1章・6話
怪異が出現した直後だというのに、喫茶店〈灯〉の空気は、不気味なくらい落ち着いていた。
店内は、やわらかな橙色の灯りに包まれている。
天井から下がる古い照明は、外の夜気とは別の時間をこの部屋だけに作っているみたいだった。
磨かれた木のカウンターには、さっき飛んだ血の跡がまだわずかに残っている。
けれど、その横ではもう、コーヒー豆の缶が並べられ、ドリッパーが引き寄せられ、ケトルの底に入れられた水が細く鳴り始めていた。
異常と日常が、同じカウンターの上で平然と肩を並べているような情景。
レンはその前に座らされていた。
座らされた、という表現がいちばん正確だった。
自分の意思で席についたというより、怪異の追跡から転がり込んだ勢いのまま、気づけば審査員席に固定されていた。
カウンター越しに二人を見上げる位置。客としては近いが、逃げ出すには少し妙な距離だ。
「……ほんとにやるのか」
半分呆れて、半分確認するみたいにレンが言うと、カウンターの内側で少女が顔を上げた。
――灯紗希。
“審査を依頼した以上は名乗らなくては!”、など言いながら。
さっき名乗ったばかりのその名を、レンはまだ頭の中でうまく固定しきれていない。
だが姿の印象は強い。
学生の制服の上から、生成りのエプロンをきちんと着けている。
首元には、夜の照明の中でも妙に目につく純白の包帯。
顔立ちは整っていて、ぱっと見れば明るそうな雰囲気の女子高生なのに、その包帯と、怪異の血が飛び散ったあとでも落ち着いたままの態度が、どうしても“普通”からずれていた。
紗希は豆缶を二つ三つ並べながら、にこりと笑う。
「もちろんです。審査員をお願いした以上、ちゃんと最後まで付き合ってもらいます」
言い方は丁寧だ。
だが内容はしっかり強制だった。
その少し横、同じカウンターの内側では、男が面倒くさそうな顔でケトルを持ち上げていた。
――紗希に強制的に紹介されたその男は、常盤恭介という名前だった。
背は高めで、黒髪はぼさついている。袖を雑に捲ったシャツの前腕には、ついさっき怪異に貫かれた傷があるはずなのに、本人はほとんど気にしていない。
止血の代わりに新品のエプロンで血を拭き取ったせいで、今も腕には乾ききっていない赤が雑に残っていた。
店員の位置にいるのに、どう見ても接客向きの男じゃない。
だが、コーヒー器具の位置だけは身体が覚えているらしく、乱暴な手つきのくせに、必要な物には迷わず手が届く。
やる気のない野犬みたいな顔で、妙にこの場所に馴染んでいた。
「付き合うも何も、無理矢理座らされただけなんだけどね」
レンが低く返すと、恭介はケトル越しにちらと視線だけを向ける。
「審査員ちゃんとやれよ。逃げるんじゃねえぞ?」
「逃げないよ! ……逃げてえけどな」
「じゃあ文句言うな」
店員とはおよそ言えない横柄な態度に、レンは溜息をついた。
仕事の最中ではあるが、追っていたターゲットの“一部”はもう、この男の腹の中に納まってしまっている。
調査のための道順を追っているうちに、“一回休み”と書かれた行き止まりにぶち当たったような気分だった。
紗希はその間に、棚からもう一枚エプロンを取り出して、ため息まじりに広げていた。さっき血を拭かれて駄目になった新品の代わりらしい。
「先輩」
「あ?」
「今度これを血拭きに使ったら、本当に家賃上げますからね」
「お前本当にケチだね! まだ言ってんのかよ」
「当然です、私は忘れません。メモったし」
さらりと返してから、紗希はレンの方へ向き直る。
接客の顔だ。さっきまで怪異がいて、血が飛んでいて、今まさに変な勝負が始まろうとしているのに、その笑みだけはちゃんと喫茶店のものだった。
「というわけで、相馬さん」
「……というわけで、の意味がまだよく分からないけどね」
「無料でコーヒーが飲めます。しかも二杯です」
「そこだけ聞くと得してる感じはするな」
「してますよ。たぶん」
たぶん、で済ませるなよ、とレンは言いかけて、やめた。
