1章・8話
夜の進路指導室は、昼間の延長の顔をしたまま、まるで別の場所になっていた。
壁には進学先の一覧や就職案内のポスターが整然と貼られている。面談用の机と椅子は、昼間の配置のまま几帳面に並び、書棚には進路資料のファイルが番号順に差し込まれていた。
どこにでもある学校の一室。そう見えるように、ちゃんと整えられている。
だからこそ、夜は息苦しい。
蛍光灯の白い光は、部屋の隅まで律儀に照らしているくせに、明るさそのものが冷たい。窓の外はもう真っ黒で、校舎の奥まったこの部屋には、人の気配も生活音も届かない。時計の針が進む音だけが、妙に細く長く響いていた。
志藤はその静けさを好んでいた。
昼間は、生徒が出入りする。
進路相談に来る者もいれば、ただ話を聞いてほしいだけの者もいる。親と揉めた、将来が決まらない、不安で眠れない、そういうありふれた悩みを、皆がそれぞれに抱えてやってくる。
どれも学校では珍しくない光景だ。だから誰も、この部屋が夜になると別の意味で“相談室”になるなどとは思わない。
志藤は机の上に置いたICレコーダーへ目を落とした。
銀色の小さな機械は、白い蛍光灯の下でひどく無機質に見える。
けれど彼にとって、それはただの記録機器ではなかった。音を残すための道具であり、呼吸を閉じ込める箱であり、失われたものをまだ失っていないと誤認させてくれる、最後の拠り所でもある。
指先で、そっと撫でる。
宝物に触るような手つきだった。
「……今日のは、悪くなかった」
独り言のように呟く。
誰に聞かせるでもない。けれど、この部屋には彼の声を聞いているものが、自分以外にもう一つあった。
進路指導室の奥。
壁際に立てられた鏡の前に、少女のような影がある。
遠目には、小柄な女子生徒がそこに立っているように見えなくもない。肩にかかる黒い髪、細い首、制服に似た暗い輪郭。だが、見れば見るほど、どこかが噛み合っていない。
髪と肩の境目は曖昧で、足元は床に溶けるように滲んでいる。輪郭は少女の形を真似ているのに、その真似方が妙に不出来だった。
そして何より、口元だけが濃い。
夜の進路指導室で、そこだけが妙に生々しい。
白い顔の下半分に、無理やり貼りつけたみたいな唇の線。光の加減によっては、一つに見えない。何枚も重なっているようにも見える。閉じているのか、開きかけているのか、それすら曖昧なまま、じっと鏡の前に立っていた。
志藤は椅子に深く腰かけたまま、その影を見つめる。
目つきはやわらかい。
少なくとも、本人はそういうつもりで見ている。愛おしいものを見る目。大切なものを確かめる目。壊してはいけないものを、壊さないように見守る目。
だが、部屋の空気はそれを愛情と呼ばなかった。
むしろ、出来の悪い標本を眺める観察者の目に近い。
どこが足りないか、どこを直せばより“らしく”なるかを、黙って測っている目だった。
志藤はレコーダーを手に取る。
再生ボタンへ指をかける前に、鏡の前の影へ視線を向けたまま、穏やかな声で言った。
「ひな」
影は動かない。
だが、呼ばれたことだけは分かっているようだった。口元の輪郭が、ほんのわずかに揺れた。
志藤は満足そうに目を細める。
「いい子だ」
その一言は、あまりにも自然に、あまりにも日常的に部屋へ落ちた。
夜の校内、進路指導室、鏡の前の少女めいた影。
そのどれもが異常なのに、志藤にとってはもう“いつものこと”だった。
再生ボタンが、静かに押し込まれた。
最初に流れてきたのは、声ではなかった。
息だ。
浅く、掠れて、喉の奥で引っかかったまま外へ出ようとしている呼吸。
言葉になる前の、音だけ。悲鳴に変わり損ねた空気の擦れ。誰かが必死に何かを言おうとして、それでも口の形だけが空回りした時に漏れる、あの頼りない呼気。
志藤はその音に、ゆっくりと目を閉じた。
聞き逃さないようにではない。
