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1章・10話

 放課後の御堂高校は、外から見ればごく普通の学校だった。


 正門の脇には下校する生徒の流れができている。部活へ向かう者、友人と並んで帰る者、校門の前で立ち止まって話し込む者。グラウンドの方からは運動部の声が飛び、校舎の窓にはまだ昼の名残の光が薄く残っていた。

 昨日の夜、あの進路指導室で起きていたことを知らなければ、ここが何かの中心だとはまず思わない。人の気配も、生活の音も、ちゃんとある。平日の学校として、あまりに正しい放課後だった。


 レンはその校門の少し外れた位置に立っていた。


 学校という場所に、どうにも似合わない。

 制服ではない大人の男が、放課後の校門前に立っているだけで、それなりに目を引く。長い茶髪を後ろで束ね、暗い色のジャケットを羽織った細身の青年。胸元に小さな十字架。夜の事件圏では違和感のなかったその格好も、放課後の高校の前に置かれると急に浮く。


 だからレンは、正面きって門の真ん前には立たず、少し脇へ寄っていた。

 待ち合わせ相手が高校生である以上、余計な目を集めるのは避けた方がいい。そう考えての位置取りだったが、本人も半分は、学校という場所それ自体に一歩引いていたのかもしれない。


 やがて、校門の内側から紗希が出てきた。


 昨日〈灯〉で見た時と同じ顔。

 けれど、制服だけの姿になると印象は少し変わる。エプロンがないだけで、喫茶店の店員ではなく高校生に見える。もっとも、首元の白い包帯だけは相変わらず目立っていて、そのせいで「普通の女子高生」に見えきらないところも同じだった。


 紗希はレンを見つけると、軽く手を上げる。


「こんにちは、レンさん」


 声の調子は昨日と変わらない。

 柔らかい。だが、ただの愛想ではない。最初から、こちらが来ることを前提にしていた声だ。


 レンも片手を上げて応じる。


「どうも。約束通り来てみた」


「ありがとうございます」


 紗希はそう言って、校門を出たところで一度立ち止まった。

 校舎の方を振り返る。ほんの一瞬だけ、何かを確かめるみたいな目だった。誰かを探しているわけではない。もっと癖に近い確認だった。


 レンはその横顔を見ながら、昨日から引っかかっていたことを口にする。


「昨日の感じからして、来ないんだろうなとは思ってたけど」


 紗希はすぐに意味を汲んだらしい。小さく苦笑する。


「先輩のことですね」


「うん」


 レンは肩をすくめる。


「食い物の話でも怪異そのものの話でもないと、あの人あんまり乗ってこなさそうだし」


 そこまでは半分冗談だ。

 だが、その先は少し違う。


「……それにしても」


 レンは校門の鉄扉へ軽く寄りかかりかけて、やめた。学校の物に勝手にもたれるのもどうかと思ったのだろう。結局、両手をポケットに入れたまま紗希を見る。


「ただ興味がないってよりは、やたらシャットダウンしたがってるようにも見えたけど?」


 紗希は「ああ」と小さく頷いた。


 驚きはしない。

 その見立ては、たぶん彼女の中でも最初から正解だったのだろう。


「ああ、それはですね」


 紗希は一度、包帯の上から無意識に首元へ触れた。すぐに手を離して、何でもない顔に戻る。


「食に直結しないことに興味がないのも、もちろんあります」


「もちろんなんだ」


「もちろんです」


 そこは即答だった。

 レンが思わず苦笑する。その反応を待ってから、紗希は続けた。


「でも、単純に気まずいんでしょうね」


「気まずい?」


「あの人、この高校の生徒だった人ですから」


 レンの眉が上がる。


「……“だった”?」


 紗希は頷いた。


「私が先輩って呼んでるのも、その名残ですよ」


 校門の向こう、帰っていく生徒たちを横目で見ながら言う。

 その声音には、説明の慣れがあった。たぶん、今までにも何度か聞かれたことがあるのだろう。


「私より学年が二つ上の先輩です。正確に言うと、“元”先輩ですかね」


 レンはそこで小さく「へえ」と言った。


 それでようやく、昨日から引っかかっていた細部がいくつか繋がる。紗希が恭介を“先輩”と呼ぶ距離感。恭介が学校の話題になると露骨に温度を落とす感じ。あれは単に不良っぽい男が学校嫌いなだけじゃない。もっと直接的に、その場所と関わっていた人間の拒否感だ。


