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1章・5話

 男の声が落ちた瞬間、レンの視線もまた、カウンターの下へ引かれた。


 何かいる。


 そう認識した時には、男はもう動いていた。

 しゃがみ込むというより、最初からそこに何が潜っているか分かっているみたいな角度で、迷いなく手を突っ込む。


「ちょ、先輩?」


 少女が短く声を上げる。

 だが止めるには遅い。


 次の瞬間、男の腕がカウンターの影から引き抜かれた。

 その手には、黒い塊が掴まれていた。


 小さい。

 子供の頭ほどの塊にも見える。だが輪郭は定まらず、煙のようでもあり、濡れた布の束のようでもある。その表面からは、細い触手とも枝ともつかないものが不規則に伸び縮みしていた。

 前面には、無理やり貼りつけられたみたいな口元が浮いている。唇だけが妙に生々しい。開いては閉じ、開いては閉じるたび、湿った空気の抜ける音がした。


 レンの目が細くなる。


 同系統だ。

 夜道で追ってきたものと気配は似ている。だが軽い。濃度が足りない。中心じゃない。外へ伸びてきた先端、本体から剥がれて動いている端末みたいな感触だった。


 少女もそれを見て息を呑む。

 けれど悲鳴は上げない。ただ目だけを丸くして、男の手元を見る。


「うわ……ほんとにいたんですか」


「さっきからカサカサうるせえんだよ」


 男は、まるで裏口に入り込んだネズミでも摘んだみたいな言い方をした。

 黒い塊はその手の中で激しく暴れる。触手が空気を引っかき、ぴしぴしと乾いた音を立てた。口元のような部分が何かを噛もうとするみたいに歪み、そのたびに、他人の呼気の残り滓みたいな音が漏れる。