店の外ではまだ夜が続いている。
学校裏からここまで追ってきた怪異の気配も、完全に忘れたわけじゃない。
けれど、いま目の前にあるのは、豆缶を前に得意げな少女と、明らかに不本意そうなのに帰る気配もない男だった。
二人とも怪異の側に立っているわけではない。だが、怪異のいる世界を、自分の日常の延長みたいな顔で受け入れている。
それが、この店のいちばん奇妙なところなのかもしれなかった。
〈灯〉は、静かだった。
ジャズも流れていない。時計の針が進む音と、ケトルの中で湯が鳴り始める気配、ミルに豆を落とす乾いた音だけが小さく重なっている。外の事件圏から切り離された避難所みたいにも見えるし、逆に、異常なものをあまりに自然に飲み込む場所にも見えた。
レンはカウンターに肘をつかないよう気をつけながら、あらためて店の中を見回した。
磨かれたカップ。
使い込まれた木の棚。
古いアパートの一階らしい少し低めの天井。
そして、その中心に立つ二人。
包帯を巻いた女子高生は、豆缶のラベルを見比べている。
怪異を喰った男は、ケトルの注ぎ口を光にかざして覗いている。
どう考えても、まともな店じゃない。
けれど、変に落ち着くのも事実だった。
「で」
レンがようやく口を開く。
「さっきのあれは、いつもなのかい?」
その問いを合図みたいに、紗希の指先が一度止まった。
問いを向けられて、紗希は豆缶に触れていた手を止めた。
止めたのは一瞬だけだ。
すぐに指先を戻し、棚の上に並んだ缶のラベルを順に見ていく。その横では、恭介がケトルへ水を足しながら、いかにも興味なさそうな顔で耳だけこちらへ向けていた。
「“いつも”っていうと、ちょっと語弊がありますけど」
最初に答えたのは紗希だった。
彼女は一つ缶を持ち上げ、重さを確かめるように軽く揺らしてから、レンの方を見る。
「“ブラックベイン”って名前の噂があるみたいですよ」
レンはカウンター席に座ったまま、わずかに片眉を上げた。
「……へえ」
「気脈とか龍脈の、マイナス版みたいなやつらしいです」
紗希はそう続けながら、今度は別の缶も手に取る。
比べている。中身というより、たぶん今日の審査員にどれを飲ませるかを。
「幽霊とか妖怪みたいなものが寄ってくるんですって」
「おいおい」
レンは肩をすくめた。
否定のためというより、呆れ半分の仕草だった。
「学生さんの噂にまでなってんのか。世も末だな」
そう言ってから、彼はカウンターの向こうの二人を見る。
やばい、口が滑ったと思わず零しそうになるものの。
目の前にいる一般人もどきの二人組は、レンの反応には特に興味がなさそうだった。
紗希は真面目な顔で豆を選び、恭介はケトルの蓋を閉めながら面倒くさそうに鼻を鳴らす。
この二人を前にしていると、「高校生の噂だから」と切って捨てる方がむしろ不自然だった。
レンは小さく息を吐いて、今度は少しだけ仕事の声に戻る。
「……まあ、“気脈みたいなもの”って言い方は、間違いじゃない」
紗希の手がまた一瞬止まる。
彼女はそのまま、エプロンのポケットから小さなメモ帳を引き抜いた。
「ただ、その中を流れてるのは、氣だのマナだの、そういう都合のいいもんじゃない」
レンは指先でカウンターを二度、軽く叩く。
説明の調子に入る時の癖みたいなものだった。
「流れてるのは、人間の恐怖の記憶だ」
レンの言葉を聞き、紗希は素早くメモ帳を取り出した。
「ほうほう、面白いお話ですね」
相槌を軽く打ちながら、さらさらと書き留める。
横から見ていた恭介が、露骨に嫌そうな顔をした。
「うわ、出たよ」
「何がですか」
紗希はメモから目を上げない。
「お前の、その“面白そうだからとりあえず書く”やつ」
「伊達酔興みたいに言わないでください。興味深いからです」
言い換えただけじゃねえか、と恭介の顔が言っていたが、口には出さなかった。
その代わり、ケトルを火にかける。金属が小さく鳴り、店の静けさの中でその音だけが妙に澄んだ。
