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第21話 破れた台本

夜の風は、思っていたより冷たかった。


俺――アキト・アオキは、剣術科療養棟の二階の窓から外へ降りた。


正確には、降りたというより、リュミエル・アークレインの風魔法に支えられて、地面に落とされないように運ばれた。


足が芝生に触れた瞬間、膝が少し震えた。


高いところが苦手なわけじゃない。


ただ、今日は精神の高低差が激しすぎる。


レオン・グランベルの証言誘導印を切った。

神殿式の自動通報線も切った。

しかも場所は剣術科の療養棟。


普通に考えて、完全にアウト寄りだ。


「……これ、バレたら査問会前に詰むやつだよな」


俺が呟くと、隣に着地したリュミエルが淡々と答えた。


「もう半分くらい詰んでいるわ」


「そこは励ましてくれ」


「でも、まだ詰み切ってはいない」


「将棋みたいに言うな」


「詰み切っていないなら、まだ指せる手はあるでしょう?」


その言葉に、俺は少しだけ息を吐いた。


リュミエルらしい励まし方だった。


優しく包むというより、冷たい水で顔を洗わせてくる感じ。


でも、今の俺にはそれくらいがちょうどいい。


療養棟の二階。

さっきまで俺たちがいた部屋の窓には、まだ明かりがついている。


その向こうで、扉が開く音がかすかに聞こえた。


誰かがレオンの部屋に入ったのだ。


神殿関係者か。

剣術科の教官か。

それとも、ただの見回りか。


俺たちは窓の下の植え込みに身を隠した。


リュミエルが指先で小さな魔法陣を描く。


星屑のような光が俺たちの周囲に広がり、すぐに薄い膜となって消えた。


「認識阻害?」


「簡易版よ。声は小さくして」


「了解」


俺は息を潜める。


窓の向こうから、低い声が聞こえた。


「レオン・グランベル。今、誰かと話していたか」


神殿関係者の声ではない。


剣術科の教官らしき男の声だ。


続いて、レオンの声。


「誰も」


短い。


だが、以前のような高圧的な響きは薄かった。


「窓が開いている」


「暑かったので」


「夜だぞ」


「熱が残っているんです。治療後なので」


少し無理がある。


俺は思わず顔をしかめた。


レオン、嘘が下手だ。


人のことは言えないが。


教官はしばらく黙った。


「神殿の監査役から連絡があった。君の証言内容について、明日再確認するそうだ」


「……分かりました」


「無理はするな。君は勇者候補だ。神殿も学園も、君の回復を最優先する」


その言葉に、俺は違和感を覚えた。


最優先。


聞こえはいい。


でも、レオン本人ではなく、勇者候補という役割を守っているように聞こえた。


レオンも同じことを感じたのかもしれない。


少し間があった。


それから彼は言った。


「先生」


「何だ」


「勇者候補とは、何ですか」


窓の下で、俺は息を止めた。


教官も沈黙した。


その問いは、今のレオンにとって重すぎるものだった。


自分の強さを疑い始めた勇者候補。


神殿から何かを貼り付けられていると気づきかけた少年。


その彼が、自分の役割を初めて問い直している。


教官は、しばらくして答えた。


「神に選ばれ、民を守る者だ」


たぶん、模範解答だった。


正しい。

綺麗。

何の傷もない。


でも、今のレオンが欲しい答えではない。


レオンの声が、小さく続いた。


「では、神に与えられた力が、自分を壊す時は?」


教官の声が止まった。


俺の胸が、少しだけ熱くなる。


言えた。


証言誘導印を完全に切れたわけじゃない。


それでも、レオンは自分の疑問を口にした。


自分の言葉で。


「……疲れているな」


教官は、結局そう言った。


「今日は休め。余計なことを考えるな」


余計なこと。


その言葉に、リュミエルの眉がわずかに動いた。


俺も同じだった。


余計なことじゃない。


自分の体と、自分の力と、自分の人生に関わる疑問だ。


それを余計なことと呼ぶなら、その世界の方が歪んでいる。


やがて教官が部屋を出ていく足音が聞こえた。


しばらくして、窓の向こうにレオンの影が立った。


彼は外を見下ろした。


俺たちがいる場所を正確に見つけたわけではないだろう。


でも、こちらに向かっているように見えた。


そして、短く言った。


「借りは作らん」


声は小さい。


それでも聞こえた。


俺は植え込みの中で小さく苦笑した。


「素直じゃないな」


リュミエルが隣で言う。


「あなたも、人のことを言えないわ」


