第4話 神約の呪印
【神約の呪印】
その文字を見た瞬間、俺の呼吸が止まった。
リュミエル・アークレイン。
王立アルカディア魔導学園の特待生。
さっき出会ったばかりの、銀髪のエルフの少女。
彼女の右手首に刻まれていた黒い痣。
それはただの傷でも、病でもなかった。
【システム表示】
編集対象を検出しました。
対象:リュミエル・アークレイン
状態:
【神約の呪印】
実行可能操作:
【カット】
警告:
対象の生命維持記述と接続されています。
安易な編集は、対象の死を招きます。
死を招く。
その言葉だけが、頭の中で何度も反響した。
「……お前、これ」
「見ないで」
リュミエルは短く言った。
さっきまで冷静だった声が、ほんの少しだけ硬くなっている。
彼女は袖を下ろし、右手首を隠した。
たったそれだけの仕草なのに、なぜか胸が痛んだ。
ああ。
これは、触れられたくないものなんだ。
俺にも分かる。
見せたくない傷。
知られたくない弱さ。
説明した瞬間、自分の一部が壊れてしまいそうなもの。
誰にでも、そういう場所はある。
「悪い」
俺は視線を逸らした。
「勝手に見た」
「……あなたのせいじゃないわ。そのスキルが勝手に拾っただけでしょう」
「それでも、見たのは俺だ」
リュミエルは黙った。
少しだけ沈黙が落ちる。
ダンジョンの奥では、水滴の音が規則正しく響いていた。
ぽたり。
ぽたり。
まるで、時間が少しずつ削られていく音みたいだった。
「行くわ」
リュミエルは背を向けた。
「ここで話すことじゃない」
「隠し研究室って言ってたな」
「ええ」
「信用していいのか?」
「信用しなくていい。今は、選択肢が少ないだけ」
正直すぎる。
でも、その正直さは嫌いじゃなかった。
俺は彼女の後を追った。
リュミエルは、迷いのない足取りでダンジョンの脇道へ入っていく。
そこは一見、ただの行き止まりだった。
古い石壁。
苔。
崩れた瓦礫。
何もない。
だが、リュミエルが壁の一部に手をかざすと、星屑のような光が走った。
石壁に、細い線が浮かぶ。
いや、線じゃない。
魔法陣だ。
「下がって」
言われた通り、一歩下がる。
リュミエルが小さく詠唱した。
「星は隠れ、月は沈み、扉は名を忘れる」
すると、壁の一部が音もなく横へ滑った。
「……秘密基地かよ」
思わず呟く。
「研究室よ」
「男の子なら全員好きなやつだぞ、これ」
「あなた、死にかけていた割には元気ね」
「元気じゃない。テンションでごまかしてる」
「でしょうね」
リュミエルは淡々と返し、中へ入っていった。
俺も続く。
壁の向こうは、思っていたより広かった。
石造りの小部屋。
天井には淡い青白い灯り。
棚には魔導書や水晶、乾燥した薬草、用途不明の金属片。
中央には大きな机があり、その上に複雑な魔法陣が描かれている。
部屋の奥には、学園の制服らしきものも掛けられていた。
ここは単なる隠れ家じゃない。
本当に研究室だ。
リュミエルは扉を閉めると、壁の魔法陣に手を置いた。
「これでしばらくは外から見つからない」
「神殿の監視も?」
「完全には無理。でも、時間稼ぎにはなる」
「時間稼ぎか」
「ええ。安心するには足りないけれど、絶望するにはまだ早い」
言い方が、妙に心に残った。
安心するには足りない。
絶望するにはまだ早い。
俺の今の状況に、ぴったりすぎる。
リュミエルは棚から小瓶を取り出し、俺に投げて寄こした。
「飲んで」
「毒じゃないよな?」
「毒なら、あなたが切ればいいでしょう?」
「怖いこと言うな」
瓶の中身は、薄い琥珀色の液体だった。
匂いは少し薬草っぽい。
俺は恐る恐る口に含む。
苦い。
「うっわ、まず」
「体力回復薬よ。高いのよ、それ」
「急にありがたみが増した」
飲み込むと、胸の奥が少し温かくなった。
足の震えも、わずかに落ち着く。
完全回復とはいかない。
けれど、少なくとも倒れずには済みそうだ。
リュミエルは机の上に水晶板を置いた。
「アキト・アオキ。あなたのスキルを確認する」
「いきなり本題だな」
「悠長にしていたら、神殿が来る」
「まあ、それはそうか」
「手を置いて」
水晶板の表面には、薄く魔法陣が刻まれていた。
俺は少し迷った。
この子は俺を助けてくれた。
でも、まだ出会って数十分だ。
ここでスキル情報を全部抜かれる可能性だってある。
リュミエルは、俺の迷いに気づいたようだった。
「強制はしない」
「……いいのか?」
「あなたに協力してほしい。でも、無理やり調べたら、レオンたちと同じでしょう」
その名前が出た瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
レオン。
セリア。
ノルン。
俺を置いていった仲間たち。
いや、もう仲間じゃない。
仲間だったと思っていた人たち。
