1章・7話
ミルの中で、豆が砕ける音が乾いて響いた。
紗希の手元では、選ばれた豆が規則正しく削られていく。
細い指がハンドルを回すたび、香りが少しずつ立ち上がる。
苦味の奥に甘さのある、落ち着いた匂いだった。
そのすぐ隣では、恭介が別の缶を開けている。
こちらは選び方からして雑だ。蓋を開け、香りを嗅ぎ、なんとなく気に入ったものを手元へ寄せる。
さっきまで怪異を喰っていた男が、そのままの手つきでコーヒー豆を扱っているのに、本人だけは何の違和感も持っていない。
レンはカウンター席からその対照を見比べながら、ふと視線を恭介へ寄せた。
「さっき、アンタ……」
そこで一拍止まる。
言い直す。
「……いや、恭介が食った怪異」
恭介はケトルの取っ手に手をかけたまま、ちらとだけレンを見る。
「あれがどうした」
「あれ、とある学校から逃げてきた個体だって報告が入ってる」
恭介は「あっそ」とでも言いたげな顔で鼻を鳴らし、すぐに興味を失った。
だが、豆を挽いていた紗希の手は止まる。
「報告、ですか?」
レンは椅子に浅く腰掛けたまま答える。
「どこからの報告かは、ごめん。企業秘密」
言い方は少し柔らかい。
けれど、はぐらかしているというより、そこには本当に線が引かれているのだと分かる口調だった。
紗希はそれ以上は詮索することはなく。
代わりに、ミルの取っ手から手を離し、視線だけで続きを促す。
レンは、その視線を受けて少しだけ肩をすくめた。
「んで。その高校から湧いてる怪異なんだが、共通点がある」
恭介はそこでようやく、豆を量る手を止めずに耳だけを向ける。
紗希はミルの蓋を押さえたまま、まっすぐレンを見た。
「やつら、“口を奪う”って話だ」
店の空気が、一段だけ静かになった。
紗希は何も言わない。
恭介も口を挟まない。
ただ、二人ともそれぞれの作業を止めないまま、レンの次の言葉を待っていた。
レンは、その待たれ方に少しだけ目を細める。
普通の相手なら、ここでまず怯えるか、意味が分からず聞き返す。だがこの二人は違う。用語の物騒さより、実際にどういう症状なのかを先に聞こうとしている顔だった。
「実際、さっき被害者が出た。……命に別状はないらしい。これも今来たばっかりの情報だが、どこからの報告かは伏せさせてくれ」
レンは端末を隠すようにポケットにしまい、カウンターの上に置いたもう片方の指先をゆっくり引いた。
「文字通りに口が無くなってたわけじゃない。けど、声が出ない。呼吸も浅い」
先ほど夜道で見た、被害者の少女の顔が、頭の中に一瞬だけよぎる。
口元を押さえ、目は開いているのに焦点が合わず、助けを呼ぶ形だけが喉の手前で潰れていた。
「口があるのに、口として機能してないみたいな状態だった。要は、口の“金縛り”だ」
紗希の視線が、少しだけ鋭くなる。
恭介は変わらず無表情だが、さっきまで雑に動いていた手がほんの少しだけ遅くなった。
レンはそこで、一度だけブレーキを踏むように息をついた。
「……本来、一般人にこういうこと聞くのはご法度なんだが」
言いながら、まず紗希を見る。
制服。包帯。エプロン。
そして、怪異の話を聞いて逃げない目。
次に恭介を見る。
怪異を素手で掴んで、血を流しながら喰う男。
「君ら、見た感じ普通じゃないだろ」
その言葉に対して、先に反応したのは恭介だった。
「ひでえ言い草だな。失礼な奴!」
豆をざらりとペーパーフィルターへ落としながら、嫌そうに言う。
「化け物を追っかけながら入店してくる奴の方が、よっぽど普通じゃねえのにな」
「怪異を喰うやつにだけは言われたくねえよ」
レンが軽く返す。
そこで初めて、恭介の口元が少しだけ歪んだ。笑った、というより、ようやく会話の一部としてレンを認めた顔に近い。
紗希はそのやり取りを挟まず、じっとレンを見ていた。
レンはそこで、視線を彼女の制服へ少しだけ落とす。
「……そして」
声が少しだけ真面目になる。
「その学校ってのは――」
言い切る前に、紗希が受けた。
「ああ、分かってますよ」
彼女はそう言って、ミルの中の豆を静かに見下ろす。
「私の通ってる御堂高校のことなんですね」
その返しは落ち着いていた。
驚きではない。確認だった。
レンはその表情を見て、彼女がこの話題にまったく心当たりのない人間ではないと理解する。
