第29話 査問会の朝
朝が来た。
来てしまった。
俺――アキト・アオキは、特異職科の簡易寝台の上で目を開けた。
窓の外は、まだ薄い青色をしている。
夜と朝の境目。
世界が目を覚ます前の、静かな時間。
本来なら、少しだけ綺麗だと思えたかもしれない。
でも今の俺には、その青さが処刑場へ向かう朝みたいに見えた。
「……縁起でもないな」
小さく呟く。
体は重い。
頭も少し痛い。
けれど、昨日までのように思考がぐちゃぐちゃではなかった。
眠れた。
短い時間でも、ちゃんと眠れた。
それだけで、かなり違う。
俺は起き上がり、横に置いていた黒い魔導記録板――【タイムライン】を手に取った。
表面には、これまで集めた記録が静かに並んでいる。
【訓練迷宮記録:レオン補強暴走前後】
【セリア魔術行使記録:外部指揮補正反応】
【勇者候補事故記録・外部履歴】
【レオン治癒副記録・要約】
【神殿式閲覧印・要約】
【神殿式偽装記録貼付】
たった数日で、ずいぶん重いものを抱え込んだ。
昨日までの俺なら、持てなかった重さだ。
いや、今だって重い。
ただ、一人で持っていないだけだ。
教室を見る。
フィン先生は教卓に寄りかかって腕を組んでいた。
寝ているようにも見えるが、たぶん起きている。
ミラは窓枠に座り、外を見張っている。
トーヤは入口近くで盾を抱えて座っていた。
ノルンは机に突っ伏して眠っている。
セリアは腕を組んだまま椅子で寝ていた。
そして、リュミエルは黒板の前に立っていた。
彼女は、昨日の夜に整理した証拠提出順を確認している。
銀に近い髪が、朝の光で淡く光っていた。
「起きたのね」
リュミエルが振り返らずに言った。
「よく分かったな」
「寝起きの気配がしたわ」
「怖いな、エルフ」
「あなたの寝起きが分かりやすいだけよ」
「そんな個性いらない」
リュミエルは少しだけこちらを見た。
「体調は?」
「悪くない。よくもないけど」
「なら、正直でよろしい」
「先生みたいになってきたな」
「心外ね」
その言い方は、少しだけ柔らかかった。
俺は立ち上がり、黒板の前へ行く。
そこには、最終的な流れが整理されていた。
【査問会の基本方針】
一、アキトの能力定義
二、編集倫理と第三者検証体制
三、レオンへの処置は救命目的
四、治癒記録・迷宮記録・魔術記録で補強
五、神殿式補強の安全性検証を提案
六、証拠妨害の可能性は、相手が証拠を疑った時に提示
七、怒りに喋らせない
最後の一文だけ、やたら刺さる。
「七番、すごく大事そうだな」
「一番大事かもしれないわ」
「俺、そんなに怒りそう?」
「怒るでしょう」
即答だった。
「怒ること自体は悪くない。でも、神殿はあなたが怒るのを待っている」
「危険人物に見せるためか」
「ええ」
リュミエルは俺を見た。
「だから、怒った時ほど一拍置いて。私を見るか、タイムラインを見るか、呼吸して」
「リュミエルを見るのが手順に入ってるのか?」
「あなたが暴走しそうな時、私に通知が来るのでしょう?」
「ああ、そうだった」
【止めてくれる者】
俺の編集倫理に刻まれた項目。
俺が本人の同意なく、心・記憶・人格への深層編集をしようとした時、リュミエルに異常通知が行く。
便利なのか、恥ずかしいのか、まだ判断に困る機能だ。
でも、今日に限っては心強い。
「頼りにしてる」
俺が言うと、リュミエルは一瞬だけ目を逸らした。
「ええ。止めるわ」
「そこは支えるって言ってほしかった」
「必要なら支える。でも、間違えたら止める」
「厳しいな」
「約束だから」
約束。
その言葉が、胸に静かに落ちる。
その時、フィン先生が目を開けた。
「朝から青春してるところ悪いが、最終確認だ」
「青春じゃありません」
リュミエルが即答する。
ミラが窓枠からにやにやしながら言った。
「リュミエル様、反応早いね」
「ミラ」
「はいはい、黙りまーす」
絶対に黙らない返事だった。
ノルンとセリアも、その声で目を覚ました。