 レンは半歩前へ出る。


「それ、離せ」


 説明のためじゃない。警告だった。


「そいつ、本体じゃないが危険だ。触るな」


 だが、男はレンの声より先に怪異の方を見ていた。

 興味を持った野犬みたいな目だった。


「へえ」


 口の端だけで笑う。


「じゃあ、なおさらツマミにしかならねえな」


 次の瞬間、黒い塊がぐねりと裏返った。


 底面から細い触手が何本も弾ける。

 先程まで液体のように弛んでいた“それ”が生やした触手は、強張り硬質な光沢を放つ。

 文字通りの矛先が向いていたのは、男の前腕だった。



 ぶす、ぶす、と嫌な音が続く。

 ただ刺さるんじゃない。食い込んだ先へ、そのまま潜ろうとしている。黒が皮膚の下を這い、肉の奥へ入り込もうとする。



「まずい!」


 レンの声が鋭くなる。


「そいつ侵食する気だ、離せ!」


 少女も目を見開く。

 その直後、男の腕から血がどっと溢れた。


 じわり、なんて量じゃない。

 押し出されるみたいに赤が噴き、手首を伝う。

 指の間から滴って、カウンターの木目に落ちる。


 床にも跳ねる。白いシャツの袖口が一瞬で汚れる。普通なら、一歩引くか、顔をしかめるか、せめて舌打ちの一つくらい出る量だった。


 だが、男は傷口より先に怪異の方を見ていた。


「結構活きがいいじゃねえか」


 低く言って、目を細める。


 腕から、めきめきと骨が軋む音がしている。


「こいつぁ、食いでがありそうだな」


 レンは本気で眉をひそめる。

 強がりじゃない。こいつ、本気でそう言っている。


「おいあんた、聞いてんのか。危ねぇって」


 レンが低く詰める。

 男はようやく視線だけをこちらへ向けた。


「聞いてる聞いてる。……あー、このケガ? 気にすんな、いつものことだしよ」


 その声にも、切迫感がない。

 痛みに鈍いとか、我慢強いとか、そういう範囲を少し外れている。


「こんなケガ、つばでもつけときゃ治っちまう」


「治るわけあるか」


 レンの反射的なツッコミを、黒い塊の湿った悲鳴が掻き消した。


 怪異がもう一度暴れた。

 口の群れが一斉に開き、閉じ、噛み合わないまま叫び声らしき形だけを作ろうとする。

 だが、男はそれを最後までやらせなかった。


 そのまま口を寄せる。


 ばり、と湿った音がした。


 触手が引き千切れる。

 黒い表面が裂ける。いくつもの口が歪み、空気の抜けるような悲鳴が散る。

 男は気にせず、もう一口いく。噛み砕く。飲み込む。


 文字通り、喰っていた。


「味が濃いけど、量がちょっとな~」


 呑気な調子で感想を呟きながら、男は咀嚼を続けている。

 口の端から、どす黒い墨のような液体が滴っていた。


 レンの喉が一瞬だけ詰まる。


 危険だ。

 異常だ。

 だが、その異常さの質が、さっきまで追っていた怪異とも違う。

 目の前の男は、危険に襲われた一般人じゃない。危険を危険として扱ってすらいない。


 ――怪異を踊り食いする存在、そんなもの彼は聞いたことがなかった。


 その横で、別方向の悲鳴が上がった。


「あぁっ!」


 レンがそちらを見ると、少女は怪異でも男の腕でもなく、カウンターと床へ飛び散った血を見ていた。


「お店が血で汚れちゃうのはまずいですよ、色々と!」


 レンは一瞬だけ無言になる。


 男も「あ?」という顔をしたが、すぐ納得したように頷く。


「おっ、そうか。わりーわりー!」


 軽い。


 そう言うなり、男は近くにあった布をひったくると、血の流れる自分の腕をそのまま乱暴に拭いた。

 止血というより、汚れを雑に片づける勢いだった。


 続いて床に流れ落ちた血液を、ごしごしと遠慮なく擦る。


 少女の顔が、一拍遅れて凍る。


「……先輩」


 静かな声。

 だが怒っている。


 男がしゃがみこんだ姿勢で、床を擦りながら振り向く。


「ん?」


「それ」


 少女は、彼が握っている布を指差した。


「私が次に使おうと思ってた新品のエプロンなんですけど」


 一瞬、店の空気が止まった。


 男が手元を見る。

 生成り色の布。そこから二つのひもが垂れ下がっている。

 確かにエプロンだ。


 しかも、少女が今身につけているものとは別で、折り目のまだ残った新しい一枚だった。今はその真ん中に、男の血が容赦なくべったり広がっている。


「……あ」


「“あ”じゃないです!」


 今度ははっきり抗議が飛ぶ。


「なんでよりによってそっち使うんですか! それ下ろしたてなんですよ!?」


「知らねえよ、そこにあったからだろ」


「そこにあったからって雑巾にしていい物と駄目な物があるんです!」


 少女が本気で怒っている。

 男は腕を貫かれて血を流しながら、まだ怪異を噛んでいる。

 レンはその光景を前に、ほんの少しだけ無言になった。


 危険な怪異を処理しているのに、店の床と新品のエプロンの方が大問題として扱われている。

 普通じゃない。

 だが、それはもう十分すぎるほど分かった。


 (俺は、とんでもないもんに出くわしちまったかもしれねえ……)


 レンは額の冷や汗を袖で拭いながら、息を大きくついた。






 「こんなんじゃ腹の足しになりゃしねえ」


 男が最後の一欠片を噛み砕くと、店の中に残っていた嫌な気配が、ようやく少しだけ薄くなった。


 完全に消えたわけじゃない。

 湿った息の残り香みたいなものはまだある。


 だが、さっきまでカウンターの下に潜んでいた“何か”は、もう形を保っていなかった。黒い断片が男の指先と唇に少し残っているだけだ。

 レンはその残り香を吸い込み、静かに息を吐く。


 ――やはり、本体じゃない。


 気配は似ている。

 夜道で追ってきたものと、同じ系統の“口”の感触がある。

 だが軽い。薄い。核がない。


 “現場”の周辺にこびりついているあの嫌な濃さとは違う。

 外へ伸びた先端。餌を探すために這い出した端末。せいぜいその程度だ。


 そして、目の前の二人。


 ――この二人は一般人じゃない。


 そう認めるしかなかった。

 制服にエプロン姿の少女は、悲鳴を上げる代わりに店の床を気にした。

 ぼさついた男は、怪異に腕を刺されて血を流しながら、それを噛み砕いて飲み込んだ。


 巻き込まれた民間人、なんて分類で片づく相手じゃない。


 少女は血で汚れた新品のエプロンを、じっと見つめていた。


 男の方は、そこまで大事な物だったのかと言いたげな顔をしている。


「先輩」


 少女が低く呼ぶ。


「ん?」


「先輩って、気配りって言葉を義務教育で習ってきました?」


 男は眉を寄せた。


「お前、まだグチグチ言ってんのか」


「新品のエプロンを血拭きに使う人、初めて見ました」


「知らねえよ、そこにあったからだろ」


「そこにあったからって、使っていい物と駄目な物があるんです!」


「んなこと言ったって、こないだセールで買ってたやつだろ、これ」


 男はようやく腕の布を見下ろす。

 まだ折り目の残る布の真ん中に、男の血がべったり広がっている。


「死んだ婆ちゃんの形見ってわけでもあるめえ。新しいの買えばいいじゃねえか」


 そう言って、エプロンをゴミ箱に放り込む。


 少女のこめかみが、ぴく、と引きつった。


「謝らないなら。給料、下げちゃおっかなー?」


「俺は謝らねえ」


「じゃあ家賃引き上げます」


「横暴にもほどがあんだろ」


「というか先輩は、デリカシーが壊滅してるんですよ」


 男は鼻で笑った。


「お前は金にうるせえんだよ」


「当然です。生活がかかってるので」


「腹黒ドケチ女」


「何で唐突に腹黒とか言われなきゃいけないんですか!」


 レンは、そのやり取りを前にほんの少しだけ黙った。


 ついさっきまで、腕を貫かれて血を流し、怪異を喰っていた男。

 その隣で、新品のエプロンを血拭きにされたことへ本気で怒る少女。


 危険への反応の順番が、まるで普通じゃない。

 だが、二人の言葉の応酬には妙な滑らかさがあった。初対面の言い争いじゃない。

 もうとっくに出来上がっている日常の続きに、レンだけが突然放り込まれたような感覚だった。

 少女と男は、じり、と互いを睨み合う。


「ぐぬぬ……」


「むむむ……」


 先に口を開いたのは男だった。


「分かった。サシで勝負な」


 少女が即座に乗る。


「いいですよ。お題は?」


「コーヒーにしよう」


 男は顎でカウンターの奥をしゃくった。


「美味くできた方が勝ち。負けた方がエプロン代をもつ。これなら文句あるめぇ」


 少女は一拍だけ考える素振りをして、すぐ頷いた。


「いいですね。受けて立ちます」


 そしてそのまま、二人の視線が同時にレンへ向いた。

 嫌な予感がした。

 ……というか、その予感はもう遅かった。


「そこのお前、ちょっとそこで待ってろ」


 男が顎を上げる。


「審査員はお前だ」


 少女も、ぱっと笑みを浮かべた。

 接客用の、柔らかい笑みだった。


「無料で絶品コーヒーが飲めるんですよ、お兄さん。ラッキーです!」


 レンは数秒、無言になった。


「……えぇ……」


 それが、この場で出せた精いっぱいの反応だった。

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