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1、新企画

「誰ですか、それ?」

 まとめていたファイルから目を離し、髪をかきあげる。顎下あたりで揃えた髪の毛は耳にかからず、するりと滑り落ちた。

「えー翼くん知らないの?一部の界隈では超有名なのに。」

「じゃあ知りませんよ。」

 目を丸くして驚く男は、パイプ椅子に後ろ前に座り私の作業を見ている。私はなんだか無性にイラッとし、男に背を向けた。

 私がしているのは、ファイルにまとめられた書類を丁寧にダンボールに詰めること。というより、この建物──美術館の片付けだ。この『レイクサイド美術館』は半年後の秋に取り壊しが決まっている。土地を買収され、もう客のほとんど来なくなったここは処理されるのだ。

 実は片付けは一週間前からしているのだが、まだ事務室の片付けしか出来ていない。何故かというと、職員がいないのだ。

 半年後に取り壊されると知り、ほとんどの職員はその場で退職届を出した。そりゃそうだ、早い方がいいに決まっている。学芸員なんていう職業は働ける環境が決まっているし、その分再就職が大変だ。いつか辞めなきゃいけないと気づいたら、さっさと行動に移すのが吉だ。

「いやーしかし、翼くんが残ってくれて助かるよ。俺だけじゃ片付かなかったもん。」

 そう言って白い歯を見せて笑う、後ろ前椅子のチャラ男。彼こそがこの美術館の最高責任者、レイクサイド美術館の館長、稀川まれかわ そうだ。そして私は彼の元で働く働きアリ。翼くんこと白藤しらふじ つばさ。こんな名前だが、れっきとした女である。

「でもびっくりだなぁ。あの博識の翼くんがクリスティン先生のことを知らないなんて。」

 この男、まだ言うか。いや、きっと悪気はないのだろう。思ったことを素直に言ってしまう、嘘がつけないという体質の彼は稀に、いや時々、いやよく私の神経を逆なでする。私はいじられるのが嫌いだ。それを稀川は理解しているはずなのだが、性格上直らないものなのか。無視する。

 すぐに後ろで小さな「あっ」という声がし、それきり言葉が途切れる。チラッと稀川の方を見ると右手を口に当て、黙りこくっている。私がそういうことが嫌いだと思い出したのか。

 ごめんと謝ってくるが、私は無視を続ける。しばらくして負のオーラが背後から漂ってくた。これだからこの男には困らされている。たまに嫌いになっても、嫌いになりきれないのだ。

「……で、どんな人なんですか?クリスティン夢子って。」

 振り返り、仕方なく尋ねる。途端に稀川は正気を取り戻したように輝き出す。

「えっとなえっとな、クリスティン先生は絵本作家なんだけど、もともとあの都心の芸術大学の生徒だったんだ。でも三年の最後で学校の方針に嫌気がさして中退。それからノルウェーに渡って絵本を描き続けているんだよ。」

 漫画のネタバレを話す時のようにキラキラした顔で語っている。早く片付けてしまいたいが、話の間だけ手を休めることにした。

「彼女の描く絵はどれも色合いがキレイで、全て水彩画なんだ。水ならではのあの透明感とか淡さとかをふんだんに使っていてね。主にファンタジーが多いんだけれど、やっぱり代表作は『水彩のベルヴォワ』!大人に人気があるんだ。」

「ふぅん、ファンタジー……。つまり妄想の世界ってこと。」

「え?なんか言った?それでそれで、彼女自身ノルウェーのクオーターで、少し日本人離れした雰囲気をしてるんだよ。前に来日された時サイン貰いに行ったことがあるんだけど、可愛かったなぁ!」

「へえ………」

 バキッ。何かが割れた音がする。稀川は話していた顔のまま固まり、その顔からは血の気が引いている。私は無意識に力を込めた手元を見る。握っていたプラスチックのファイルにはヒビが入り、パラりと細かい破片が落ちた。稀川が小さく尋ねる。

「どどど、どうしたの………。」

 私はファイルをダンボールに入れ、棚に向き直った。さっきよりも手さばきが、気持ち早くなったような気がする。私は稀川を見て目を細め、口角を上げ……

「仕事してください。」

「あ、はい。」

 稀川は椅子から立ち上がり、私の側で作業をし始めた。


 棚からファイルを取り出し、芸術家の分類ごとに分けてダンボールに入れる。

(この作家は確か……あの棚の一番上だったな。)

 棚に近づき、キャビネットを開けようと手を伸ばす。しかし棚は思っていたよりも高く、中指一本分ほど届かない。足台となるものを探していると、先程まで稀川が座っていたパイプ椅子が目に入る。

 椅子を引っ張って棚の前に置き、靴を脱いで上に立つ。目的のキャビネットには簡単に手が届き、取っ手を引っ張って開ける。と、開けようとした時

「……キャッ!?」

 バランスを崩し、後方へ体が倒れる。キャビネットの先を掴むが、滑って手が離れてしまう。

 ダメだ、落ちる───!

 頭にくるであろう衝撃を覚悟し目を強くつぶる。ところが痛みは襲って来ず、肩を硬いもので支えられる。そっと目を開けると、稀川の顔がすぐ目の前にあった。

「びっくりした翼くん……大丈夫か?」

 稀川の頬を冷や汗が伝っている。私は彼の右手で支えられ、床への直撃は免れていた。

 一瞬の思考停止。

 しかしすぐに、彼の背後でゆっくりとバランスを傾けるファイルの束を見た。

「────あ」

 危ない。そう言おうとした時、ファイルはすでに稀川の背中に向かって落下を始めていた。


 背中を痛めた稀川を横にし、私は彼に布団をかける。背中越しに、彼に向かって手を合わせる。

「翼くんのせいで腰死んだ……」

「紛らわしい言い方しないでください。すみませんでした。」

 うっうっと下手な泣き真似をする稀川に呆れながらため息をつく。

 落下したファイルは稀川の腰に直撃した。奴の腰は負傷したが、ファイルと私は無事だった。尊い犠牲というやつ(?)だ。

「あと………」

 あと、もうひとつ言わなくちゃいけない。落ち着かなくて手を握る。

「ん?何?」

「…………あ………」

 ありがとうございました。

 助けてくれたお礼だ。これくらいなんてこと無い。三秒で済む言葉だ。ほら、言え。言うんだ、翼!

「……あ…あ…………あり」

「何、ありがとうって?いやぁそれほどでも〜。……なああんて翼くんがそんな事を言うはずがホゲラァ!!」

 腰をめがけて拳をふるう。折角人がお礼を言ってやろうと思ってたのに。馬鹿みたいだ。稀川は腰を抑えて転がり回る。私は無視して棚の整理を再開した。

「いったたたぁ、酷いよ……とりあえず話戻させてほしいんだけど。」

 よいしょと言って椅子の上に座り直す稀川。バッグの中を漁り、一枚の半透明のクリアファイルを取り出す。稀川愛用の、百均のファイルだ。五枚セットのお得なやつ。

 稀川はそのファイルを私に押し付ける。仕方なく受け取り、うっすらと見える大きな文字をなぞる。

「『新企画』……?」

「そう。」

 パチンと高らかに鳴る指の音を響かせ、稀川は口元に笑みを浮かべる。なんだか、嫌な予感がするが、クリアファイルの中身を確認してみる。数枚のA 4サイズの紙に書かれていたのは………


「新企画、絵本原画展。クリスティン・夢子先生の展示会をやるよ。」

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