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1章・9話

 志藤は机の上のICレコーダーを、そっと持ち上げた。


 片手ではない。

 両手で包み込むように持つ。


 銀色の小さな機械を、壊れ物でも扱うみたいな慎重さで持ち上げて、そのまま耳元へ寄せる。


耳で聞くというより、頬へ触れさせるような距離だった。冷たい樹脂の感触が、皮膚に吸いつく。まるで熱を確かめるように、あるいは頬ずりでもするように、ほんのわずかに角度を変えながら、志藤は再生ボタンを押した。


 掠れた息が流れる。


 次いで、聞き慣れた少女の声が、ごく自然な調子で部屋に落ちた。


『おはようございます、志藤先生』


 そこで、志藤の目が細くなる。


 再生を止める。

 巻き戻す。

 もう一度流す。


『おはようございます、志藤先生』


 今度は最後まで聞き切らずに止めた。

 その一言だけで十分だったらしい。頬へ押し当てたまま、志藤は小さく息を吐く。鏡の前の“ひな”では埋まらない、平熱のままの声。日常の中で何気なく使われる声音。その何でもなさが、かえって彼を落ち着かなくさせる。


 また指が動く。


 次に流れたのは、少し間のある、柔らかな敬語の断片だった。


『すみません、部活はもう辞めちゃってて。……父の経営する喫茶店を切り盛りするのに忙しいんですよ』


 志藤はそこで停止した。


「喫茶店〈灯〉……」


 口の中で転がすように、その言葉をなぞる。

 昼間の校内で聞き流した時には、ただの家庭事情にすぎなかったはずの言葉が、いまは妙に手触りを持って迫ってくる。灯。忙しい。辞めちゃってて。

 どれも他愛ない。なのに、声の底が妙に静かだ。普通の生徒の愚痴や言い訳なら、もっと軽く、もっと散る。だが灯紗希の声は、どこか削れにくいものを残している。


 志藤はレコーダーを頬へ寄せたまま、薄く笑った。


「君は、本当にいい」


 その“いい”は褒め言葉の形をしていた。

 だが実際には、良い紙質だとか、良い発色だとか、そういう素材への評価に近かった。


 もう一度、指が動く。


 今度は少しだけ、音量が上がった。

 レコーダーの中の紗希は、少し笑っているようにも聞こえる。


『すいません、物わかりの悪い不良に、うまいこと説教する決まり文句みたいなのありませんか? 参考にしたくて』


 志藤の喉が、かすかに鳴った。


 そこで再生を止める。

 止めてから、また巻き戻す。

 今度は文の途中まで。

 “物わかりの悪い不良”のあたりだけを、何度か繰り返す。


『……不良に、うまいこと説教する……』

『……参考にしたくて』

『……したくて』


 細かく刻まれた声の断片が、夜の進路指導室へばらまかれる。

 自然な会話として聞けば他愛ない。だが、意味から切り離され、音としてだけ反復されると、そこに残るのは柔らかさや韻の揺れだけになる。志藤は、それをじっと聞いていた。


 鏡の前の“ひな”が、わずかに揺れる。


 その気配に、志藤は顔を上げた。

 少女めいた影は、相変わらずそこに立っている。口元だけが濃く、輪郭だけが不安定で、誰かの真似をしようとしては間違え続ける気配を全身にまとっている。


 志藤は、耳元のレコーダーをそのまま抱くようにしながら、“ひな”を見る。


「聞こえたかい」


 声は穏やかだった。

 けれど、その優しさの向かう先は、目の前の存在そのものではない。

 その向こうにある“完成形”にしか向いていない。


「こういうのだよ」


 頬に押し当てたまま、レコーダーを少し持ち上げる。

 まるで、教材でも見せるみたいに。


「無駄に怯えない。媚びない。けれど、ちゃんと崩れる余地がある」


 “ひな”は答えない。

 いや、答え方を持たないのかもしれない。口元だけがわずかに揺れ、いくつもの唇が重なったまま、何かを模倣しようとして失敗している。


 志藤はその不出来さを見て、怒りはしなかった。

 ただ、惜しいと感じる。


「今の君も悪くはない」


 その言い方は、作品を評するみたいだった。


「でも、まだ足りない」


 レコーダーの表面へ、親指をそっと滑らせる。


 灯紗希。

 派手な声ではない。高くも低くもない。教師の前で使う、きちんと整った敬語。