トーヤはすでに立ち上がり、盾を背負っている。
教室の全員が、自然と黒板の前へ集まった。
フィン先生が言った。
「査問会は正午。場所は中央神殿分室の査問大講堂だ」
「学園内じゃないんですね」
俺が聞くと、先生は頷く。
「王都神殿の出張施設だ。学園の敷地外ではないが、神殿側の管理区域に近い」
「つまり、向こうのホーム」
「そうだ」
胃が少し重くなる。
アウェー戦。
しかも相手は審判も観客も台本も持っている。
なかなかの無理ゲーだ。
「出席者は、神殿査問官三名、中央神殿査察官、学園側立会人としてカサンドラ副院長、俺。証人としてリュミエル、ノルン、セリア、レオン。必要に応じてミラとトーヤも呼ばれる」
「レオンは来るんですか?」
俺が聞くと、フィン先生は少しだけ目を細めた。
「来る。今朝、剣術科から連絡があった」
「状態は?」
「動ける程度には回復している。だが、証言内容は不明だ」
つまり、彼が何を言うかは分からない。
昨日、レオンは言った。
自分の言葉を、神殿のものにはしたくない。
その言葉を信じたい。
でも、完全には信じきれない。
それでいい。
信じることと、丸投げすることは違う。
フィン先生は俺を見る。
「アキト。今日、お前はレオンを味方だと思うな」
「はい」
「敵とも決めつけるな」
「はい」
「証人だ。証人として扱え」
「分かりました」
証人。
レオンは俺を追放した相手であり、神殿式補強の被害者かもしれない人物であり、今日の査問会の証人だ。
簡単なラベルで片付けるな。
それも、今日の戦いの一つだ。
ノルンが、小さく手を上げた。
「あの……私、証言の時に震えるかもしれません」
フィン先生は頷いた。
「震えていい」
「いいんですか?」
「嘘っぽく堂々とするより、震えながら正しいことを言う方が強い時もある」
ノルンの目が少しだけ潤む。
「はい」
セリアが腕を組んだ。
「私は?」
「お前は燃えすぎるな」
「そればっかりですね」
「お前に一番必要な注意だ」
セリアは悔しそうに黙った。
ミラが笑う。
「火力調整、大事」
「あなたは本番で余計なこと言わないでよ」
「それ、先生にも言われた」
「なら守りなさい」
少しだけ教室に笑いが生まれる。
その笑いが、ありがたかった。
緊張は消えない。
でも、緊張だけに支配されない。
俺はタイムラインを胸元に固定した。
今日のこれは、武器であり、盾であり、記録だ。
剣ではない。
魔法でもない。
それでも俺が戦うために必要なもの。
「アキト」
トーヤが近づいてきた。
「何?」
「これを」
彼は小さな革紐を差し出した。
「タイムラインを落とさないように、腕にも固定できる。盾の予備留め具を短くしたものだ」
「いいのか?」
「もちろん」
俺は受け取った。
革紐は頑丈で、でも手首に当たる部分は柔らかい布で巻かれていた。
「ありがとう」
「勝ってから、じゃなくていい」
トーヤは少し笑った。
「これは準備だから」
「助かる」
ミラが近づいてきて、俺の肩を軽く叩いた。
「私はこれ」
そう言って、小さな鈴を渡してきた。
「鈴?」
「鳴らない鈴。消音の術式が少し残ってる。査問会で足音を消す必要はないと思うけど、お守り」
「ミラらしいな」
「でしょ」
鈴は音を鳴らさない。
でも、持っていると不思議と心が少し落ち着いた。
ノルンは小さな白い布を差し出した。
「治癒符。魔力疲労がひどくなったら、握って。少し楽になると思う」
「ありがとう」
セリアはしばらく黙っていた。
そして、少し乱暴に赤い小石を渡してきた。
「火除けの石よ」
「火除け?」
「神殿が感情を煽ってきても、頭を熱くしすぎないように」
「物理的に?」
「精神的にも。たぶん」
「たぶんか」
「文句ある?」
「いや、ありがとう」
セリアは視線を逸らした。
「別に」
相変わらず素直じゃない。
でも、その不器用さが今は少し分かる。
リュミエルは最後に、小さな星形の護符を渡してきた。
「これは?」
「通信符の改良版。あなたの魔力が乱れた時、私にも分かる」