カウンターの上では、豆の香りが少しずつ濃くなっていた。
店の空気はまだあたたかい。けれど、その中心にある話題だけが、ゆっくり学校の方角へ向き直り始めていた。
紗希はすぐには続けなかった。
御堂高校、という言葉を自分で口にしたあと、彼女はミルの蓋を閉じ、横に置いてあったメモ帳へ一度だけ視線を落とす。さっきまで熱心に走っていた鉛筆は、もう止まっていた。
その一方で、恭介は完全に話の中心から外れつつあった。
カウンターの奥でドリッパーを引き寄せ、フィルターを雑に広げ、湯の温度など気にしているのかいないのか分からない顔でケトルを持ち上げている。学校の話も、同級生がどうのという話も、少なくとも今のこいつをその気にさせる種類のものではない――そう紗希も分かっているようだった。
レンはカウンター席に座ったまま、紗希の顔を見る。
「心当たり、あるんだね」
今度は軽く流す声ではなかった。
仕事の話に戻った時の、低く抑えた声だった。
紗希はメモ帳を閉じる。
ぱたん、と小さな音がして、店の静けさの中へ落ちた。
「あります」
答えは短い。
けれど、その短さの中に、曖昧に済ませる気のない感じがあった。
レンが次を待つ。
紗希はそこで、ほんの少しだけ恭介の横顔を見る。恭介は視線に気づいてもいないのか、気づいていて無視しているのか、豆の粉をならしながら適当に鼻を鳴らしただけだった。
紗希は小さく息をつく。
「でも、ここで話すより。別の機会に、ちゃんと話した方がよさそうです」
言い方は穏やかだ。
だが、先延ばしのごまかしではない。話すつもりはある。そのうえで、今はこの場じゃない、と決めている声だった。
レンは椅子の背にもたれないまま、少しだけ首を傾ける。
「……そっちの兄ちゃんが聞く気なさそうだから?」
カウンターの奥で、恭介がようやく反応した。
ドリッパーから顔も上げずに口だけ動かす。
「学校の細けえ話されても腹は膨れねえだろ」
その言い方に、紗希が呆れ半分で眉を下げる。
「ほら。こういう感じなんですよ」
「どういう感じだよ」
「怪異そのものには食いつくのに、その前段階の人間側の話になると途端に雑になる感じです」
「面倒くせえんだからしょうがねえだろ」
「しょうがなくないです。そういうところです、先輩」
レンはそのやり取りを見ながら、ひとつ息を吐いた。
たしかに、初見のレンでも何となくわかってしまうこの調子。
この場で学校内の細かい事情を話し始めても、恭介は途中で別のことをし始めるだろう。
紗希がそれを見越して話す順番を選んでいるのなら、むしろ合理的ですらある。
「そんなわけで、私は相談相手を探していたんですよ。……そこに、ちょうどレンさんが来てくれました」
紗希は改めてレンへ向き直る。
「話しぶりから察するに。私の通う高校に興味がおありなんですよね、レンさん」
首元の白い包帯が、店の灯りの下でやわらかく浮いていた。
「明日、よければご一緒しませんか? 調査をお手伝いしますよ」
丁寧な言い方だった。
けれど、接客の延長みたいな軽さではない。約束として渡してくる声音だった。
「でもいいのかい? 確かにそういう仕事の一環ではあるんだが。部外者を、そんな気軽に……」
実際、御堂高校は調査対象だった。
そのための口実足りえる段取りを、整えている最中ではあった。
しかし、話が早まるほうが都合がいい。
被害者が増える前に、できる限り早く手は打っておきたかった。
紗希はレンの表情を見て、くすりと笑う。
「伊達酔狂だけが理由じゃないんです。本当にね」
その言葉だけで、十分だった。
レンは余計な相槌を打たない。
――その重みが店の中に落ち切る前に、恭介が横から割り込んだ。
「で。デートのお約束はいいとして」
ケトルを置く音。
次いで、二つのカップがカウンターへ並べられる。
「コーヒー勝負はどうなった」
空気を切るというより、自分の興味のある場所へ話題を引っ張り戻した、という感じだった。
紗希は一瞬だけ呆れた顔をしたが、すぐに切り替える。そこが、この二人の妙なところだった。
「そうでしたね」
紗希は自分の方のドリッパーへ湯を落とし始める。
細く、一定に。蒸らしの香りがふっと立つ。
その横で恭介は、もっと雑に、だが本人なりの自信があるらしい手つきで別のドリッパーへ湯を回しかけた。
レンは二つの動きを見比べる。