 紗希はその続きを、ごく自然に言った。


「“元”生徒だからでしょうね。私が学校の話題を出すと、露骨に嫌がるんですよ」


「なるほどね」


 レンは視線を校舎へ向ける。


 夕方の光を受けた窓が、何枚も並んでいる。

 普通の学校だ。そう見える。だが、あの恭介が露骨に話を切りたがる程度には、彼にとってここは面倒な場所なのだろう。


「だから昨日、あそこで細かい話をしても、たぶん途中で席立ってたと思います」


 紗希は少しだけ肩をすくめた。


「先輩、分かりやすいので」


 レンはその言い方に、少しだけ笑う。


「たしかに、分かりやすかった」


「でしょう?」


 そう返してから、紗希はようやく校門の内側へ向き直った。


 ここから先は、喫茶店〈灯〉ではなく、御堂高校の話になる。

 放課後のざわめきはまだ残っている。グラウンドから飛ぶ声も、昇降口へ向かう生徒たちの足音も、べつに不自然ではない。だが昨日までより、レンにはこの校舎が少し違って見えていた。外から来た大人の違和感だけではない。校内のどこかが、うっすらと別のものへ接続している感じがある。


 紗希が歩き出す。


「じゃあ、行きましょうか」


 レンもその隣へ並んだ。


 門をくぐる瞬間、放課後の学校の空気が少しだけ近づいてくる。

 チャイムの残響、人の話し声、床を擦る上履きの音。全部ちゃんと日常のものだ。

 だからこそ、その中に混ざる異常は、昨日の〈灯〉よりも見つけにくいのだろうとレンは思った。








 校門をくぐると、外から見ていた時よりも、学校の音はずっと細かく分かれた。


 昇降口の方では、部活へ向かう生徒たちが上履きに履き替えている。

 廊下の奥からは、机を引く音と、まだ帰り支度の途中らしい話し声が混じって聞こえた。グラウンドの方へ抜ける風は少し土臭く、反対に校舎の中はワックスと古い紙の匂いがする。

 どれも、学校としては当たり前のものだ。


 紗希はレンより半歩だけ前を歩いていた。

 案内する側の位置だ。けれど大げさに先導するでもなく、ただ自分の生活圏の中へ相手を通しているような自然さがあった。制服の背中、肩口ではねる黒髪、首元の白い包帯。

 そのすぐ後ろをレンがついていく。長い足に合わせればもっと速く歩けるはずなのに、意識して紗希の歩幅に合わせていた。


「昨日の続き、聞かせてもらえる?」


 歩きながら、レンが静かに言う。

 声量は抑えている。教師や他の生徒の耳に入らないようにという配慮もあるし、場所が場所だけに、こちらから緊張を煽りたくないのだろう。


 紗希は振り返らずに頷いた。


「はい」


 短く答える。

 それから、すぐには続けなかった。曲がり角で一度足を緩め、正面から来る生徒二人組を先に通す。その間、視線だけで廊下の向こうを見ていた。見ているというより、何かを測っているような目だった。


 生徒たちが通り過ぎる。

 片方が鏡のある掲示板の横を通る時、ほんの少しだけ顔を背けたのを、紗希の目は見逃さない。


「最近、ちょっと変なんです」


 再び歩き出しながら、紗希が言った。


 レンは隣へ並びすぎない位置を保ちながら、横顔だけを見る。


「変っていうのは?」


「最初は、体調不良かなって思ったんですよ」


 紗希は廊下の窓の方へ目をやる。

 放課後の光が細く差し込んで、床の上に長い四角を作っていた。その光の中を、部活へ急ぐらしい男子生徒が二人、鞄を揺らして走っていく。紗希は少しだけ端へ寄って、その流れを避ける。


「口数が急に減った子がいて。声が、なんていうか……出しにくそうな感じになってる子もいて」


 角を曲がる。

 廊下の先には、窓ガラスに夕方の色が映っている。そこを歩いていた女子生徒が、反射的にガラスの方を見かけて、すぐ目を逸らした。レンはそこまで気づかなかったが、紗希の言葉には迷いがなかった。