「俺、そんなに素直じゃないか?」


「かなり」


「即答か」


「事実よ」


いつもの言葉。


でも、その声は少しだけ柔らかかった。


俺たちは慎重に療養棟を離れた。


中庭には夜霧が薄く降り始めていた。


魔法灯の明かりが霧に滲み、学園全体が淡い夢の中に沈んでいるように見える。


その美しさが、逆に怖かった。


この静かな学園の裏で、神殿は証拠を回収し、証言を誘導し、人の能力に補強を貼り付けている。


表面は綺麗でも、下のレイヤーには別のものがある。


俺の【編集操作】が見せる世界そのものだ。


「リュミエル」


「何?」


「神殿って、昔からあんな感じなのか」


彼女は少しだけ歩く速度を落とした。


「少なくとも、私が知っている限りでは」


「エルフの里も、神殿と関係が深いのか?」


「深いわ」


短い答えだった。


それ以上聞いていいのか迷った。


彼女の右手首にある【神約の呪印】。


神に声を届ける器として育てられた少女。


子供の頃に刻まれた呪印。


俺はその情報を知っている。


でも、知っているからといって、踏み込んでいいわけじゃない。


俺が黙っていると、リュミエルがこちらを見ずに言った。


「聞かないの?」


「聞いていいのか分からなかった」


「あなたにしては慎重ね」


「少しは学習してる」


「ええ。少しは」


少しか。


まあ、ゼロよりはいい。


リュミエルは夜の中庭を見ながら、静かに言った。


「エルフの里では、長く生きる者ほど神に近いと教えられるわ。長命は祝福。魔力は神からの贈り物。優れた血筋は、神に仕える義務を持つ」


「リュミエルも?」


「ええ。私は幼い頃から、神の声を聞くための器として育てられた」


彼女の声は平らだった。


でも、平らすぎた。


感情を削って、言葉だけを残したみたいだった。


「神約の呪印は、そのためのものか」


「そう。神との契約を安定させるため、と説明されたわ」


「実際は?」


「神殿と里が、私を逃がさないための鎖」


俺は何も言えなかった。


鎖。


レオンの喉にあった証言誘導印。

右腕に絡んだ神殿式補強。

リュミエルの手首に刻まれた神約の呪印。


形は違っても、全部同じだ。


人に役割を貼り付ける。


勇者候補。

巫女候補。

外れ職。

禁忌職。


この世界は、誰かに名前をつけるのが好きすぎる。


そして、その名前で人を縛る。


「俺は」


言いかけて、少し迷った。


でも、言った。


「いつか、その呪印もちゃんと見たい」


リュミエルが足を止めた。


俺も止まる。


月明かりの下で、彼女の翡翠色の瞳が俺を見た。


「切るために?」


「切れるかどうかを決めるために」


俺は答えた。


「今の俺には無理だ。構造も分からない。失敗したら、お前が死ぬかもしれない」


「ええ」


「だから今すぐ助けるとは言えない。でも、見ないふりはしたくない」


リュミエルは黙っていた。


長い沈黙。


夜風が彼女の髪を揺らす。


やがて、彼女は小さく言った。


「あなたは、ずるいわ」


「え?」


「救うとは言わない。でも、見捨てるとも言わない」


「無責任に救うって言えないだけだ」


「それが、ずるいのよ」


言葉だけ聞けば責められているようだった。


でも、その声は冷たくなかった。


リュミエルは少しだけ目を伏せる。


「私はずっと、助けると言われるのが嫌いだった」


「どうして?」


「誰も本当には分かっていなかったから。呪印の構造も、私の痛みも、死ぬかもしれない怖さも」


彼女は右手首にそっと触れた。


「助けると言われるたびに、私は期待して、諦めて、また少しずつ疲れた」


俺は胸が痛くなった。


「だから、救うって言わなかったのは正解だったか?」


「悔しいけれど、たぶん」


「悔しいのか」


「ええ」


少しだけ、彼女の表情が緩んだ。


「あなたの言葉は、期待させすぎない。でも、完全には諦めさせてもくれない」


「それはいいことなのか?」


「まだ分からないわ」


「そっか」


「でも」


リュミエルは俺を見る。


「今は、それでいい」


その言葉は、静かに胸に落ちた。


派手な約束じゃない。

運命の告白でもない。

恋愛と呼ぶには、まだ遠い。


でも確かに、俺たちの間に何かが一つ積み重なった気がした。


小さくて、壊れやすくて、でも温かいもの。


俺たちは再び歩き出した。


特異職科の校舎が見えてくる。


古い壁。

暗い窓。

いつ見ても、普通の学園の中で浮いている建物。


でも今は、そこに戻ることに少し安心している自分がいた。