レンはその二人のやり取りを半ば無視して続ける。
「で、そこから出てくる化け物を、俺たちは怪異って呼んでる」
紗希の鉛筆が止まる。
そこで初めて、彼女はほんの少しだけ目を見開いた。
「要するに、恐怖が自我を持った連中だ」
「ふむふむ……」
紗希は素直に頷いて、また書く。
「いや、ありがとうございます。興味深いです」
「正体も知らずに、さっきみたいな感じでやってきたの、君ら?」
レンは少しだけ苦笑した。
硬くなりすぎない、いつもの軽さがそこに混じる。
「だいたい、そういうの聞いて目を輝かせる人、危なっかしく見えちゃうけどな」
「危なっかしいですか、私?」
紗希が顔を上げる。
首元の白い包帯が、店の灯りの下でやけに白く見えた。
「好奇心はなんとやら、っていうだろ?」
レンがそう返すと、恭介が横から鼻で笑う。
「言ったろ。お前ほんとそういうの好きだな」
「先輩は、好き嫌い以前に何も考えなさすぎなんですよ」
「考えてるわ」
「考えてたら新品のエプロンを血拭きに使いません」
恭介が露骨に目を逸らした。
まだ引きずるのか、という顔でケトルの注ぎ口を覗いている。
紗希はその様子を一瞥してから、豆缶を一つ決めたらしく、台の上へ置いた。
「正体までは知りませんでしたが。……このへん、そういうの溜まりやすいらしいんですよね」
声の温度が少しだけ戻る。
噂話をする生徒の顔だ。だが、ただ浮ついた口調ではない。ずっとこの土地で暮らしてきた人間の実感が混ざっている。
「うちの店、そういう“たまり場”の真上だって、昔から変な噂だけは多くて」
その言葉に、レンはわずかに眉を寄せた。
ブラックベインが淀み、怪異の寄りやすい土地があること自体は知っている。
現場に出る人間なら、むしろ知らない方がおかしい。
だが、それがこの喫茶店〈灯〉だとは聞いていなかった。
「……なるほどね。ブラックベインに、滞留点があるのは聞いたことがある」
レンはそう言って、改めて店内を見回した。
暖色の照明。コーヒーの匂い。磨かれたカップ。古い木の棚。
どこからどう見ても、ただの喫茶店だ。
なのに、ついさっきの怪異はここへ逃げ込んだ。
「さながら、オカルトスポット。怪異が寄る土地ってやつだ」
レンはカウンターへ肘をつかないようにしながら、少しだけ身を引く。
「でも、ここがそうだとはね。“そういう仕事”をしてても聞いたことがなかったよ」
紗希は「でしょうねえ」という顔で肩をすくめた。
恭介は特に驚くでもなく、湯の温度を見るようにケトルへ目を落としている。
そこでようやく、レンの中でさっきの違和感が一つの形にまとまった。
あれは、あの怪異は。
ただ近くにあった店へ飛び込んだわけじゃない。
逃げ場として、ここを選んだのだ。
ブラックベインが淀む場所なら、それも不自然じゃない。危険を避けたというより、もっと本能的に、寄るべき場所へ寄った。
「……なるほどな」
レンは小さく息を吐く。
「さっきのがここへ逃げ込んだのも、それなら筋が通る」
紗希がそこで、少しだけ得意げな顔をした。
「でしょう?」
「いや、そこで自慢げになるのもどうかと思うけどな」
レンが軽く言うと、紗希は平然と豆をミルへ移しながら答える。
「だって、うちの立地が最悪だって話ですからね。自慢じゃなくて諦めです」
「最悪って自分で言うんだな」
「言いますよ。住んでる側の特権です」
恭介が、横からぼそっと差し込む。
「だから俺以外に、空き部屋に住むやつがいないんだろ。……替えの利かない資金源なんだから、大事に扱ってほしいぜ」
「今それ言います?」
「今言っとかねえと、あとでまた家賃の話になるだろ」
「なりますよ。先輩が物を大事にしないからです」
レンはその二人を見た。
ブラックベインの滞留点。
怪異が逃げ込む土地。
そんな話をしているのに、会話の端では平然と家賃の話になる。
やはりこの店は、どこかおかしかった。
そして、そのおかしさにこの二人はもう、すっかり馴染んでいる。