「鏡とかガラスを、妙に避ける子もいます」


 レンの視線が自然と壁際へ流れる。

 消火器の上、掲示物の横、小さなガラス面がいくつかある。確かに、普段なら誰も気にしないような場所だった。


「ぼんやりしてる、って言い方でも近いんですけど」


 紗希は少しだけ言葉を探す。


「寝不足とか、風邪とか、そういうのでも説明はできるんです。でも……」


 そこで初めて、彼女は少しだけ振り向いた。

 校内を案内する顔ではなく、昨日の〈灯〉でメモを取っていた時の顔に近い。観測結果を、順番に並べている顔だ。


「それだけじゃ済まない感じがするんですよね」


 レンは頷きもせず、そのまま聞く。

 否定も肯定も急がない。相手が自分の言葉を自分で整えるまで待つ聞き方だった。


「昨日の被害者と、近い?」


 問い方が短い。

 けれど、欲しい答えは明確だ。


 紗希は前へ向き直る。


「たぶん」


 今度は、迷わず答えた。


「少なくとも、私にはそう聞こえました。レンさんのお話」


 昇降口へ向かう階段の前を通り過ぎる。

 その途中、下の段に座ってスマホを見ていた女子生徒が、二人の気配に気づいて顔を上げた。何でもない一瞥だったが、その子は口元へ手をやってから、少しだけ慌てて立ち上がる。

 その仕草を、紗希はまた見ている。レンも今度は気づいたが、特に何も言わなかった。


「その中でも、美和は特におかしいです」


 紗希が、やや声を落として言う。


「美和?」


「同じクラスの子です」


 歩幅は変わらない。

 けれど、その名前を出した時だけ、紗希の声音には観測とは別の温度が混じった。心配、と言い切るほど感情的ではない。だが、放っておけない対象としてすでに線を引いている響きがある。


「ここ数日で、一番変わりました」


 紗希は続ける。


「急に喋らなくなったし、喋っても、声がうまく出てない感じで。あと……」


 一度、言葉を切る。

 その沈黙の間に、隣の教室から笑い声が漏れた。遅れて、椅子の脚が床を擦る音。

 日常の音だ。なのに、紗希の話を聞いたあとの耳には、それが妙に遠く感じられる。


「私の気のせいじゃなければ、口元をずっと気にしてます」


 レンの目が少しだけ細くなる。


 昨日の夜道で見た被害者。

 助けを呼べないまま、口元だけがこの世から半歩ずれていた女。

 その記憶と、いま紗希が話した“美和”の様子が、頭の中で重なり始めていた。


「近い線だな」


 独り言に近い低さで、レンが言う。


「はい」


 紗希は即座に頷いた。


「だから、昨日レンさんが言ってたこと、たぶん合ってると思います」


 その言葉のあと、二人は少しだけ黙ったまま歩いた。

 廊下の先、窓に映る校舎の影。教室の出入口に立つ生徒。笑い声。

 どれも普通だ。どれも日常だ。

 だがその中に、口元を気にする仕草や、反射を避ける動きや、妙な静けさが混じっているのだと分かると、同じ景色が少しずつ別の意味を持ち始める。


 紗希はその違和感の中を、慣れた足取りで歩いていく。

 レンはその半歩後ろから、彼女が何を見て、何を“おかしい”と判断しているのかを追っていた。

 学校の内側の人間と、外から来た人間。歩く速度は揃っていても、見ている景色はまだ少し違う。だからこそ、今はちょうどよかった。






 保健室は、職員室ほどには騒がしくなく、空き教室ほどには閉じていない場所だった。


 廊下の角を曲がると、空気が一段だけ静かになる。

 保健室前には長椅子が二脚置かれていて、壁には季節の健康だよりや、よく分からない標語めいたポスターが何枚か貼られていた。窓はあるが広くはなく、夕方の光は白く薄く差し込むだけで、廊下の明るさを押し上げるほどではない。

