閑話 侯爵が侯爵になった理由・後編
俺はドラゴンの住むグリーン山にて、侯爵と酒を飲みながら昔話を聞いていた。
◇ ◇ ◇
百年以上前、まだ侯爵が地獄王と名乗っていた頃。
最高の死を望んだ彼女――アリシアが侯爵のところに来てから3年の月日が流れていた。
侯爵の生活は大きく変わっていた。
まず、人里離れたカルデラ状の盆地に隠れ里を作った。
部下たちには剣の代わりにくわを持たせて畑仕事をさせた。
なぜなら稀少な薬草は定期的な入手が難しい。
しかし実験には膨大な量の薬草が必要だったため、栽培させることにしたのだ。
そして余剰の時間で他の作物を作らせた。連作障害を回避するためでもあった。
魔法技師や錬金術師を雇い入れてより効果のある薬の開発も進められた。
その過程で畑用の窒素肥料などが見つかったのは嬉しい誤算だった。
――それでも彼女の病気の原因がわからなかった。
侯爵はアリシアの病室を訪ねる。
彼女はベッドに横たわり、開いた窓から外の景色を見ていた。
午前の清々しい青空。
柔らかい風が入り込み、彼女の金髪を優しく揺らす。
侯爵はマントを揺らしつつ近付く。
「ふははっ。元気そうだな、アリシアよ」
「はい、地獄王さま。いい天気なので気分がよいです。それに、お気遣いありがとうございます」
「我輩が殺す前に死んでもらっては困るからな!」
侯爵の言葉にアリシアはにっこりと微笑む。
「はいっ。殺されるために頑張ります。――それで、今日こられたのはどういった理由でしょう?」
「ふむ。少し進展があった。病気ではなく体の異常だったのだ」
「異常、ですか……どこが悪いのでしょう?」
「むう……それはまだわからぬ。本来、血液は役目を持って動いているが、どうやら役に立たない血液を作っているらしい」
アリシアは痩せた手で胸を押さえた。
「血が悪くなっているのですね。悪いのは心の臓でしょうか」
「我輩もそう思ったのだがな、いろいろ調べて違うとわかった。心臓は結局のところ全身に血液を巡らせる臓器に過ぎん。別の場所で作られておるはずだ」
「そうなのですか……地獄王さま」
「ん? なんだ?」
「私のためにありがとうございます……でも、もう充分ですわ。この3年間、家族に迷惑をかけることなく暮らせました。もう充分です」
やつれた顔に微笑みを浮かべるアリシア。
しかし侯爵は鼻で笑った。
「はんっ。何を言うか。貴様は最高の死を願った。だから我輩は全力で貴様を絶望のどん底に叩き落してやる。――それに我輩は考え直したのだ」
「はい?」
侯爵は残忍な笑みを浮かべて言う。
「我輩は地獄王だ! それなのに地獄へ人を送るという、地獄の召使いなことをさせられていた! 本当の地獄の王を名乗るのであれば、この世に地獄を生み出してこそだ! 人々は死ぬに死ねず搾取されながら生きるしかない、おそろしい日々を送り続ける。それこそが本当の地獄なのだ!」
アリシアは目を丸くしていたが、くすっと笑い声を漏らした。
「まあ、地獄王さまったら」
「だから決して死ぬ出ないぞ! 貴様はこの世の地獄を味わってから死ぬのだからな! ふははははっ」
「はいっ」
侯爵の高笑いが病室にこだまする中、アリシアはベッドの上で横たわりながら目を細めて静かに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
侯爵の話が終わってグリーン山の洞窟へ戻る。
俺も侯爵も、果実酒をやめてアルコール度数の高い蒸留酒を飲んでいた。
チーズを摘んで食べつつ言った。
「それがこの世の地獄を目指したきっかけか……」
「うむ。アリシアは我輩に死の王としての本質を教えてくれた」
侯爵はグラスに入った琥珀色の液体を回すように揺らした。
俺は喉の焼けるような濃い酒を飲み、熱い息を吐く。
「でもすごいな。この世界で血液の異常に気付くなんて。女の血液はきっと白みがかっていたんだろう。原因は肋骨や背骨、骨盤で作られる血液がおかしくなっていた」
