第二十五譜 初めての『おかえり』
黄昏時を超え、【邪気】の濃度が急激に下がり、〈斎火の天蓋〉による浄火の反応が収まるこの時間。空が〈漆黒色〉に染まり始めた頃、第二環の外れにある人気の薄いところにエトナたちは立っていた。
「ここが?」
「そ。僕が生まれた時から学生寮に入るまで暮らしてた孤児院〈ヴェンタス〉だ。さ、入ろ」
「う。うん。でも本当に良かったの? ああは言ったけど、こんな遅くに押しかけて迷惑じゃなかった……?」
「大丈夫大丈夫。元々今日は帰るって言ってあったし、おばあちゃん賑やかな方が好きだからさ。いつも一人だから、多分むしろ大喜びするんじゃないかな」
「一人? 他の子はいないの?」
「うん。孤児院って言っても、元々はやってなかったらしくてね。孤児院を始めたのは16年前に僕がここに来てからなんだってさ。だから、その時にはもう都市に近い立派な国営孤児院にみんな入ってたんだ」
「……あぁ、そういうこと。確か、【赫醒戦】の後に孤児院がすぐに何個も設立されてたわね」
「うん、〈アーデンス〉もその中の一つじゃない?」
「えぇ、そうね。でも、こんなところがあるんだったら私も『ここ』に入りたかったな。いくら捨てるからって、生かしておくならもうちょっと気楽に過ごせる場所にしてくれてたら良かったのに」
過去のことはもう乗り切ったエトナが〈ヴェンタス〉を見上げながら、呆れと一緒に羨望の眼差しを送る。
今はもう少なくなった木造建築。年代を感じさせる深い色は、【第七次赫醒戦】にも耐え抜いたという強い逞しさの証明だ。
聖鉱石によって作られる荘厳さはないが、見ているだけでも心が落ち着く様な温もりがあった。
自分を愛してくれているアッシュがいること、そんな優しい彼を育てた院長――お婆ちゃんがいるこの場所なら……と思わずにはいられない。
「なら、これからはここをエトナの帰る場所にしてもいいよ」
「え?」
「学生寮に入っているけど、『実家』があるのとないのとじゃ、気持ちの楽さが違うでしょ? エトナならお婆ちゃんも大歓迎だろうし、どう? ちなみに僕は、エトナと一緒にここに帰って来られるならとっっっても嬉しいけど」
いつも通りのアッシュの『普通』の優しさ。けれど、それがどれだけエトナの心を温めることか。その感動の大きさは、エトナだけが感じ取っていた。
「じゃ、じゃあお願いします…」
「よし! じゃあそうと決まれば――」
木製のドアノブに手をかけ、ガチャリと扉を開く。
と、その時。アッシュの腹ど真ん中に小さな足が見事に突き刺さった。
「ごふっ!!」
「ア、アッシュ!!? ちょ、なにが起きたの……!? しゅ、襲撃!?」
崩れ落ちるアッシュにあたふたするエトナ。急激すぎる展開についていけていない。
とにかく、アッシュを起こしながら蹴った犯人を見ると――
否、見下ろすと。
「――帰ってくるなんて、だめ! そっちの女のこはいいけど、あなたは今すぐ帰りなさいアッシュ!!」
「え……?」
金髪幼女が、くりくりの目を釣り上げてアッシュを睨んでいた。
一体どれだけ嫌われているのか、幼女は床に蹲るアッシュに『ベーっ』と舌を出している。
と、気が済んだのか今度はエトナを見るのだが、その眼差しは別人かと思うくらいとても柔らかい
「ごめんなさいね〜、こんな男に連れて来られてこわかったでしょ〜。おわびに、ごちそう食べていって。たっくさん用意してあるから」
「え? え?」
「ちょ、ま……て……」
舌足らずながらも、なぜか年季を感じさせる様な口調。小さな手に引っ張られながら、エトナは混乱するばかりだった。
「(ど、どういうこと……!? さっき、アッシュは『一人』って言ってたわよね!? 孤児の子もいないって言ってたし……! え、もしかしてこの子が『お婆ちゃん』!?)」
とんでもない結論に至ってしまうほど頭の中がぐるぐるさせていると、落ち着きを感じさせる救いの声が現れた。
