6、淡いハンカチーフ
気がついたら、私は商店街にいた。頭がぼーっとしている。そうだ、あまりにも煮詰まってしまったので気分転換に外に出かけたのだ。昼間の商店街は賑やかで、今日が休日だということに気がつく。
そこの八百屋のお兄さん。何を笑っている?私がこんなに苦しい思いをしているというのに。
誰にも会いたくない。幸せそうな顔を見たくない。私の大切なものが、心が、音を立てて崩れていく………。
右手に抱えていたのは、自分のスケジュール帳と大きなサイズの茶封筒。この中にクリスティンの作品が数点入っている。
「こんなもの……」
スケジュール帳にささっているボールペンを取り出す。肩の上まで振り上げる。息が切れる。
私、今正気じゃない。
「こんなもの!!!」
分かっている。彼女は悪くないんだってことは。だけどどうしようもないじゃないか。誰かのせいにしなくちゃ、この気持ちは収まらないだろう?
そもそも美術館が無くなると聞いた時から胸の奥は曇っていた。この美術館は私が十九歳の時に就職し、それから七年間ずっと働いてきた。幼い頃に行った展覧会が脳に焼き付いて離れない。あの美しい作品にもう一度出会いたく、学芸員となるべく勉強してきた。様々な芸術家と出会い、様々な美術品と出会った。中には学芸員である私ですら創造の意図がつかめないようなものもあった。
でもどれも展覧会が終わってみれば、お客さんを満足した顔にさせていたのだ。悲しみを風刺したもの、怒りを表現したもの、全てが楽しいものばかりではなかった。だが、その作品を見て各々何かを思い、感じ、言い表せられない感情を心のうちに溜め込み、人はまた新たな作品を求めるのだ。
(もっと早く気づけばよかった?)
ぺたりとその場で座り込む。すっかり熱くなったアスファルトに、足が焼ける。
もっと早く彼らの美術品の美しさに気づければよかった。どんな形であれ美しいものは美しいと、認められればよかった。
真っ二つになった茶封筒を見つめる。中からは破れた絵が少しはみ出し、淡い色を覗かせていた。
ああ、やってしまった……!
「うっ………」
こんなことになるだなんて。私はなんてことをしてしまったんだ。仕方がない、どうしようもないなんて誤魔化し、自分を正当化していたにすぎない。
「うわぁぁ…………っ」
破いたあとに頭は冷静になった。後悔だけが先立つ。学芸員として、いや人としてしてはいけないことをしてしまった。
もう、終わりだ────
「大丈夫ですか?白藤さん。」
声に顔を上げると、そこには金色の雨のような景色。紫色が散った黒い目が、私を見ていた。
クリスティンは私を近くの喫茶店まで連れていく。私は破れた封筒を抱えながら、彼女に引っ張られるがままだった。
「だいたい状況はわかります。」
「はい……いえ、すみません………。」
バツが悪い。大切な原画をこんなお陀仏にしてしまって、合わせる顔もない。私の一時の感情で、展覧会まで無駄にしてしまった。
「大丈夫です。それ、コピーなんで。」
大丈夫じゃない。だってこれは、大変なコピー……………………え?
「コピー?」
「はい、コピーです。よく見てください。それ絵の具じゃないでしょ?」
言われて慌てて見直す。よく見てみると、それは確かに絵の具ではない。ただのインクだ。
「………!」
なんで気づかなかったんだ。彼女に気を取られすぎて、まったく気が付かなかった。疑いもしなかった。
いや、というかこの女も、最初からコピーを渡してきたのはどういうつもりだ。……今回はそれで助かったのだが。
「私、絵を何枚か破られたことがあるんで、保険です。……なんて、ある人にアドバイスをいただいて実行したまでですけど。」
私は心を読まれたような気分になる。何も言えず、黙り込んでしまう。
「一目見た時から気づきました。稀川さんのこと、気になっているんでしょう?」
思わず目が泳ぐ。私ってそんなにわかりやすいだろうか。
「誤解は解きます。私は彼とはそんな仲ではありません。彼のことは今回日本に帰省するまで知りませんでしたし。」
「え?でも、昔サイン会で会ったって…」
「そうなんですか?すみません、私人の顔覚えるの疎くって。」
「………」
なんだか、思っていたよりも印象が少し違ってくる。私が何を言うのか想定しているかのような返しや、無表情だと思っていた顔の微妙な変化などが、近くで見ると見逃しにくい。
「白藤さんは私の絵をどう思いますか?」
淡々と放つ言葉は、私を責める言葉ではない。彼女はいつも通り無表情であったし、相変わらず美しいままだ。
「……とても………キレイな色合いだと……。」
「そういうのはイイです。」
紅茶を一口。彼女のカップは透明なガラスで、赤い紅茶が光に透けて見えている。ミルクも何も入れていない紅茶は、鮮やかだった。
「お世辞はいりません。私に必要なのは共感や同情じゃない。批評です。思ったがままの言葉を聞きたいんです。」
まっすぐに私を見つめるクリスティンの目の中に、泣いてぐしゃぐしゃの顔になった私が映っている。なんて醜い。
「私は…………」
ずっと心の中で思っていた。ファンタジーなんてただの虚偽だと。この世に存在する生命こそが、美しいものだと思っていた。だってそこには私たちが生きた証があるから。
「……作り話なんてものは夢で、私たちの手が決して届かない場所にあります。……だからこんなもの私は芸術品だなんて認めたくないし、美しいなんて言ってはいけないんです。」
クリスティンは私の言葉を黙って聞いている。『こんなもの』と言った時、若干眉が下がったのは気のせいだろうか。
「……でも、こうも思いました。」
ダ・ヴィンチやピカソ、レイ・ブラッドベリ。彼らの作品が如何程の影響を与えたのかはわからない。ただそこには確かに、今現在を生きる私たちの心を動かすものがあった。
悔しい。認めたくない。そんな感情を凌駕するほど、芸術には『価値』があった。
「どうしてこんなにも手の届かないものに焦がれるのだろうって。あの日貴女の夢の世界に引き込まれ、改めて影響力を感じました。………貴女の絵は、とても素晴らしいです……。」
クリスティンの下がった眉が元に戻る。彼女は少し驚いたように目を見開くと、ポーチから淡い色のハンカチを取り出して私の目元を優しく押さえた。