むしろ、味わうように。
レコーダーの小さなスピーカーから漏れる息は、ひどく不完全だった。
一つひとつが短い。断片的だ。言葉にもなっていない。なのに、そこにはちゃんと“恐怖の瞬間”だけが残っている。驚き、理解の遅れ、喉の収縮、潰れた悲鳴。そういうものだけが、余計な意味を削ぎ落とされたまま、薄い膜みたいに閉じ込められている。
「……違う」
志藤は目を開けた。
穏やかな声だった。
怒鳴ってはいない。癇癪でもない。もっと冷静で、もっと気味が悪い種類の否定だった。
「違う違う」
ICレコーダーを手の中で転がしながら、鏡の前の影へ目を向ける。
少女のようなそれは、相変わらずじっと立っている。
白い顔。曖昧な輪郭。濃すぎる口元。
だが、志藤にとって重要なのはそこではなかった。
大事なのは、そこからどんな音が出るかだ。
「ひなの声は、そんなんじゃない」
言葉が、夜の進路指導室の中で妙に柔らかく響く。
優しく言い聞かせているようにも聞こえる。教師が怯えた子供を落ち着かせる時の声色に近い。けれど、その実、していることは訂正だった。
お前は今、間違っている。
そういう調子だ。
鏡の前の影が、かすかに首を傾げた。
それは子供の仕草にも見えた。
理解できないものを、それでも理解したふりで受け入れようとするような、不自然に素直な動きだった。
志藤はその仕草に、満足そうでもあり、不満そうでもある曖昧な息を漏らす。
「もっと優しく」
レコーダーを机に置く。
彼は椅子から立ち上がり、ゆっくりと鏡の方へ歩いていった。
靴音は小さい。
この部屋では、自分以外の音を立てたくないのかもしれなかった。
進路指導室の隅、鏡の前。そこへ辿り着いて、志藤は影と向かい合う。鏡面に映る自分の顔と、その横に貼りつくように存在している少女の輪郭が、並んでいた。
「そんな、尖った感じじゃない」
白い頬のあたりで、志藤の指が止まる。
触れているのか、触れていないのか、ぎりぎり分からない距離だった。
「もっと、ちゃんと」
“ちゃんと”。
その言葉に、鏡の前の影がわずかに揺れる。
口元の輪郭が、薄くずれた。唇の線が重なり、閉じる。開く。また閉じる。ひどく不器用に、誰かの“それらしい顔”を真似ようとしているみたいだった。
志藤はじっとそれを見つめる。
怒ってはいない。
だが、満足もしていない。
期待している教師の顔。
もっと上手くできるはずだと信じている人間の顔。
その温度が、かえって異様だった。
レコーダーから、もう一つ別の音が流れる。
今度は短い吐息のあとに、掠れた母音らしきものが続く。言葉ではない。ただ、意味になれなかった音の名残だけがある。
志藤の喉が、かすかに上下した。
彼はその音を聞いて、苦しそうにするでも、悲しそうにするでもない。
むしろ、惜しむような顔をする。
「そこだ」
ぽつりと呟く。
「今のは近かった」
鏡の前の影が、じっと彼を見ている。
いや、見ているように見せられているだけかもしれない。
それでも志藤は、その曖昧な視線をまっすぐ受け止めた。
「ほら、できるじゃないか」
やはりその声は優しい。
優しいのに、救いがない。
褒めているようでいて、実際には成果物の出来を確認しているだけだ。
しかもその基準は、“目の前のそれ”に由来するものではない。志藤の頭の中にある理想像にしか従っていない。
鏡の前の影は、それ以上何も言わない。
言えないのか、持っていないのか、その区別すら曖昧なまま、ただ口元だけが微かに揺れた。
志藤はそれをしばらく見つめてから、机の上のレコーダーへ手を伸ばす。
早送り、停止、巻き戻し。指の動きは慣れていた。何度も繰り返してきた人間の手つきだ。
断片的な息。
掠れた音。
未完成な“声”。
それらを一つずつ拾い上げ、聞き比べ、直し、求め直す。
この部屋では、それがもう日常の作業として成立していた。




