14_黒い森の魔女(3)
イーリカはふと思いつき、体の向きを変えると、木棚など何もない壁際の一角に立った。
そこには視線よりも少し下側に、絵画を飾る際に使う額縁が掛かっている。
しかし額縁の中には絵はない。向こう側にある壁の木板の木目が見えていて、その中心には切り落とされた何かの枝が飾りのごとく掲げられている。
方々に伸びた枝の先についているのは、鳥の羽を思わせるような細長い小葉と、密集した小さな白い花。
おそらくわかる者が見れば、古来魔女の杖の材料として用いられることもあった『アシュ』の木の枝だと気づくかもしれない。
イーリカは手を伸ばし、そのアシュの枝の飾りを軽く握り、左に倒した。
すると、壁でしかなかったところに突然、扉が現れる。
握っているアシュの枝の飾りを扉の取っ手代わりにして、扉を奥に押し開ける。
開いた先に見えるのは、タウフェンベルクの首都、レッセンの街にあるはずの薬草茶店の廊下だった。
イーリカは慣れた足どりで、扉を通り抜け、薬草茶店の中に入る。
台所へ行き、ミルクが入った小瓶を手に取ると引き返し、また扉をくぐって黒い森にある小屋の中へと戻った。
扉を閉め、アシュの枝の飾りを右にひねってもとの位置に戻す。ゆらりと煙がかき消えるように、扉は跡形もなく消え去る。
そこにあるのは壁の木板の木目と、そこに掛かっている何の変哲もない額縁とアシュの枝の飾りだけ。
魔女が棲まう黒い森は、タウフェンベルクの北部にある鉱山よりも北に位置する広大な森だ。
そして黒い森とタウフェンベルクの首都レッセンの行き来は、馬車でも五日かかるくらい距離が離れている。
にもかかわらず、イーリカがいとも簡単にその距離を行き来できるのは、古の魔女が残した魔法のおかげだった。
アシュの枝を介してイーリカのような魔女の血を受け継ぐ者が触れれば、こつ然と現れる扉。
この扉があるからこそ、ご先祖さまや祖母、母、そしてイーリカは、黒い森とレッセンにある薬草茶店を行き来しながら生活することができるのだ。
ただし魔石の化身であるライトとラブラには、壁に真っ黒な穴が開いている状態に見えているようで、その穴から彼らはいつでも好き勝手に出入りできるらしい。
それを幼い頃に聞いたイーリカは信じられずじっと壁を見つめたものだが、どう見ても何の変哲もない壁で、そこを彼らが通り抜ける光景は今でも不思議に感じる。
イーリカは手にしたミルクの小瓶を持って、小屋の台所へと向かう。台所といっても、見渡せるほどの狭い小屋の中、明確な区切りはない。
今日は一段と冷えるから、外から帰ってくるライトとラブラのために、ミルク粥でも作ろうと思ったのだ。
火をかき起こし、鍋をのせ、熱したところで、小屋の外の畑で収穫しておいたカリフラワーを入れ、軽く火を通す。そのあと水とミルクを入れて煮込み、最後にホフの実で味つけをする。
手早く完成させると、小屋の中に甘いにおいが立ち込める。あとは鍋に蓋をして、火から外した。
ミルク粥を作り終えると、イーリカはガラス瓶や保存缶、壺などが所狭しと並ぶ、壁を覆う木棚の前に立った。
手を伸ばし、数が少なくなってきた調合薬の確認を始める。
調合薬は鎮痛剤や熱冷まし、軟膏など、日常に使えるものだ。
とはいえ、それらは魔女に頼らなくとも、薬草園をもつヴェロルト正教会でも作られており、人々は譲り受けることができる。
さらに聞くところによると、タウフェンベルク領の北西部に隣接する独立自治区であるヴェロルト区。そこにあるヴェロルト大聖堂には、『大庭園』と呼ばれる広大な薬草園があると言われ、難病にも効く希少な薬草も栽培されているという噂だ。そのため教会関係者以外の立ち入りが禁止されているほど、厳重に管理されているとのことだった。
魔女が作った日常に使える調合薬に魔女が最後の仕上げをすれば、『若返りの薬』『魔除けの薬』など別の効能をもつ秘薬になる。
先ほどの客に渡した『浄化の薬』もそのひとつだ。
小屋の天井からは、乾燥させた草や花の束があちこち吊るされている。それらはいずれも薬の材料になる。
魔女は様々な調合薬と秘薬を作るが、越えてはならない一線もある。
それが、人の心に干渉する薬は作らない、ということ。
たとえば、人を意のままに操る『操り薬』や人の心を変えてしまう『惚れ薬』、人の記憶を操作する『忘却の薬』だ。
しかし『忘却の薬』に関しては、魔女の秘密が漏れる危険が迫った場合のみ、使うことが許されている。
どの薬も悪用する者の手に渡れば、どんな被害をもたらすかわからない。それゆえに、魔女は黒い森の奥にひっそりと身をひそめ、秘密を固く守ってきた。
だがその中でも、時代の移り変わりとともに人々に力を貸す魔女が現れた。
それが古の魔女だ。
古の魔女は、魔女である一方で、その豊富な薬草知識を活かし、人の世にまぎれて病などに苦しむ人々に薬草茶として分け与えるようになった。いつからか街の一角に店を構えるようになり、その店は世代を超えて受け継がれ、今はイーリカの手に託されている。
誰かのために役に立てることを、イーリカは誇りに思っている。
たとえ『悪しき魔女』と罵られ、人々から忌み嫌われようとも──。
手に取った調合薬の小瓶をぎゅっと握りしめる。
『──本当の魔女の姿は違うのかもしれない』
ふいに、ノアが発した言葉がよみがえる。
その言葉を聞いたあのとき、イーリカは救われたのだ。
そしてじんわりと胸を満たしたのは、喜びだった──。
イーリカは、静かにまぶたを閉じる。
黒い森の木々のざわめきだけが耳にこだましている。
自分は魔女だ──。
人々から悪しき魔女だと、そう言われている存在なのだから──。
イーリカは、あえてそう心の中でつぶやいた。
次から第四章に移ります!イーリカとノアのすれ違いの章です……!
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