リュミエルは静かに続けた。
「私は、あなたを利用したい」
「そこは隠せよ」
「隠しても意味がないわ」
「正直すぎるだろ」
「でも、あなたを道具にはしない」
その言葉に、俺は彼女を見た。
翡翠色の瞳が、まっすぐ俺を見返している。
「私には知りたいことがある。あなたの力なら、それに近づけるかもしれない。でも、あなたが嫌がるなら、無理には触れない」
「……変なやつだな」
「よく言われる」
「誰に?」
「先生に」
少しだけ、空気が緩んだ。
俺は息を吐き、水晶板に手を置いた。
「分かった。調べてくれ。ただし、俺も知りたい」
「何を?」
「この力が何なのか。俺が何をできて、何をしたら危ないのか」
リュミエルは頷いた。
「当然ね」
水晶板が淡く光る。
俺のステータスが、空中に浮かび上がった。
【ステータス】
名前:アキト・アオキ
レベル:2
職業:編集者
筋力:E
耐久:E
敏捷:D
魔力:D
知力:A
精神:B
固有スキル:
【編集操作 Lv.1】
使用可能操作:
【カット】
【ペースト】
保存スロット:
1
称号:
【世界から見捨てられた者】
【追放者】
リュミエルは表示を見つめたまま、眉を寄せた。
「やっぱり、普通のステータスじゃない」
「どこが?」
「文字の奥に、別の文字がある」
「別の文字?」
「普通の人間のステータスは、表面に表示されるだけ。でもあなたのものは、下に何層も重なっている。まるで、書き換え可能な原稿みたいに」
原稿。
編集者。
台本。
世界の記述。
点と点が、嫌な感じで繋がっていく。
「俺の職業って、本当に編集者なのか?」
「表面上はね」
「表面上?」
リュミエルは水晶板に指を滑らせた。
すると、職業欄の【編集者】の文字が一瞬だけぶれた。
その下に、別の文字が見えた。
けれど、読めない。
黒く塗りつぶされている。
【システム表示】
閲覧権限が不足しています。
「……権限?」
俺が呟くと、リュミエルも険しい顔をした。
「神殿式の封印に似ている。でも、もっと古い」
「つまり?」
「あなたの職業は、誰かに隠されている」
「誰かって」
「神、かもしれない」
部屋が静まり返った。
神。
この世界では、それは信仰の対象だ。
職業を与え、スキルを与え、ステータスを与える存在。
その神が、俺の職業を隠している?
「なんで俺なんだ」
言葉が漏れた。
「俺はただ、転生して、外れ職になって、追放されただけだ。神に目をつけられるようなことなんて――」
そこまで言って、気づいた。
俺は転生者だ。
この世界の人間ではない。
神の管理する台本に、外から紛れ込んだ異物。
だから?
リュミエルは、俺の表情を見て言った。
「心当たりがあるのね」
「……あるような、ないような」
「無理に話さなくていい。今は」
「今は、か」
「ええ。いずれ聞く」
逃がす気はないらしい。
リュミエルは水晶板から手を離した。
「分かったことを整理するわ」
「助かる。俺も頭が追いついてない」
「一つ。あなたの【編集操作】は、対象の情報を切り取ったり貼り付けたりできる」
「毒とか粘着とか、支えとかだな」
「二つ。編集には対象理解が必要。あなたが“何を切るか”を認識できなければ発動しない」
「たしかに、適当にやった時はスライムを強化した」
「三つ。格上や神殿式の干渉には抵抗される。さっきの監視線を切れたのは、私の結界で弱っていたから」
「成功率二十三パーセントだった」
「低いけど、ありえない数字ではないわ」
リュミエルはそこで一度、言葉を切った。
「四つ。人間の身体や称号、呪いに触れる場合、危険性が跳ね上がる」
俺は、彼女の右手首を見るのをこらえた。
でも、リュミエルは自分から袖を少しだけ上げた。
黒い文字のような痣が、そこにある。
細い鎖のような模様。
よく見ると、それは皮膚の上にあるというより、皮膚の奥に書き込まれているように見えた。
「これが、さっき見えたものよ」
「神約の呪印」
「ええ」
「どういう呪いなんだ?」
リュミエルは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「エルフの里に伝わる契約。神殿は祝福と呼ぶわ。けれど実際は、巫女候補を神に縛るための呪印」
「巫女候補?」
「私は、神に声を届ける器として育てられた」
器。
その言葉が、嫌だった。
人間を人間として見ていない感じがした。
「断れなかったのか?」
「子供の頃に刻まれたものよ。断るには、幼すぎた」
「……そうか」
軽々しく慰める言葉は出なかった。
かわいそうだな、とも言えなかった。
そんな言葉で済むものじゃない。
リュミエルは淡々と続ける。
「この呪印は、私の魔力循環と生命維持に接続されている。無理に剥がせば、魔力の流れが崩れて死ぬ」
「だから、安易な編集は死を招く」