扉を開けると、教室の中はまだ明るかった。


フィン先生が黒板の前で腕を組んでいる。

ミラは机の上で寝転がりながら、片目だけ開けた。

トーヤは椅子に座って盾の点検をしている。

ノルンも、教室の端に座っていた。


彼女がここにいることに、俺は少し驚いた。


「ノルン?」


彼女は立ち上がる。


「ごめんね。来ちゃった」


「神聖科は大丈夫なのか?」


「たぶん、あまり大丈夫じゃない」


「それは大丈夫じゃないやつだな」


ノルンは弱く笑った。


でも、その目は逃げていなかった。


「治癒副記録の写し、もう一つ作れたの」


そう言って、彼女は胸元の聖印から小さな光の板を取り出した。


「神聖科の正式な保管形式じゃないけど、私個人の治癒メモとしてなら残せると思って」


フィン先生が光板を受け取り、目を通した。


「よくやった。これで副記録は二系統になる」


「神殿に知られたら怒られますよね」


ノルンが不安そうに言う。


フィン先生は真顔で答えた。


「怒られるどころじゃないかもしれん」


「ですよね……」


「だが、よくやった」


その一言で、ノルンの目に少しだけ涙が浮かんだ。


褒められ慣れていない顔だった。


俺はその表情を見て、昨日の彼女を思い出す。


何も言えず、俺を止められなかったノルン。


その彼女が、今は自分の意思で記録を持ってきている。


人は、一度の勇気で劇的に変わるわけじゃない。


でも、一つずつなら変われる。


俺も、そうだった。


フィン先生が俺を見る。


「レオンはどうだった」


「証言誘導印がありました」


教室の空気が変わる。


ミラが体を起こす。

トーヤが盾を持つ手を止める。

ノルンが息を呑んだ。


俺は続けた。


「本人の同意を取って、一部だけ切りました。完全解除は無理でした。でも、神殿式補強への疑いを口にできる程度にはなっています」


フィン先生はしばらく黙っていた。


そして、ゆっくり言った。


「かなり危ない橋を渡ったな」


「はい」


「自動通報は?」


「出ました。通報線は切りました。たぶん完全には届いていないと思います」


「お前の“たぶん”は信用していいのか?」


リュミエルが即座に言った。


「あまり」


「ですよね」


俺が肩を落とすと、ミラが笑った。


「でも、レオン様が自分の言葉で話せるようになったなら、大きいんじゃない?」


「そうだな」


フィン先生は黒板に新しい項目を書いた。


【レオン証言】

・証言誘導印あり

・一部解除済み

・本人が神殿式補強への疑問を自覚

・ただしアキトへの敵意は残存


「最後、書く必要あります?」


俺が聞くと、先生は頷いた。


「ある。レオンは味方ではない。そこを勘違いするな」


「はい」


「だが、敵として固定する必要もない」


フィン先生はチョークを置いた。


「神殿が用意した台本では、レオンは被害者で、お前は加害者だ。だが実際には、レオンもまた神殿式補強の被害者かもしれない」


「加害者であり、被害者」


俺が呟くと、先生は頷いた。


「そうだ。人間は単純な役割だけで切り分けられない」


その言葉は、俺の胸に深く残った。


編集操作は切る力だ。


でも、何でも簡単に切り分ければいいわけじゃない。


レオンは俺を傷つけた。

それは事実。


でも、彼もまた何かに縛られている。

それもたぶん事実。


どちらか片方だけを見れば、物語は簡単になる。


でも、簡単な物語ほど、人を見誤る。


「さて」


フィン先生が黒板を叩く。


「これで証拠と証人の下準備はだいぶ整った。次は、査問会で神殿が使ってくるであろう“言葉の罠”を潰す」


「言葉の罠?」


「そうだ」


先生は黒板に大きく書いた。


【神殿の質問は、答えた瞬間に罪を認めさせる形で来る】


そして、例文を書いた。


【あなたは神の加護を傷つけたことを認めますか?】


「これに“はい”と答えたら?」


俺が聞くと、フィン先生は言う。


「神の加護を傷つけた異端になる」


「“いいえ”なら?」


「レオンへの干渉を否定した虚偽証言者になる」


「詰んでません?」


「だから、その質問には直接答えるな」


「どう答えるんですか?」


フィン先生は黒板に模範回答を書いた。


【私は神の加護を傷つけたのではなく、対象者の魔力回路を損傷させていた過剰稼働部分を、救命目的で一時的に除去しました。】


「質問の枠を変える」


リュミエルが言った。


「相手が“加護を傷つけたか”と聞いてきたら、“救命処置として何をしたか”に戻すの」


「話題のペースト先を変える感じか」


