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7、とある人の話

 時刻はすっかり夕方。私は涙でべちょべちょになったハンカチをティッシュにくるんでしまい、クリスティンに洗って返すと言った。クリスティンはただ僅かに鼻で笑っただけだった。

 夕方の喫茶店は昼と違い、クラシックなムードに包まれていた。オレンジ色の照明が私たちを照らしている。クリスティンはからになったティーカップを見つめ、やがて口を開いた。

「さっきの言葉は受け売り。この紅茶に砂糖とシロップとジャムを入れるような人に教えてもらったの。」

「それはなかなかの……甘党ですね……」

「でしょ?もう敬語じゃなくていいよね。貴女いくつ?」

「に、二十六です。」

「若いなぁ。私もう三十一だよ。もう十年も経つんだなぁ…。」

 テーブルに肘をつき、顎を支えながら窓の外を見る彼女。とても三十代には見えない。私と同じくらいか、もっと若いと思っていた。ということは、稀川は二十九歳なので、稀川よりも年上だったのか。

「私大学を中退したの。辞めさせられたっていう噂もあるけど、自分で辞めた。」

 窓に映る彼女は、窓越しにテーブルの上を見ていた。テーブルには私が破いた、水彩画の入っている茶封筒が置いてある。

「当時その学校は油絵が中心でね。盲目的に油絵ばかり描かされてた。私は隠れて水彩画を描いてたんだけどバレて、『水彩画は絵じゃない』なんて言われてさ。こんなもの扱いされたりして、すごく肩身が狭かった。」

 思わず下を向く。知らなかったとはいえ、私は彼女の傷を抉るようなことを言ってしまっていた。クリスティンは私の方を向き、ずっと無表情だった顔を崩した。笑うことに慣れていないのだろうか。少し歪な笑顔だ。

「他意はないの。気にしないで。」


 稀川がこの人が好きな意味が少しずつ分かってきた。この人は飾らない。人に好かれようとしない。なぜそのようになったのかは分からないが、そう振舞っているようだ。

 だが今、彼女は私に素を見せてくれた気がした。その歪な笑顔が、本当の彼女の顔なのだと思った。

「でも紅茶の人が言ってくれたんだ。『君の絵を買いたい』って。当時は私素直じゃなかったから、馬鹿じゃないの?なんて言ってた。でも内心は嬉しかったんだわ。」

「……認めてくれたことが?」

 うん、と彼女は頷く。白い肌が少し紅潮している。

 彼女の『イメージ』が崩れていく。

「……前に、強い思い入れがある絵があるって言ってましたよね。」

 ああ、とクリスティンは脇に置いたトートバッグから一枚の封筒を取り出そうとする。私はそれを静止した。

「仕事場で見せていただきます。コピーじゃなくて、原画を。……こんな私ですが、一緒にお仕事していただけますか?」

 クリスティンはしばらく私を見上げていた。ゆっくりと封筒を戻し、バッグを肩にかけた。そして一言、

「いいよ。」

と言って歪に笑った。


 美術館に戻ると、稀川が心配そうな顔で私たちを待っていた。うろうろと正面入口の前を歩き回っている。お使いに出た小学生の娘を待つ父親か。

「あっ戻ってきた!もう心配したんだからな、翼くん!」

「えっ?」

 私?

 クリスティンの方ではなく?

「最近顔色悪かったし、思い詰めてることがあったんじゃないかと思ってたんだ。そしたら今日ふらっと出かけちゃうし、クリスティン先生が待っててって言ったから待ってたけど二人ともなかなか帰ってこないし!」

 待てと言われたから待ってたって…お前は犬か。忠犬か。

 心の中でツッコミつつ、少し反省をする。いくら頼りないと思っていても、こいつは私の上司だった。色恋に左右されて、いつもの熱心な部下にすらなれていなかった。

 クリスティンが先に美術館の中に入っていく。途中で振り返り、口元に笑みを浮かべながら彼女は私に声をかけた。

「原画は明日でいい?全部持ってくるよ。」

 そう言い残し踵を返す。彼女の言葉遣いや表情に、稀川は驚きを隠せない様子だ。

 大ファンを名乗るこの男ですら知らなかった表情。私だけが知っているという、小さな優越感に浸る。

「え……ええ〜?翼くん…彼女の、あれ、どういう…………」

「羨ましいでしょう?」

 私もなかなか単純な女だ。この数時間だけでコロッと意見を変えてしまうなんて。


(はっきり言って、タイプじゃないわ。)

 心の中でそう呟くが、不思議と気分は悪くなかった。

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