 ひとが休んでいても不自然じゃない。けれど、ひとが閉じこもっていても気づかれにくい。そんな半端な場所だった。


 紗希は、保健室の手前で少しだけ歩く速度を落とした。

 レンもそれに合わせる。彼女の視線の先を追うと、長椅子の端に一人、女子生徒が座っていた。


 栗色のロングヘアで、顔つきは隠されている。

 ……というより、自分から隠すような空気があった。


「あれです」


 紗希の声も自然と小さくなる。


 美和は壁に背を預けるでもなく、長椅子の縁へ浅く腰かけていた。今にも立ち上がれそうな中途半端な座り方だ。

 制服のスカートの裾を無意識に握りしめ、もう片方の手はずっと口元にある。

 まるで、そこに手がないと落ち着かないみたいな押さえ方だった。


 具合が悪い生徒に見えないこともない。

 だが、それだけでは済まない違和感がある。


 まず、姿勢が妙だった。

 誰かを待っているようには見えない。休んでいるにしては、肩に力が入りすぎている。目は伏せられているのに、周囲の音を聞き逃すまいとするみたいに首筋だけが硬い。

 それに、保健室の扉の小さな窓を、美和は一度も見なかった。廊下の窓も、ガラスの掲示板も、視界に入った瞬間だけ反射的に目を逸らしているように見える。


「最近、ここにいることが増えたんです」


 紗希は、美和から目を離さないまま言った。

 レンはその半歩後ろで立ち止まり、保健室前の様子を崩さない位置を選ぶ。いきなり大人の男が近づけば、それだけで警戒させると分かっている立ち方だった。


「具合が悪い、って言って来てるんでしょうけど……」


 紗希は言葉を選ぶ。


「体調不良っていうより、閉じこもってる感じなんですよね」


「閉じこもる?」


 レンが小さく聞き返す。


 紗希は頷いた。


「人に見られるのを嫌がってるような感じで。特に口元をマスクで覆ったうえで、さらに隠すような」


 レンは目を細める。

 昨日の被害者も、最初は自分の口で何が起きているのか理解していなかったはずだ。ただ、声が出ない。空気が抜ける。口元がずれる。その“おかしさ”だけを、本人の方が先に察していく。