侯爵が眉を上げて驚く。
「良く知っているな。さすがはケイカだ」
「俺のいたところでは、その病気は白血病と呼ばれていた。この国では魔法での延命が精一杯で、根本的な治療法がなかったんじゃないか?」
侯爵は顔をしかめて、少し俯いた。残忍な顔に暗い影が差す。
「ああ、だから我輩は……」
◇ ◇ ◇
アリシアが侯爵の元へ来てから5年の月日が流れた。
彼女はもうベッドから起き上がることさえ出来なくなっていた。
骸骨のように痩せ細っていたが、それでも豊かな金髪が場違いなほどに美しかった。
ベッドの上でアリシアは浅い呼吸を繰り返す。
魔法と薬草でなんとか命を繋いできたが、もう肺の機能も衰えてしまったらしい。
侯爵がベッドの傍に立ち、アリシアへと呼びかける。
「ようやく完成したぞ。血液の異常の原因は骨髄だ。そこに今から新しく作った薬液を注入する。そうすれば治る。必ず治る。だから……」
アリシアは苦しげな呼吸を繰り返しつつ、優しい笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、地獄王さま……私はとっても幸せです」
ふんっ、と侯爵は鼻で笑う。
「何を達観したようなことを言っておるのだ。貴様は元気になったところで我輩に殺されるのだからな! 今から怯え嘆くがいい!」
「はい……っ。とても楽しみですわ」
侯爵は病室に控える部下たちに命令した。
「では、治療を開始しろ」
「「「はいっ」」」
白衣を着たゴブリンやコボルト、ダークエルフにヴァンパイアがアリシアに群がって治療をする。
服を脱がせ、上半身裸になったアリシアをうつぶせにして、その背中に細い針を差し込む。
一応、魔法で麻痺させるがそれでも彼女は骨に直接響く震動に顔をしかめた。
施術が終わったあと。
突然アリシアが声を上げた。
「あぁ……っ!」
彼女はやせ衰えた体を反り返らせて、顔を苦しげに歪めた。
侯爵は目を見開いて驚く。
「ど、どうした、アリシア!」
「か、体が内側から焼けるようです……っ」
侯爵は部下達へ怒鳴った。
「おい、お前たち! 大丈夫なのか!」
「は、はい! 強い薬を使っていますので、相当な痛みがあるかと思います。ですが、薬が効いている証拠でもあります」
「くっ、そうか。ならば、僧侶よ、彼女の痛みを和らげてやるのだ!」
「は、はい」
修道服を来た少女がアリシアへ手をかざす。
その淡い光に包まれてアリシアの顔が少しだけ和らぐ。
闇の住人は清浄な光を恐れて部屋の外へ飛び出していった。
何事にも屈しない侯爵は部屋に残り、ほう……と安堵の息を吐く。
「アリシアの様子が穏やかになった。……うまくいったようだな」
侯爵は何度も頷くと、部下達に看病するよう言い、意気揚々と退室した。
ところが二日後。
アリシアの容体が急変した。
高熱を発し、意識が混濁する。
知らせを聞いた侯爵が病室に駆け込む。
「一体何があった! 早く治せ!」
「だ、ダメです! もう彼女の体力が持ちません」
そこへバタバタと足音を立てて一人の妖魔が駆け込んできた。尖った帽子と靴を履いたインプ。
「地獄王さま、大変です!」
「どうした!?」
「アリシアさんの血液に細菌が混じって繁殖してます!」
「な、なに! なぜだ! 細菌由来の病気ではなかったはずだ! ええい、早く薬を打て!」
「彼女の体力がもちません!」
アリシアは、はぁはぁと浅い呼吸を繰り返していた。
「それでもやるのだ!」
――と。
彼女は朦朧とした表情で、侯爵の服を掴んだ。
「じ、地獄おうさ、ま……」
「どうした、アリシア! 無理にしゃべるでない!」
焦点の合わない視線を侯爵に向けながら、それでもアリシアはやつれた頬に笑みを絶やさない。
「ありがとう、ございます、地獄おう、さま……アリシアは、幸せ者です……」
「バカを言え! 病気ごときに負けているお前が、幸せなわけがなかろう! そなたは我輩の手にかかって死ななければならないのだ!」
するとアリシアは、こくりとうなずいた。