 なのに、そこには削り甲斐のある静けさがある。あの落ち着きが恐怖で割れた時、どんな吐息になるだろう。どんなふうに言葉の出口を失うだろう。


 志藤は、ほとんど確信に近い気持ちで呟いた。


「灯紗希……」


 名を呼ぶ。

 それだけで、レコーダーを持つ指先に少しだけ力が入る。


「あの子の声は、きっといい」


 鏡の前の“ひな”を見る目と、灯紗希の声を思う目に、ほとんど違いはなかった。

 どちらも、まだ完成していないもの。

 惜しいもの。

 もっとよくできるはずのもの。


 志藤は小さく笑った。


「もっと、もっと記録しなくてはな」


 その声は、あまりにも穏やかだった。

 教師が、自分に言い聞かせるみたいな声音だった。

 だからこそ、その中身だけがひどく異物めいて、夜の進路指導室の空気をゆっくりと冷やしていった。


 しばらくのあいだ、志藤は何も言わなかった。


 レコーダーを耳元から離し、両手の中に収めたまま、鏡の前の“ひな”を見ている。

 少女めいた輪郭は、そこにある。白い顔、曖昧な髪、足元へ溶ける影。口元だけが相変わらず濃く、何かを真似ようとして、まだ真似きれないまま揺れていた。


 志藤はゆっくりと一歩、鏡へ近づく。


 靴音は小さい。

 この部屋の静けさを壊したくないのか、それとも、こういう時だけは慎重でいたいのか。どちらにせよ、その足取りにはもう焦りがなかった。

 次に試すべきことが見えた人間の、静かな落ち着きだった。


 鏡の前まで来ると、志藤は片手でレコーダーを持ち直す。

 もう片方の手を、ためらいなく“ひな”へ伸ばした。


 頬へ触れる、というよりは、輪郭を確かめるような手つきだった。

 壊れていないか。崩れすぎていないか。まだ使えるか。

 そういう確認の仕方に近い。けれど、声色だけは優しい。


「いい子だ」


 “ひな”の口元が、ほんのわずかに揺れる。


 褒められて嬉しい、という動きではない。

 反応の型を探して、ひとつ選び損ねたような揺れ方だった。

 それでも志藤は満足したらしい。口元にごく薄い笑みを浮かべる。


「今日はここまでにしよう」


 その言い方は、放課後の生徒へ告げる教師のものとよく似ていた。

 だからこそ、そこにある支配の温度だけが異様に浮いた。


 志藤は“ひな”から手を離す。

 離したあとも、しばらくその輪郭を見ていた。惜しい、という目。期待している目。だが、失望はしていない。

 足りないものがあるのなら、足せばいい。近づかないなら、寄せればいい。彼にとってはまだ、その程度の話なのだ。


 レコーダーを胸元へ引き寄せる。

 両手で包むように持ち、最後に一度だけ、その硬い表面へ親指を滑らせた。


「大丈夫」


 誰に向けた言葉なのか、曖昧だった。

 “ひな”にか。

 レコーダーにか。

 あるいは自分自身にか。


「まだ、ちゃんと残っている」


 その声音には、奇妙な安心があった。

 失われていない。まだ採れる。まだ直せる。まだ近づける。

 そんな、ひどく自己中心的な安堵。


 志藤はそこで、ふと目を細める。


「……灯紗希」


 小さく名を呼ぶ。

 さっきまでと同じ、静かな響き。

 けれど今度は、試しに発音してみたのではない。自分の中で、次の対象としてきちんと置き直すような呼び方だった。


「次は、きっともっといい」


 その言葉は期待だった。

 けれど、相手の幸福や無事を願う期待ではない。

 もっときれいに壊れるだろう。もっとよく記録できるだろう。そういう、冷たい予感に近い。


 進路指導室の明かりを落とす。


 蛍光灯が消える直前、鏡の中にいた“ひな”の口元だけが、一瞬遅れて残ったように見えた。

 重なった唇の線が、闇の中で薄く開いて、閉じる。


 志藤はそれを見ても、もう立ち止まらない。


 レコーダーを胸ポケットへしまい、戸口へ向かう。

 夜の校内は静かだった。

 その静けさの中を、彼はなんの迷いもなく歩いていく。


 戸が閉まる直前、志藤の声だけが、暗い進路指導室へ穏やかに落ちた。


「もっと、もっと記録しなくてはな」


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