 美和はいま、その手前と途中のあいだにいるのかもしれない。


 紗希が一歩前へ出る。


 足音はできるだけ小さく。

 同級生へ話しかける時の、普段の声色で。


「美和?」


 呼ばれて、美和の肩がびくりと震えた。


 すぐには振り向かない。

 口元を押さえている指先に、ぐっと力が入る。指の節が白くなる。ようやく顔が上がった時、その動きは一拍遅れていた。

 驚いたというより、“自分が呼ばれた”と認識するまでに少し時間がかかっている感じだった。


 紗希はその前にしゃがみ込まない。

 立ったまま、少しだけ距離を残す。追い詰めない距離だ。


「大丈夫ですか」


 美和の目が紗希を捉える。

 それから、紗希の後ろにいるレンの方へ視線が流れかけて、すぐに戻った。知らない大人がいる。それだけで不安が増したのか、口元に当てた手がさらに上がる。


「ちょっと顔色、悪いですよ」


 紗希が続ける。


 美和の唇が動いた。

 だが、最初の音は出なかった。喉の奥でひゅっと細い音が鳴るだけだ。


「……さ、き」


 ようやく出た声は、掠れていた。


 紗希は表情を変えない。

 変えないまま、少しだけ柔らかく返す。


「はい」


「……だい、じょ……」


 大丈夫、と言いたいのだろう。

 だが、言葉が繋がらない。母音の手前で喉が詰まり、呼吸が浅く途切れる。美和は一度、目を強く閉じてから、口元の手を外しかける。けれど、すぐまた元に戻した。


「ちが……」


 掠れた音が、喉の奥でほどける。


「ちょっと、だけ……」


 その「だけ」が、まるで長い階段を降りるみたいに不自然に時間をかけて出てきた。


 レンはその一部始終を見ていた。


 声が出ないのではない。

 声の出口が、うまく繋がっていない。


 口元を押さえる癖。

 誰かの視線を怖がる様子。

 呼吸の浅さ。

 昨日の被害者ほどではない。けれど、線は近い。かなり近い。


「……昨日の子と近いな」


 レンはあくまで小さく言った。

 美和に聞かせるためではなく、紗希へ確認を返すための声だった。


 紗希は頷く。


「やっぱり、そう見えますか」


 その返答にも、驚きはない。

 むしろ、確信がひとつ裏づけられた時の落ち着きがあった。


 美和は二人のやり取りを聞いているのか、いないのか分からない。

 けれど「昨日」という言葉にだけ、目がわずかに揺れた。心当たりがあるようにも、ただ意味の分からない不安に反応したようにも見える。


 紗希は美和の真正面へ立たない。

 少し斜めの位置へずれて、逃げ道を塞がないようにしてから、改めて声をかける。


「少し、座りやすいところ行きませんか」


 美和は答えない。

 代わりに、保健室の扉の小窓へ一瞬だけ目をやって、すぐ逸らした。鏡じゃない。ただのガラスだ。なのに、そこに自分の顔が映る可能性があるだけで、怯えが走るらしい。


 紗希はその視線を見ていた。


「ここだと、人通りありますし」


 押しつけない言い方で続ける。


「別のところで、少し休みましょう」


 レンは一歩も近づかないまま、廊下の端へずれた。

 自分が視界に入りすぎないようにするための移動だった。保健室前の長椅子、紗希、美和。その三つの位置関係を崩さずに、外側の人間として立つ位置を選んでいる。


 美和は長椅子の縁を握りしめていた手を、ゆっくり離した。

 すぐには立たない。けれど、立てないわけでもなさそうだった。紗希の声だけは、まだ“怖いもの”として認識していないらしい。


「……さき」


 また、掠れた声。


「……わた、し……」


 そこで言葉が止まる。

 口元へ手が戻る。息が浅くなる。


 紗希は急かさない。


「大丈夫です」


 昨日〈灯〉でレンへ向けていたのとは違う、もっと低い落ち着いた声で言う。


「ゆっくりで」


 廊下の奥では、部活へ向かう生徒たちの笑い声がまだ続いていた。

 その日常の音のすぐそばで、美和の声だけが、うまく日常の形になれずに引っかかっている。


 レンはその光景を見ながら、ここがもう十分に“入口”だと理解していた。

 昨日の一件は外で起きた。だが、その源はたしかに学校の中へ根を張っている。

 そして今、その根は、美和の口元まで届いている。





 美和は、すぐには立てなかった。


 長椅子の端に浅く腰かけたまま、紗希の声を聞いている。

 口元に添えられた手はまだ外れない。指先に力が入っていて、いまにもそのまま顔を隠してしまいそうだった。


 紗希は急かさない。

 美和の真正面には立たず、少し斜めの位置を崩さないまま、声だけを静かに置く。


「すぐそこです」


 保健室の扉、その向こうの小窓、廊下の窓ガラス。

 美和の視線はそれらを一つずつ避けるように揺れていた。見たくないのに、見えるかもしれない場所ばかりが目に入ってしまう、そんな揺れ方だった。


「大丈夫。ゆっくりでいいです」


 紗希がもう一度言う。


 その声に押されるみたいに、美和はようやく長椅子の端から腰を浮かせた。

 立ち上がる瞬間、膝に力がうまく入らなかったのか、体が少しだけ傾く。紗希は反射的に手を伸ばしかけたが、最後のところで掴まなかった。支えると決めつけるより、自分で立てる余地を残したのだろう。


 美和は壁へ手をつきかけ、そこでどうにか踏みとどまる。


「……だい、じょ……」


 また、言いかけて止まる。

 大丈夫だと言いたいのだろう。けれど言葉が、喉の手前でほどけてしまう。


 レンは廊下の端に寄ったまま、その一部始終を見ていた。

 前へは出ない。知らない大人が近づくことそのものが、美和の呼吸をさらに浅くすると分かっていたからだ。


 紗希が一歩だけ先に立つ。


「空いてる教室、ありますから」


 美和は返事の代わりに、小さく頷いた。

 それだけで十分だった。


 三人はゆっくり動き出す。


 並びは自然に決まった。

 前を歩くのが紗希。

 その少し後ろに美和。

 そしてさらに後ろから、一定の距離を空けてレンがついていく。


 廊下はまだ放課後の音で満ちている。

 教室から漏れる笑い声。階段を駆け下りる足音。遠くのグラウンドから飛んでくる掛け声。

 どれも日常だ。けれど美和だけが、その日常の音から半歩ずれている。誰かと肩が触れるほどではないのに、すれ違う生徒の気配だけで肩が強張る。


 途中、窓際を通った時だった。


 夕方の光が廊下のガラスへ斜めに映って、ぼんやりと人影を返す。

 美和の足が、ぴたりと止まった。


 紗希がすぐに振り返る。


「美和?」


 美和は窓を見ていない。見ていないつもりなのに、視界の端へ入ってしまった反射から逃げ切れずにいる顔だった。口元の手が、また強く押しつけられる。

 レンは後ろから、それを黙って見ていた。症状は声だけじゃない。見られること、映ること、そのものがもう恐怖になり始めている。


 紗希は窓と美和のあいだへ半歩だけ入る。


「大丈夫です」


 声は低く、柔らかい。


「こっち、見なくていいですよ」


 美和の呼吸が少しだけ戻る。

 それを見て、紗希はすぐ歩き出さず、ほんの一拍だけ待った。それから、何事もなかったみたいに前へ向き直る。


 レンもまた、何も言わず後ろにつく。

 いま必要なのは診断でも説明でもなく、この女子生徒を反射の少ない場所へ連れていくことだと分かっていた。


 廊下の突き当たりに近い空き教室の前で、紗希が立ち止まる。

 引き戸ではない、ごく普通の教室の扉。小さな窓はついているが、廊下のガラスほど視線を引かない。紗希はそっと扉を開けた。


 誰もいない。


 机と椅子が、昼間のまま整って残されている。黒板には前の授業の名残が薄く残り、窓際のカーテンは半分だけ引かれていた。夕方の光は入るが、真正面から顔を映すような明るさではない。