「――これこれ、ユズハちゃん。お客さんの前で、アッシュに乱暴なんてしたらダメだよ」
「……出来ることなら、お客さんがいなくてもして欲しくないんだけど」
「あ、オルガ!!」
奥から笑みを浮かべて現れた恰幅のいいお婆さん――オルガにパタパタと近づくユズハ。それから私のっと言わんばかりにオルガの足を抱きしめ、アッシュに勝ち誇った笑みを見せた。
「えっと……アッシュ。あの子は……?」
「……あの子はユズハ。ここら辺に住んでる子なんだけど、お婆ちゃんのことが大好きでね……。気が付いた時にはここに入り浸ってるんだ。僕にはちっとも懐いてないから、いつもあんな感じなんだけど……」
「うん、それはなんとなく見てたら分かるかも……。大丈夫? 色んな意味で」
「慣れたよ……」
とは言うものの、子供にちっとも懐かれないというのはさしものアッシュでも心が辛いらしい。
肩を落とし、悲しげな顔で珍しく意気消沈する姿にエトナは『可愛い』と心の中に収める。
「まぁ僕のことはいいや。それより、お婆ちゃんなんでユズハがこの時間にいるの?」
「どうやらユズハちゃんのご両親が体調不良らしくてね。移しちゃいけないからって明日まで預かってるんだよ」
「体調不良……? また、珍しいね」
「そういうこともあるんでしょうよ。それよりアッシュ、早くアタシにそのお嬢ちゃんを紹介してくれないかい? アッシュが会わせてくれる日をずっと待ってたんだから」
「あ、ごめんごめん。彼女はエトナ。僕の大事な大事なパートナーだよ」
エトナが勢いよく頭を下げる。
「は、初めまして! エトナ・アンデルシアンって言います! アッシュとは〈合力〉のパートナーで、戦友で……」
「愛する人、なんでしょう?」
「〜〜〜〜〜ッ! え、あ……!」
――そうだけども。
自分の紹介で『息子さんを愛しています』なんて言うのは気恥ずかしくて言えなかった心根をあっさり言われ、エトナに動揺が走る。
なるほど、この子にしてこの親あり――というのが一瞬で分かってしまった。
恥ずかしさで思わず軽く睨む様に見てしまうが、揶揄ったオルガは頬に手を当て、エトナとアッシュを見ていた。
「ふふふっ。仲睦まじいようでアタシも幸せだわ〜。アッシュも大切に思ってるみたいだし、良い関係ね。大事にしなさいよ、アッシュ」
「当たり前だよ。それよりお婆ちゃん、自分の紹介がまだだけど?」
「あらやだ、アタシったら。ごめんなさいね、エトナちゃんばっかり喋らせて」
「い、いえ……」
「それじゃあ改めまして。あたしはオルガ・ヴェンタス。アッシュの育ての親よ。これからよろしくね、エトナちゃん」
弾む様な声色で、穏やかに微笑みながらオルガは左手をエトナに差し出した。
「あ――」
そこでエトナがようやく気付く。
どこまでも柔らかに、包み込むような雰囲気を放つ彼女の右手が存在しないことを。
――いつも一人。靡く空っぽの右袖。オルガの身に何があったかは想像するに難くない。
だからエトナは、その件について何も尋ねない。辛い過去を思い出すのは一番苦しいことだと知っているから。
「よろしく願いします」
にっこりと微笑みながら、さらりとエトナがオルガの手を取る。
すると、エトナの『想う心』が強いのか、オルガに対する『敬意』と『親愛』がその手から真っ直ぐオルガの心に伝わった。
「……優しいのね。流石アッシュが認めた女の子」
「?」
「とっても良い子を連れてきてくれたって思ってね。アタシも嬉しくなっちゃうわ。さ、中に入って入って。ご馳走を用意してあるのは本当だから。ユズハちゃん、お皿並べてきてくれる?」
「はーい!」
勢いよく返事し、パタパタッと奥へと駆けていくユズハ。その可愛らしい彼女を見届け、オルガは二人に向き直る。
すると、先ほどの二人の会話の答えを出すように、オルガは慈愛の笑みと共に二人を招く。
「改めて、おかえりアッシュ。それからエトナちゃんもね――」