「お願いです……地獄おう、さま……」
「なんだ?」
「私を、あなたの手で……死なせてください……」
「何を言うか! 今はまだ――」
けれどもアリシアは首を振る。今にも消えてしまいそうな声で言う。
「おねがい、です……私に、最高の、死を……」
部下が叫ぶ。
「だ、ダメです。薬剤を投与しても、今度は別の細菌が――っ!」
「血圧も、呼吸も、鼓動回数も、全部低下――」
「いったい、どういうことだ!」
侯爵はアリシアの手を握りながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。
彼女を握る手は小刻みに震えていた。
ふいに、アリシアが苦痛から解放されたかのように微笑んだ。金髪が揺れてほのかに光る。
「ああ、世界が遠のいていく……おねがい」
「アリシア! ――くうっ!」
侯爵はきつく目を閉じると、アリシアの痩せた体を抱え上げた。
華奢な喉に牙を突きたてる。
パッとピンク色の血が辺りに飛び散った。
侯爵に抱かれたアリシアの頬に透明な涙が伝った。
「地獄、おうさま……大好きでした……ありがとう……」
「……アリシアっ!」
侯爵は喉に牙を立てつつ、強く彼女の体を抱き締めた。
――短くも長い時間が過ぎた。
病室はとても静かだった。
ベッドの上に横たわるアリシアは、人形のように青白い肌をしていた。
耳には綺麗なイヤリングが、胸の上で重ねられた手には指輪が光っている。
天使のような微笑みを浮かべていた。まるで眠っているかのようだった。
長い間彼女を見下ろしていた侯爵は、次第に体を震わせた。
握り締めた拳が震える。
そして声を震わせて叫んだ。
「許さん……っ! 許さんぞ! たかが病気の癖に、我輩から獲物を奪うなど! この世の病気など、すべて駆逐してくれるわ!」
部下達が心配そうに声を掛ける。
「地獄王さま……」
侯爵はそんな部下達を激しく睨みつける。
「その名で呼ぶな! なにが王だ! 死を振りまけるからと図に乗りすぎていた。今日から我輩は謙虚に生きる! 位を下げて地獄侯爵、略して侯爵と呼べ! この世から死を駆逐し、我輩が唯一の死の存在となる日まで!」
「「「はは~! 侯爵さま~!」」」
部下達はひれ伏した。
そしてアリシアは村を見下ろす高台に葬られた。
◇ ◇ ◇
夕暮れのグリーン山。
侯爵の話が終わり、俺は酒を一口飲んだ。
「それで地獄王じゃなく、地獄侯爵になっていたのか」
「そうだ。我輩はこうみえて謙虚だからな! ふははっ」
侯爵は高笑いをしたが、どこかしらむなしく響いた。
俺は言う。
「骨髄に薬剤をいきなり流したのはまずかったな。病室を無菌状態にしてからやるべきだった。血液は体に入った細菌をやっつける働きがあるが、骨髄の造血細胞を薬で叩くと、一時的に細菌を倒せなくなるんだ」
「その通りだ。今となっては我輩の病院で完治できるが、当時はそこまで考えがいたらなくてな」
「まあ、治療法を見つけるまでに薬や魔法で騙しだまし生存させた結果、間質性肺炎も発症していたみたいだし、仕方がなかったと言える。最善は尽くしたんじゃないのか?」
「そうであるといいがな」
「それに侯爵の病院が桁違いに優れている理由がわかったよ。――まあ、最後は能力を使わず、牙で喰らいついたのは驚いたが」
「ふんっ、吸血鬼の牙は人に甘美な心地を与えるからな……願いを叶えられなかったせめてもの償いだ」
侯爵はつまらなそうに溜息を吐き、酒をぐいっと飲んだ。
――侯爵が人を喰らったのは、それが最後なのだろうな。
だから彼女の名がリストの一番下に載っていたのだろう。
なぜ痩せ細ってまで血を満足に吸わなかったか、ようやくわかった気がした。
俺はグラスを掲げる。
「その勇敢で優しい彼女に、乾杯」
「……乾杯」
侯爵はからのグラスを掲げた。
お互いのグラスがぶつかり、カツンと静かな音を立てる。
広い洞窟へ沁み込むように、乾いた音は広がっていった。
閑話 侯爵が侯爵になった理由・終