 ここなら、少なくとも保健室前の廊下よりはましだった。


「どうぞ」


 紗希が先に中へ入り、美和へ道を空ける。

 美和はためらったあと、小さく身をすぼめるようにして教室へ入った。レンは最後に入り、扉を静かに閉める。完全に密室へ閉じ込めるような乱暴さはない。音を立てず、ただ外のざわめきを薄く遠ざける閉め方だった。


 紗希は一番手前の椅子を引く。



「座って」


 美和はその椅子を見る。

 すぐには座らない。座るより先に、教室の窓をちらりと見て、また逸らす。紗希はその視線を追って、さりげなくカーテンをもう少し引いた。


「これで大丈夫です」


 それでようやく、美和は椅子へ腰を下ろした。

 背筋はまっすぐには伸びない。浅く座って、今にも立ち上がれそうな中途半端な姿勢だ。逃げる準備をしたまま座っているようにも見える。


 紗希はその斜め前の席に座る前、肩に掛けていた鞄を椅子の脚元へ下ろした。

 近すぎず、遠すぎず。視線を受け止められる距離だ。


「大丈夫、すぐには聞きませんから」


 美和はその言葉に、ようやくほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 完全ではない。けれど、保健室前にいた時よりはましだった。


 レンは少し離れた机の角へ腰を預けた。

 正面には立たない。取調べにならない位置を選んでいる。


 それでも、美和はときどき視線だけでレンの存在を確かめる。

 知らない大人。

 けれど、紗希が連れてきた大人でもある。

 その判断のあいだで揺れている顔だった。


 レンはその視線を受けてから、ゆっくりポケットへ手を入れた。


 美和の肩が強張る。


「怖がらなくていいよ」


 声は、廊下で紗希と話していた時より少しやわらかかった。

 軽くしすぎず、押しつけすぎず。人を刺激しない程度に力を抜いた話し方だ。


 レンは小さなカードを取り出す。

 偽造した身分証だった。表面にはそれらしい肩書きと名前。ぱっと見では、学校に出入りする外部の専門職に見えなくもない。


「俺は心理カウンセラーの相馬レン」


 そう言って、カードを美和に見える位置へ差し出す。

 見せびらかしはしない。押しつけもしない。ただ、“ここにいる理由”として置くような見せ方だった。


「こういう時に話を聞く役で呼ばれてる」


 美和は、カードとレンの顔を見比べる。

 完全に信じた顔ではない。けれど、何者か分からない大人よりはましだ、という程度には受け取ったらしい。


 その横で、紗希の視線が一瞬だけレンへ向いた。

 細くなる。

 見抜いた目だった。


 ――嘘だ。


 たぶんそう思っている。

 けれど紗希は何も言わなかった。美和の方へ視線を戻し、その場ではレンの芝居を壊さない。


 レンは続ける。


「君だけが大変な目に遭ってるわけじゃない」


 美和の指先が、口元から少しだけ離れる。


「この学校で、似たような症状が出てる子が何人かいる」


 嘘ではない。

 少なくともレンは、そうである可能性を高く見ていた。


「少し話してみて。無理にとは言わない」


 教室の中は静かだった。

 外のざわめきは、閉めた扉の向こうでぼやけている。


「でも、言葉にした方が楽になることもある」


 美和は、ゆっくりと息を吸った。

 喉の奥で、ひゅ、と細い音が鳴る。


 それでも、さっきよりは呼吸が整っている。紗希の声と、レンの差し出した肩書きが、かろうじて“話してもいい場”を作ったのかもしれない。


 美和の手が、ほんの少しだけ口元から離れた。


「……せん、せ……」


 音が途切れる。


 もう一度、息を吸う。


 紗希は何も急かさない。

 レンも動かない。


 美和の唇が、震える。


「……先生に、呼ばれて」


 その一言だけで、教室の空気がわずかに変わった。

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