10、夢の彼方へ
忙しい日々は絶え間なく続く。それは舞台が日本から欧州になっても変わらなかった。
「白藤!」
「はーい」
名前を呼ばれたので返事をする。疲れた声をわざと出すが、呼びかけた声の主は私の様子を気にすることなく本題を話し始めた。
「ペインティングナイフを拭いといてくれ。その後新聞紙を持ってこい。いいな。」
「あーはい、分かりました。中里先生。」
よろしくなと言い、声の主はアトリエに戻っていった。ああ、なんだか私今、学芸員としての仕事がとても恋しい。
レイクサイド美術館の取り壊しは滞りなく行われ、ただの瓦礫の山となった。今は新しい建物の建築で大忙しだろう。あの土地にショッピングモールが出来たら、あの街も賑やかになるものだ。
そんなことを考える私は今フランスの地にいる。今や世界的に活躍をする油彩画家の中里 裕也画伯の元で、専門学芸員として働いているのだ。だがやることと言えば彼の世話や雑用といった、まるでマネージャーのような仕事ばかり。日本での美術館生活が懐かしい。
ある日中里は颯爽として私の前に現れ、人の良さそうな顔をしながら言った。
「貴女が素晴らしい芸術を見る目があると聞きました。私のアトリエで働いてくれませんか?」
聞いたって、一体誰から聞いたんだろう。口調は胡散臭いが、私はその話に乗った。何故かって?世界的に有名な画家の顔を私が知らないはずがないだろう。だが実際はただの雑用係。まるで詐偽にあった気分だ。
稀川は実家の農業を継ぐと言い、故郷に帰った。お互いに場所は離れ離れになってしまった。だが私たちは繋がっている。あの怒涛の半年がそれを証明してくれている。
フランスの空は青く、雲は白い。まったく同じ景色なのに、日本が恋しくなるのは何故だろう。
きっとそれは、帰りたいと思う場所があるからだ。いつか帰った時に、私の帰る場所がある。それだけが私の心の支えになっている。
クリスティンは今何をしているのだろうか。あの日渡された紙袋に書かれていた銀色の文字を検索したところ、一軒のノルウェーの絵本店が出てきた。あの店で今も働いているのだろうか。
「白藤!早くしてくれ!」
「はいはい」
はー、と長いため息が出る。中里の絵は確かに美しい。世界的に劣らない価値が、きっと出てくるだろう。だがこの性格は難アリだ。直した方がいい。
ナイフについた絵の具を素早く拭き取り、テーブルの上に置いてある新聞紙を持ってアトリエへと向かった。
私の目の奥には、展覧会の最終日、黒いスーツの紳士とクリスティンの後ろ姿が焼き付いている。まるで写真のフィルム。カシャ、と口の中で呟いてみる。
私の耳には蜂蜜色のトロイメライが今も流れている。ゆったりと、時間の流れを表すかのようなあの曲。まるでレコードのよう。そっとトーンアームを下ろしてみる。
繊細で、一本一本が輝く金色の髪の毛。黒の中に紫が散った瞳。淡く儚い夢の景色。空想世界も悪くない。
全部残っている。
今ならこう思える。
ああ、あなたに出会えてよかった。
いつかまた会えるといい。
夢の彼方、水彩のビヨンドで。
~La fin~




