の呼び方には反応しない」
石扉の奥が、少しだけ沈黙した。
次の瞬間、声が変わった。
今度は、日本語だった。
「たすけて」
心臓が跳ねる。
「たすけて、アキトくん」
ナツキの声かもしれない。
そう思わせる声。
少女のようで、遠くて、震えている。
俺の足が、半歩だけ前に出た。
その瞬間、ミラが屋根から飛び降り、俺の前に立った。
「新人くん」
彼女は笑っていなかった。
「逃げ道は後ろ」
トーヤが背後から低く言う。
「進むな」
リュミエルが俺の名を呼ぶ。
「アキト・アオキ。青木明登。あなたは、敵の声ではなく、自分の意思で選ぶ」
その言葉が、胸の奥に届いた。
俺は止まった。
「……反応保留」
声が震えた。
でも、止まれた。
石扉の奥の声が、ふっと消える。
代わりに、赤黒い文字が浮かび上がった。
【偽装呼称失敗】
【第二誘導へ移行】
「第二誘導?」
俺が呟くより早く、石扉の表面に光景が映った。
白い部屋。
椅子。
赤い釘。
床に落ちた紙片。
そして、椅子に座る一人の少女。
黒髪。
学生服に似た服。
疲れ切った顔。
年齢は、俺とほとんど変わらない。
彼女が顔を上げる。
「私は、篠原夏希」
日本語だった。
「これを読める人へ」
俺の喉が詰まる。
ナツキ・シノハラ。
映像は続く。
「第二幕は、私が負ける場面です」
彼女の声は震えていた。
けれど、不思議と冷静だった。
脚本を読むように。
自分の負けを、舞台の一場面として記録しているように。
「ここでは、私は助かりません」
リュミエルが鋭く言う。
「アキト、これは誘導映像よ」
「分かってる」
分かっている。
でも、目が離せない。
ナツキは続ける。
「だから、見ないで」
映像の中の彼女は、こちらを見ている気がした。
「私が壊されるところを、見ないで」
胸が強く痛んだ。
見たい。
見なければならない気がする。
彼女が何をされたのか。
人格整文とは何か。
校閲済みとは何か。
全部知りたい。
でも、彼女は言っている。
見ないで。
第二幕は読まされる。
第三幕は探して。
俺は拳を握った。
「外部構造だけ取る」
俺は自分に言い聞かせた。
「映像の中には入らない」
フィン先生の声が飛ぶ。
「それでいい。映像は閉じろ。音声だけ記録しろ」
「はい」
俺は視界を閉じる。
ナツキの姿を見ない。
音だけ拾う。
表情ではなく、構造を見る。
「音声外枠コピー」
【コピー対象】
第二幕誘導映像
音声外枠
映像表示条件
感情誘導線
映像内容は保存しません。
保存しますか?
「保存」
【保存完了】
石扉の映像が乱れる。
赤黒い文字が走る。
【閲覧不足】
【感情誘導不成立】
【深度不足】
「失敗したってことか」
ミラが低く言う。
「たぶん」
俺は息を整えた。
見なかった。
全部は見なかった。
ナツキの言葉を信じた。
その時、石扉の下の【ここで終わらせない】の文字が、淡く光った。
消されかけていた異界語痕の周囲に、別の文字が浮かび上がる。
また日本語だ。
【ありがとう】
俺は息を呑んだ。
「今度は……ありがとう、って出た」
リュミエルが少しだけ目を見開く。
「ナツキの残響?」
「分からない。でも、敵の誘導とは魔力が違う」
タイムラインも反応する。
【異界語痕】
内容:
「ありがとう」
属性:
敵性校閲線と不一致。
筋書き干渉残響と類似。
保存可能。
「保存」
【保存完了】
胸の奥が熱くなる。
見なかったことへの、ありがとう。
そんな都合のいい解釈かもしれない。
でも、今だけはそう思いたかった。
フィン先生が言う。
「十分だ。撤退する」
「第二断片の接続点は?」
俺が聞くと、先生は石扉を見た。
「外枠は取れた。今夜はこれ以上いらん」
「でも――」
「アキト」
リュミエルが俺を見る。
「約束」
行動誓約ログが浮かぶ。
扉を開けない。
内部へ入らない。
危険度が一定以上になった場合、撤退を最優先する。
俺は唇を噛んだ。
「……撤退します」
「いい判断だ」
フィン先生が頷く。
俺たちは石扉に背を向けた。
今度は、声がすぐには追ってこなかった。
しかし、路地を離れる直前。