紗希の方は静かだった。豆の膨らみを見ながら湯量を調整している。
恭介の方は強引だ。勢いがあり、見ているだけで「濃そうだな」という印象が先に来る。
やがて二つのカップが、レンの前へ置かれた。
片方は、落ち着いた香りがした。苦味の奥に甘さがある。
もう片方は、もっと尖っている。深い苦味の匂いに、少し華やかすぎる酸の気配が混じっていた。
レンは二つのカップを見てから、正直に言った。
「俺、全然詳しくないんだが……」
「大丈夫ですよ」
先に返したのは紗希だった。
得意げ、というほど露骨ではないが、口元に少し自信がある。
「むしろ詳しくない人の方が、こういうのは分かりやすいです」
「そういうもんなのか?」
「そういうもんです」
恭介は不服そうに鼻を鳴らした。
「適当言ってんじゃねえぞ」
「言ってません。先輩は黙っててください」
「何でだよ」
「自分の負け筋を増やすからです」
レンは苦笑しそうになりながら、まず手前の一杯へ口をつける。
熱い。
苦い。
ただ、その苦味の中に別方向の香りが混ざっていて、飲み込んだあとに口の中が少し落ち着かない。悪いというほどじゃない。だが、何かが噛み合っていない感じが残る。
次に、もう一杯を飲む。
こちらも熱い。
だが、香りが馴染んでいる。苦味が先に来るのに、そのまま素直に喉へ落ちていく。特別珍しい味ではないのかもしれない。むしろ、どこかで飲んだことのある、仕事の合間に手を伸ばしたくなるような、そういう“普通にうまい”方の味だった。
レンはカップを置く。
「……こっちだな」
そう言って、二杯のうち片方を指した。
恭介がすぐに顔をしかめる。
「理由は」
「詳しくないって最初に言っただろ」
「いいから言えよ」
レンはもう一度、自分が選んだ方のカップを見る。
「そっちは、なんか……口の中で喧嘩してる」
恭介が露骨に嫌そうな顔をした。
対して紗希は、ほら見たことかという顔をする。
「もう片方は、馴染みがある」
レンは続ける。
「暖かくて、飲みやすい」
「理由は分からんが、俺はこっちの方が好きだ」
紗希が小さく、しかし確実に勝ち誇った顔をした。
得意げに顎を上げる。
「先輩のは、強い豆同士を正面からぶつけすぎです」
恭介がすぐに反論する。
「濃い方がうまいだろ」
「濃ければいいってものじゃないんですよ」
紗希は言い切った。
「混ぜれば増えるってものでもないですし、相性の悪いものは普通に喧嘩します」
その言い方には、妙に確信があった。
ただのコーヒーの話をしているはずなのに、レンにはその言葉が少しだけ別の意味を含んでいるようにも聞こえる。
紗希はそこで、さらに得意げに胸を張る。
「レンさん、たぶん普段飲み慣れてるのって、こういう深煎り寄りの味ですよね」
そう言いながら、自分のカップの方へ視線を落とす。
コーヒーの表面に淡く映った像を眺めながら、小さく微笑んだ。
「先輩は、もっと真面目に接客すべきですよ。人を見てなさすぎです」
「コーヒーに接客も何もあるかよ」
「あります。レンさんが普段どういうものを飲んでそうか見れば、答えはだいたい分かります」
「分かるかそんなもん」
「分かります。分からないから新品のエプロンを血拭きに使うんですよ」
恭介が一瞬だけ黙った。
痛いところを突かれた顔だった。
レンはそのやり取りを見て、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
学校の話はまだ終わっていない。
明日、紗希が話すと言った時点で、本題は先送りになったわけでもない。むしろ、ようやく始まるのだろう。
それでも今この場では、怪異とブラックベインと御堂高校の話のすぐ隣で、コーヒーの勝敗と新品のエプロンが本気で争われている。
異常なものを異常なまま日常へ混ぜ込んでしまう、この店らしい空気だった。
紗希が空いたカップへ手を伸ばしながら、あらためてレンを見る。
「じゃあ、明日」
声音はまた、少しだけ落ち着いていた。
「放課後でいいですか?」
レンは頷く。
「ああ」
「分かりました」
紗希も頷き返す。
その横で恭介が、まだ不満そうにカップを睨んでいた。
「……俺のも別にまずくはなかっただろ」
「まずいとは言ってません」
紗希は即答した。
「喧嘩してただけです」
レンは思わず、喉の奥で小さく笑った。