「そう」
彼女は俺を見た。
「でも、あなたのスキルは反応した」
「した」
「今まで、誰もこの呪印に干渉できなかった。王都の治癒師も、エルフの長老も、学園の教授も」
「俺なら切れるかもしれないってことか」
「かもしれない。でも、今は絶対にやめて」
「分かってる。成功率も分からないし、構造も理解してない」
俺は自分の左手を握った。
ポイズンスライムの毒を切った時とは違う。
これは人の命だ。
失敗しました、では済まない。
「俺は、まだお前の呪いを切れない」
リュミエルは少しだけ目を細めた。
「ずいぶん、はっきり言うのね」
「できないことを、できるって言いたくない」
「……そう」
彼女の表情が、ほんの少し柔らかくなった気がした。
「でも、いつか」
俺は続けた。
「ちゃんと理解できたら、その時は試す価値があるかもしれない」
リュミエルは黙った。
長い沈黙。
それから彼女は、小さく息を吐いた。
「あなた、変ね」
「今日二回目だぞ、それ」
「普通なら、助けてやるって言う場面よ」
「言えないだろ。命がかかってるんだから」
「……そうね」
リュミエルは袖を戻した。
その仕草は静かだったが、さっきより少しだけ力が抜けているように見えた。
もしかしたら彼女は、ずっとそういう言葉を浴びてきたのかもしれない。
救ってやる。
治してやる。
任せろ。
奇跡を起こしてやる。
でも、誰も本当には救えなかった。
だからこそ、無責任な希望には疲れている。
なら、俺が言うべきことは一つだ。
「俺は今、弱い」
俺は言った。
「レベル2だし、剣も振れないし、魔法もろくに使えない。編集操作も危なっかしい」
「ええ」
「でも、理解することはできる」
前世から、それだけは得意だった。
人を見る。
流れを見る。
構造を見る。
物語の芯を見る。
「だから、お前の呪いも、この世界の仕組みも、神殿の監視も、全部ちゃんと見てから判断する」
リュミエルは俺を見つめた。
翡翠色の瞳に、青白い灯りが映っている。
「……それは、協力するという意味?」
「条件付きでな」
「条件?」
「俺を道具にしないこと。俺の情報を勝手に神殿や学園に流さないこと。それから」
「それから?」
「俺が追放されたことを、勝手に哀れまないこと」
自分で言って、少し驚いた。
でも、本音だった。
哀れまれるのは嫌だ。
見下されるのも嫌だ。
利用されるのも嫌だ。
俺は、俺の足で立ちたい。
リュミエルはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「分かった。約束する」
「軽くないか?」
「エルフの約束は重いわ」
「そうなのか」
「少なくとも、レオン・グランベルの言葉よりは」
「……毒舌だな」
「事実よ」
少しだけ、笑いそうになった。
その時だった。
部屋の奥に置かれていた小さな水晶が、赤く明滅した。
リュミエルの表情が変わる。
「まずい」
「何だ?」
「外の結界に反応があった」
「神殿か?」
「違う」
リュミエルは水晶に手をかざした。
空中に、外の映像が浮かび上がる。
ダンジョンの通路。
その先に、数人の影。
俺は思わず息を呑んだ。
白銀の鎧。
金色の髪。
苛立った横顔。
レオン・グランベルだった。
隣にはセリアとノルンもいる。
「なんで戻ってきたんだ……?」
俺の声が低くなる。
リュミエルは映像を見ながら言った。
「彼ら、誰かを探しているみたいね」
映像の中で、レオンが舌打ちした。
声が水晶越しに聞こえる。
「アキトの死体を探せ。あいつの荷物に、俺たちの攻略記録が残っているかもしれない」
胸の奥が、冷たくなった。
死体。
こいつらは、俺が死んでいる前提で戻ってきた。
助けに来たんじゃない。
心配して戻ったんじゃない。
自分たちに不都合なものを回収しに来ただけだ。
リュミエルが、ちらりと俺を見る。
「どうする?」
俺は自分の手を見た。
弱い。
まだ弱い。
でも、もう何もできない俺じゃない。
その時、視界の端にシステム表示が浮かんだ。
【システム表示】
対象を検出しました。
対象:レオン・グランベル
対象のスキル構成に、不自然な編集痕があります。
詳細解析には、接触または近距離観察が必要です。
俺は目を細めた。
レオンのスキルに、編集痕?
誰かが、あいつの才能をいじっている?
「リュミエル」
「何?」
「俺、あいつと少し話す」
「正気?」
「分からない。でも、今逃げたら、たぶん大事なものを見落とす」
リュミエルは数秒だけ俺を見つめた。
それから、静かに言った。
「分かった。ただし、私の指示には従って」
「了解」
俺は深く息を吸った。
追放された弱者としてじゃない。
外れ職と笑われた編集者としてでもない。
アキト・アオキとして。
初めて、俺は自分を捨てた相手と向き合うことにした。