「また監視が増えた」
「止めてほしいと言ったのはあなたよ」
「そうだった」
「それと」
リュミエルは少しだけ声を落とした。
「怖くなったら、これを握って。私が近くにいると分かるから」
俺は星形の護符を受け取った。
小さい。
でも、温かかった。
「ありがとう」
今度は、リュミエルは訂正しなかった。
勝ってから、とは言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
フィン先生が手を叩く。
「よし。出発する」
教室の空気が変わった。
いよいよだ。
俺たちは特異職科の校舎を出た。
朝の学園は、いつも通りだった。
生徒たちが登校し、回廊を歩き、噴水のそばで話している。
魔導科の生徒が本を抱え、剣術科の生徒が訓練場へ向かう。
どこにでもある学園の朝。
だが、俺たちが通ると、空気が少し変わった。
視線が集まる。
「あれ、編集者の……」
「今日、査問会なんだろ?」
「神殿に呼ばれたって本当?」
「レオン様を助けたって聞いたけど」
「でも禁忌職なんじゃ……」
噂が波のように広がる。
俺は歩きながら、手首の革紐を確かめた。
タイムラインはしっかり固定されている。
大丈夫。
視線には、もう少し慣れた。
嫌だけど。
全然嫌だけど。
でも、潰れるほどではない。
リュミエルが隣を歩いている。
フィン先生が前にいる。
ミラとトーヤが後ろにいる。
ノルンとセリアも少し離れてついてきている。
一人じゃない。
その事実を、何度も確認する。
やがて、白い石造りの大きな建物が見えてきた。
中央神殿分室。
学園の敷地内にありながら、そこだけ空気が違った。
尖った屋根。
白い柱。
金色の聖印。
正面には、巨大な扉。
扉の前には、神官兵が二人立っている。
そして、その中央に。
白い法衣の男がいた。
中央神殿査察官。
彼は、俺たちを待っていた。
「来たか」
仮面の奥の声は冷たかった。
俺は足を止めない。
真正面から、彼を見る。
「来ました」
「逃げなかったことは評価しよう」
「逃げる理由がありません」
本当は怖い。
逃げたい気持ちも、ゼロではない。
でも、それを理由に背を向けたら、神殿の台本通りになる。
査察官は、俺の手元のタイムラインを見た。
「その記録板を持ち込むつもりか」
「はい。証拠媒体です」
「危険物でもある」
「学園側立会人の管理下で提示します」
フィン先生が横から言う。
「持ち込み許可は事前に出してある。文句があるならカサンドラに言え」
査察官は少しだけ黙った。
どうやら、副院長の名前は効くらしい。
「入れ」
巨大な扉が開いた。
中から、冷たい空気が流れてくる。
俺は一歩、足を踏み入れた。
そこは、大きな円形の講堂だった。
高い天井。
白い壁。
正面には、三つの高い席。
その中央に、金色の聖印が掲げられている。
周囲には、神官、学園関係者、何人かの貴族らしき人物。
そして、別の入口から入ってきたレオン・グランベルの姿が見えた。
右腕には包帯。
顔色はまだ少し悪い。
だが、目は昨日よりもはっきりしていた。
俺と目が合う。
レオンは何も言わない。
俺も何も言わない。
ただ、お互いに一度だけ頷いた。
それだけで十分だった。
リュミエルが隣で小さく言う。
「始まるわ」
「ああ」
俺はタイムラインに触れた。
手首の革紐。
ミラの鳴らない鈴。
ノルンの治癒符。
セリアの火除け石。
リュミエルの星形護符。
みんなの準備が、俺の手元にある。
正面の高い席に、三人の査問官が座った。
中央の老神官が、重々しく口を開く。
「これより、アキト・アオキに関する神殿査問会を開く」
講堂に、その声が響いた。
ついに、始まった。
神殿が用意した台本の中へ、俺は足を踏み入れた。
でも、ただ読まれるために来たわけじゃない。
俺は、俺の言葉を持ってきた。
外れ職ではなく。
禁忌職でもなく。
編集者、アキト・アオキとして。
この場で、最初の一文を書き換える。