俺が言うと、フィン先生がにやりと笑った。


「いい表現だ。査問会では、言葉のペースト先を間違えるな」


言葉のペースト先。


確かに、相手の言葉にそのまま貼り付いたら負ける。


相手が用意した台本の中で話すのではなく、こちらの文脈に貼り直す。


その練習が始まった。


フィン先生が査問官役。

リュミエルが補足役。

ミラが意地悪な野次役。

トーヤが、俺が詰まった時に「今のは分かりにくい」と率直に言ってくれる役。

ノルンは、治癒師としての言葉の整合性を確認してくれた。


「あなたの能力は危険ですね?」


「危険性はあります。だからこそ、使用条件と制限を明確にしています」


「神殿の管理下に入るべきでは?」


「管理ではなく、監督と検証は必要だと考えます。ただし、本人の意思を無視した拘束は危険です」


「勇者候補への干渉を後悔していますか?」


「同意を取れなかった点は反省しています。ただし、救命判断そのものは必要だったと考えます」


何度も詰まった。


何度も言い直した。


ミラには「新人くん、それだと危険人物っぽい」と笑われた。

リュミエルには「感情を出しすぎ」と注意された。

フィン先生には「綺麗すぎて嘘くさい」と切られた。

トーヤには「今の方が分かりやすい」と救われた。

ノルンには「治癒師の言い方だと、こうです」と助けられた。


気づけば、夜は深くなっていた。


それでも、不思議と一人で戦っている感じはしなかった。


俺の言葉を、みんなで整えている。


まるで、一つの作品を作っているみたいだった。


前世で、俺が好きだった時間に似ていた。


誰かのアイデアを拾い、不要な部分を削り、流れを作り、最後に一つの形にする。


俺はやっぱり、こういう作業が好きだ。


「よし」


フィン先生がようやくチョークを置いた。


「今日はここまで」


俺は机に突っ伏しそうになった。


「寝ていいんですか」


「五時間だ」


「増えた」


「成長報酬だ」


「睡眠時間が報酬になる人生、なかなか厳しいですね」


ミラがあくびをしながら笑う。


「新人くん、査問会終わったら十時間寝なよ」


「そうする」


トーヤが立ち上がる。


「俺は明日の朝、盾の訓練場にいる。必要なら呼んでくれ」


「ありがとう」


ノルンも小さく頭を下げた。


「私も、治癒記録の言い方をもう少し整理してくる」


「無理するなよ」


俺が言うと、彼女は少しだけ笑った。


「アキトくんに言われると、説得力がない」


「それはそう」


リュミエルは、最後まで黒板の前に残っていた。


俺がタイムラインを片付けていると、彼女が静かに言った。


「アキト」


「何?」


「今日、レオンの印を切った時」


「うん」


「あなたは、ちゃんと待てた」


一瞬、何のことか分からなかった。


でもすぐに理解した。


本人の同意を待ったこと。


勝手に切らなかったこと。


「当たり前のことだろ」


「その当たり前を、力を持った人間が守るのは難しいわ」


リュミエルは俺を見る。


「特に、救いたい相手が目の前にいる時は」


その言葉が、胸に静かに刺さった。


彼女自身のことを言っているのかもしれない。


神約の呪印。


俺がいつか触れるかもしれない、彼女の鎖。


「忘れないようにする」


「ええ」


彼女は少しだけ微笑んだ。


本当に少しだけ。


でも、夜の魔法灯よりも、その表情の方が明るく見えた。


その時、タイムラインが淡く光った。


【システム表示】


複数の証拠・証言・想定問答を整理しました。


【タイムライン解析 Lv.1】が成長しました。


新規補助機能:

【対話ログ整理】


効果:

会話内の矛盾点、誘導質問、隠された前提を検出しやすくなります。


査問会対策に有効です。


俺は表示を見て、小さく笑った。


「ようやく、査問会向けの能力が来た」


リュミエルが首を傾げる。


「何が出たの?」


「対話ログ整理。誘導質問や隠された前提を見つけやすくなるらしい」


「それは大きいわね」


「ああ」


少しずつ、武器が増えている。


剣ではない。

魔法でもない。

でも、俺にしか使えない武器。


神殿が言葉で縛るなら、俺はその言葉の継ぎ目を見る。


神殿が台本を書くなら、俺はその台本の構成を読む。


そして、必要なら。


切る。


夜の特異職科に、静かな風が吹き込んだ。


査問会まで、あと二日。


神殿の台本はまだ強い。


けれど、俺たちの手元にも、少しずつページが集まり始めていた。

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