8、アンドレア・サライ
美術館の戸締りをし、夏の星空の下を稀川と二人並んで歩く。こうして帰るのは久しぶりだ。それこそ私がまだ二十代前半の新人社員だった頃は、よく夜道を送ってくれていた。
なんとなく話題に困り、何か話さなくてはと絞り出す。
「……そう言えばこの前の夜、稀川さんがクリスティン先生を送ってた日のことなんですけど。」
「ん?」
「駅であんたなに手を出してんですか。セクハラですよ。」
「セクッ!?」
稀川は顔を真っ赤にして驚く。筋ばった右手で口元を隠し、慌てて弁解をした。
「ちがッ違うよ!?あれはセクハラじゃなくて、彼女の肩に小さな蛾がとまっていたから……って翼くん、見てたの!?」
慌ただしい。見た目はただのチャラ男だが、意外と純情なことがわかった。これも私が新しく知った彼の一面。
面白いと思った。人の様々な顔を知ることが。これもきっとある種の人は芸術というのだろうか。なんて。
「だから決してセクハラなんてことはしていなくて……翼くん聞いてる!?」
「はいはい、もうわかりました。」
「いちファンとして彼女に手を出そうなんてことは……」
「でも、好きなんでしょう?」
稀川が立ち止まる。私もつられて立ち止まった。
「何を………?」
「クリスティン先生のこと、好きなんでしょう?」
今の私なら平気だ。失恋くらいで傷ついたりしない。彼女なら納得がいくし、今更抗おうなんて思わない。それに好きな人の恋が上手くいった方が────
「そんなこと、二度というな!!」
肩を掴まれ、怒鳴られる。稀川の顔は今までに見たことがないほど険しい顔だ。息が止まる。
「…………え?」
「俺がクリスティン先生のことが好きだなんて……言わないでくれ!」
「だ、だって……夜送って行ったり………」
「それは大事な取引先だからに決まってんだろ!?」
物凄い剣幕だ。なぜそんなに怒っているのか………今考えられるのは、それしかない。そこまで鈍感じゃない。バカじゃない。
いやだって、まさか?有り得ない………!
「俺だってあの日………ッ」
口をつぐむ。放心している私を見て、稀川はハッとした顔になる。一瞬たじろぎ、ごめんとひとこと言うと、稀川は美術館への道を戻っていった。
力が抜け、その場に立ち尽くす。あんな顔の稀川は初めて見た。これまで約七年間一緒に働いてきたのに、そんな素振り一切見せなかった。
この気持ちを絵で表すとしたら、どんな絵になるのだろう。
次の日、クリスティンはまたキャリーバッグを持ってやって来た。バッグの中にはいくつものカルトンケースがあり、その中には薄紙で挟んだ水彩画が何枚も入っていた。
薄紙をめくれば、古い絵の具の匂い。今度は本物の絵だ。
「ありがとうございます。じゃあクリスティン先生、稀川さん。手伝ってもらえますか?」
「え?」
驚きの声をあげたのは稀川だった。クリスティンは特に驚く様子はなく、首を肯定に傾けた。
稀川は私と目を合わせたあと、思い出したように目をそらした。もう気にしない。仕事は仕事でしっかりと分けるんだ。もう私情で過ちを犯さないように。
「私には、まだどの絵がいいのか分かりません。皆さんと一緒に選びたいんです。ボランティアの方々にも声をかけました。……いいですよね、稀川さん?」
「………」
稀川はそっぽを向いている。クリスティンはふんと鼻を鳴らし、カルトンケースを持ってさっさと会議室に行ってしまった。
私は稀川をじっと見つめる。いや、睨みつけると言った方が正確だ。
稀川さん。今はお仕事中です。貴方が昨夜何を言おうとしたのかはなんとなく想像つきます。でも今は関係ない。私と貴方は上司と部下の関係。
「みんなで、一緒に素晴らしい展覧会にしましょう。レイクサイド美術館の、"最後の晩餐"です。」
稀川はしばらく黙っていたが、やがて私の視線に根負けし、ため息をついて頭をかいた。
「……わかったよ。レイクサイド美術館館長として、最高の絵を選ぼう。」
その顔は仕方がないといったふうな、困ったような笑顔だった。
稀川は私の肩に手を置く。そしてすれ違いざまに言った。
「充実した一日が幸せな眠りをもたらすように、充実した一生は幸福な死をもたらす。展覧会に来てくれたお客様に幸せな眠りが訪れるように頑張ろう。アンドレア・サライくん。」
まったく、かっこつけちゃって。誰がアンドレア・サライだ。一丁前に大物芸術家気取りか?
少し顔が熱くなる。ダメダメ、今は仕事中だ。深く深呼吸をする。
全てはこの展覧会を成功させるために。
みんなが待つ会議室へ、足を向けた。