石扉の奥から、最後の声が聞こえた。
「第三幕は、舞台袖にある」
俺は足を止めかける。
でも、振り返らない。
呼称フィルターは反応しない。
名前ではない。
ただの情報。
ミラが小さく言う。
「舞台袖って何?」
俺は前を向いたまま答えた。
「舞台の横。客席から見えない場所。役者が出番を待つところ」
フィン先生が低く言った。
「第四断片の関連語にもあったな」
名無しの観測者。
舞台袖。
未完の脚本。
主人公候補。
舞台袖。
第三幕は、舞台袖にある。
俺たちは、その言葉だけを持って、旧地下聖堂を離れた。
学園へ戻るまで、誰もほとんど話さなかった。
特異職科の教室に戻ると、レオン、ノルン、セリアが待っていた。
三人ともすぐに立ち上がる。
「無事か」
レオンが聞く。
「無事」
俺は答えた。
「でも、また情報が増えた」
フィン先生が黒板に結果を書いていく。
【第二回下見結果】
・外部校閲構造を遮断保存
・第二幕誘導映像を確認
・映像内容は保存せず、音声外枠のみ採取
・ナツキ残響と思われる異界語痕:「ありがとう」
・追加情報:「第三幕は、舞台袖にある」
ノルンが「ありがとう」の文字を見て、目を潤ませた。
「ナツキさん……本当に、まだ……」
「分からない」
俺は言った。
「でも、敵の誘導とは違った」
セリアが腕を組む。
「舞台袖って、また脚本家っぽい言葉ね」
「第四断片の関連語にもあった」
リュミエルが黒板に書き足す。
【第四断片関連語】
名無しの観測者
舞台袖
未完の脚本
主人公候補
レオンが眉をひそめる。
「舞台袖が場所なら、旧地下聖堂や白波結界院とは別の隠し場所か」
フィン先生が頷く。
「あるいは、記録上の隠し階層だ。表舞台ではなく、記録の横にある領域」
「記録の横……」
俺は考える。
脚本には本文がある。
台詞があり、ト書きがあり、場面がある。
でも、舞台袖には、観客から見えない準備がある。
役者が待ち、道具が置かれ、次の場面が始まる前の場所。
もしナツキが第三幕を隠すなら。
本文の中ではなく、舞台袖。
記録本文ではなく、索引でもなく。
閲覧されない余白。
「未完の脚本」
俺は呟いた。
「第三幕の第四断片は、完成した記録じゃなくて、未完の脚本として隠されているのかもしれない」
リュミエルが頷く。
「だから所在不明。正式な記録として登録されていない」
「名無しの観測者は?」
ミラが聞く。
教室が少し静かになった。
俺はタイムラインを見る。
【用語反応】
名無しの観測者
舞台袖
未完の脚本
主人公候補
解析不能。
ただし、相互関連性あり。
「まだ分からない」
俺は答えた。
「でも、主人公候補って言葉が俺に反応してる」
セリアが嫌そうな顔をする。
「それ、絶対ろくでもないやつじゃない」
「同感」
フィン先生が言う。
「今日はここまでだ。外部構造ログを解析して、明日“舞台袖”を探す」
「旧地下聖堂にはもう行かないんですか?」
「今はな」
先生は黒板を見る。
「第二幕は読まされる。なら、第三幕へ行く道を先に探す」
俺は頷いた。
それが、ナツキが残した道だ。
たすけて。
私は、まだ終わっていない。
第三幕を探して。
ここで終わらせない。
ありがとう。
第三幕は、舞台袖にある。
彼女の言葉が、少しずつ線になっていく。
脚本家が残した筋書き。
俺たちはそれを追っている。
ただし、盲目的にではない。
罠かもしれない。
誘導かもしれない。
それでも、読まされるのではなく、こちらから読む。
俺は黒板の端に新しく書いた。
【第三幕は、舞台袖にある】
その瞬間、タイムラインが淡く光った。
【新規目標更新】
舞台袖を探す。
候補:
・記録本文外の余白領域
・未登録脚本断片
・名無しの観測者に関する記録
・第三幕計画書第四断片
重要度:
最大
俺はチョークを置いた。
旧地下聖堂の闇は、まだ背中に残っている。
でも、今夜も戻ってこられた。
入らなかった。
読まされなかった。
ナツキの新しい一行を拾った。
それで十分だ。
第二幕は、俺たちを飲み込めなかった。
次に探すのは、舞台袖。
物語の表からは見えない、第三幕の入口だ。




