1章・4話
喫茶店〈灯〉は、夜の街の中でそこだけ呼吸の仕方が違っていた。
表通りから一本入った角地。年季の入った二階建てアパートの一階部分をそのまま使ったような店で、磨りガラスのはまった木の引き戸の向こうには、橙色の灯りがやわらかく滲んでいる。店名を書いた控えめな看板は、派手ではないが、その分だけ妙に目についた。まるで、ここに“いる”ことを大声で主張するのではなく、最初から知っている相手だけを黙って迎え入れる場所みたいだった。
レンはそこへ、ほとんど体当たりみたいな勢いで飛び込んだ。
引き戸が荒く鳴る。
外気が一気に流れ込み、店の中のコーヒーの匂いとぶつかった。
暖かい。
その一語が、まず先に頭へ浮かぶ。
つい今までいた夜道の冷たさが嘘みたいに、店内の空気はやわらかかった。カウンターの奥では珈琲豆を挽いたような香りがまだ新しく、壁際には古い木の棚、手入れの行き届いたカップ、柔らかな照明。狭すぎず、広すぎず、客が数人いればちょうど満ちるくらいの広さだ。静かなジャズでも流れていそうな雰囲気なのに、今は不思議と音が少ない。時計の針が進む音と、どこかで湯が落ちきる小さな音だけがやけにはっきりしていた。
その静けさの中に、二人いた。
一人は、カウンターの内側に立つ少女。
学校の制服の上から、生成りのエプロンをきちんと着けている。肩にかかるくらいの黒髪は店の光を吸い込むように艶があり、動きは落ち着いているのに、年齢だけはどう見ても若い。学生だ。実際、レンはその制服を見た瞬間に気づいた。
――さっきの被害者と同じ学校だな。
しかも、首元には純白の包帯が巻かれていた。
怪我人、というほど弱々しくは見えない。むしろ店の中に自然に溶け込んでいて、包帯だけが逆にそこから浮いている。笑顔も柔らかい。接客用の顔に見えなくもないのに、その首元の白さだけが、妙に生々しく目に残った。
もう一人は、カウンターの端に寄りかかるように立っていた。
男。
年はレンとそう離れていないはずなのに、第一印象はずっと荒い。黒髪はぼさついていて、姿勢も悪い。店員の位置に立っているくせに、接客業に必要な要素を全部どこかに置き忘れてきたみたいな顔をしている。シャツの袖は雑に捲られ、視線は低い。不機嫌そうで、やる気もなさそうで、少なくとも“喫茶店にいる店員”としてはかなり失格だった。
だが、目だけが妙に鋭い。
レンが店へ踏み込んだ瞬間、その男は最初からレンの方を見ていたわけじゃなかった。
視線の向きが少し違う。レン自身ではなく、レンが背負ってきた空気の乱れか、店内のどこか別の一点を先に見ている。そこだけが、引っかかった。
「――失礼」
レンは息を整えきる前に口を開いた。
まずは一般人を逃がす。それが先だ。怪異がこの中に入り込んでいたとしても、二人を巻き込んだまま戦うわけにはいかない。
「ここ、今すぐ閉めてくれ。危ない」
少女が目を瞬かせる。
驚いた、というより、言葉を選んでいる顔だった。
「ええと……どちらさまでしょうか」
声は柔らかい。だが、怯えていない。
レンはそこで、ほんのわずかに眉を寄せた。普通なら、飛び込んできた見知らぬ男がこんなことを言えば、まず空気が乱れる。けれどこの少女は、乱れる前に状況を見ようとしている。
その横で、ぼさついた男が、ようやくレンへ視線を向けた。
無遠慮な目だった。
値踏みでも、警戒でもない。もっと雑で、もっと生っぽい。目の前の相手が何を探していて、どんな顔でそれを追ってきたか、その輪郭だけをいきなり嗅ぎ当てようとするような目だ。
レンは一歩だけ店内へ入ったまま、逃げ道を塞がない角度で立った。
怪異はまだ近い。
店の中に入り込んだ気配はある。だが、それをそのまま口にしても、この二人を無駄に混乱させるだけだ。まずは外へ出す。一般人を巻き込まない。それが先だった。
「説明はあとだ」
短く言って、レンは二人を見た。
「とにかく、今は外へ出るな。ここらへんに危険なものがいる」
少女が目を瞬かせる。
驚いた、というより、言葉を選んでいる顔だった。
「ええと……どちらさまでしょうか」
声は柔らかい。
だが、怯えてはいない。いきなり飛び込んできた見知らぬ男に向けるには、妙に落ち着いた声音だった。
レンは一瞬だけ眉を寄せる。
普通なら、まず空気が乱れる。少なくとも一歩引くか、店の奥へ逃げるかするはずだ。だがこの少女は、そうしない。店の空気の延長で、そのまま状況を見ようとしている。
その横で、カウンターの端に寄りかかっていた男は、まだレンを正面から見ていなかった。
視線の向きが、少し違う。
レン自身ではなく、レンが背負ってきた夜気の乱れか、店の中のどこか別の一点を先に見ている。やる気のなさそうな立ち方のくせに、注意の置き方だけが妙だった。
レンは短く息を吐いた。
「悪いけど、今は質問に答えてる暇がない」
そのまま言葉を継ごうとして、少しだけ詰まる。
危険なもの。
そう言ったところで、相手がすぐ理解できるとは思えない。
怪異だの事件圏だのをそのまま出せるわけもない。だが、嘘をつくにしても、もっとましな言い方があるはずだった。
――あるはずなんだが。
レンは結局、いちばん苦しい言い回しを選んだ。
「……輸送中の危険な生き物が、この近くで逃げた」
言った瞬間、自分でも微妙だと思った。
――我ながら下手くそな嘘だな。
少女の口元が、わずかに引きつる。
完全に信じた顔ではない。だが、露骨に茶化しもしなかった。ただ少し首を傾げてから、困ったように笑う。
「危険な、生き物……ですか」
「ああ」
レンは頷く。
「だから、店の入口から離れてくれ。できれば奥へ」
少女はすぐには動かない。
その代わり、ちらりと隣の男を見る。判断を預けるというより、いつもの調子で様子を伺うような視線だった。
その視線を受けた男が、ようやく口を開く。
「危険ってのは」
低い声だった。
眠たげな顔のままなのに、その一言だけが妙に真っ直ぐ店の中へ落ちる。
しかも、視線はレンではなく、カウンターの下へ向いている。
「こいつのことか?」




