1章・3話
空気だけが、先に潰れた。
怪異が跳んだのか、這ったのか、女子生徒には見えなかった。
ただ、目の前の“少女”がぶれたと思った瞬間には、もう目と鼻の先まで来ていた。
白い。
近くで見ると、ますます白かった。肌ではない。紙に似た、乾いた白さだった。髪は黒いはずなのに、輪郭のところどころが溶けていて、肩口の線も曖昧だ。
けれど口元だけが、異様なほど生々しい。
重なっている。
やはり、一つではない。
薄い唇。荒れた唇。切れた口角。少し開いた歯列。
何人分もの口が、少女の顔の下半分に無理やり押し込められている。
その全部が、今、女子生徒の顔に向かって開こうとしていた。
「――ッ」
叫んだつもりだった。
だが、やはり声は出なかった。
喉が閉じたのではない。もっと手前だ。口を開いても、言葉になる前の空気だけが押しつぶされて、ひゅう、と掠れた息になる。
女子生徒は反射的に口元を押さえた。
その仕草の途中で、指先が止まる。
触れているはずの場所が、ずれていた。
唇のある位置と、自分の手が探している位置が、一瞬だけ噛み合わない。
顔の下半分が、薄い膜越しにずらされているような、あり得ない違和感だった。
息が乱れる。
浅い。速い。肺の上の方だけが痙攣しているみたいに、呼吸が細く千切れていく。
怪異は、じっとその顔を覗き込んでいた。
少女のような仕草。
子供のような距離感。
それなのに、そこにあるのは好奇心じゃない。口の形だけを真似した、何か別のものだった。
女子生徒の膝が折れる。
アスファルトに手をつく。鞄が落ちる。
視界が大きく揺れて、フェンスと街灯と怪異の輪郭が縦に伸びた。目は開いているのに、焦点が合わない。目の前のものが近いのか遠いのか、それすら分からなくなる。
喉の奥から、泡立ったような呼吸が漏れた。
助けて、の形にならない。
言葉が出る場所だけが、この世のどこかから抜き取られてしまったみたいだった。
怪異の口元が、さらに近づく。
女子生徒は腕を振った。払いのけるつもりだった。
だが空を切る。
次の瞬間、頬のすぐそばに冷たい吐息が触れた。
……そこでようやく、別の足音が割り込んだ。
速い。
一直線にこちらへ向かってくる靴音だった。
「――まだ近い!」
男の声。
低いが、よく通る。
女子生徒の霞んだ視界の端に、黒い影が滑り込んだ。
長い茶髪を後ろで束ねた青年だった。
走ってきた勢いで髪が少し乱れている。夜目にも白く浮くシャツの上に、暗いジャケット。胸元では、小さな十字架が一瞬だけ街灯を反射した。
細身に見えるのに、踏み込んだ足だけが妙に重い。目は静かで、状況を見た瞬間に必要な順番を決めた顔をしていた。
青年――レンは、まず怪異ではなく女子生徒を見た。
そこに迷いはなかった。
一瞬で距離を測り、呼吸を見て、口元を見て、膝の落ち方を見る。追えば届く。だが、このまま放れば危ない。そう判断した顔だった。
レンはポケットから取り出した端末を、引き寄せるみたいに手元へ寄せ、短く告げる。
「一般人一名、重篤。御堂高の事件圏。救急回せ」
声に感情は乗っていない。
だが、切り捨てた冷たさではなく、急いでいる人間の声だった。
女子生徒のそばへしゃがみ込む。
喉元には触れない。口元へ手を伸ばしかけて、一度止める。代わりに視線だけで状態を確認し、落ちた鞄を足元から遠ざけた。
「聞こえるか」
女子生徒は答えられない。
返せるのは、途切れ途切れの呼吸だけだった。
「大丈夫だ。救急は寄こした」
レンはそう言って、ほんの一瞬だけ怪異の消えた方向を見る。
自販機の脇。
校舎裏へ抜ける細い影。
もう姿は見えない。だが、気配はまだ近い。
レンは舌打ちを飲み込み、女子生徒へもう一度視線を落とした。
「持ちこたえろ。すぐ来る」
返事はない。
それでも言い切って、レンは立ち上がる。
怪異は、もう〈灯〉の方角へ走っていた。
レンは走り出しかけて、半歩だけ止まった。
置いていくわけにはいかない。
だが、背後から別の足音が近づいてくる気配はもうあった。救急が間に合うなら、この場に留まり続けるより、あれを逃がさない方が被害は少ない。
視線だけで周囲を払う。
校舎の角。植え込みの影。駐輪場の屋根の下。
もう“少女”の形は見えない。だが、逃げた方向だけは分かる。黒いものが夜の輪郭に溶けた時の、あの嫌な残り方が、まだ道の先に引きずられていた。
「くそ……」
短く吐き捨てて、レンは端末へもう一度だけ声を落とす。
「被害者は意識混濁、発声不能。呼吸浅い。急げ」
それだけ言って、通信を切る。
女子生徒の肩が、かすかに震えていた。
目は開いている。だが、何かを見ている焦点ではない。口元を押さえた指先だけが、不安定に宙を探るみたいに動いている。
レンはその手を無理にどかさなかった。
「もうすぐ来る」
低く言い残す。
それが慰めにならないことくらい分かっていたが、黙って消えるよりはましだった。
次の瞬間には、踵を返していた。
怪異の逃げた先へ、一直線に走る。
校舎裏の細い道を抜ける。フェンス沿い。植え込みの影。自販機の白い明かりが背中へ遠ざかる。
夜の学校は静かなはずなのに、レンの耳にはもう別の音が混じり始めていた。遠くで、何かが擦れるような。小さな爪が床を引っかくような。気のせいで済ませるには、少しだけ湿った音。
「……まだ近い」
息を整えるように呟く。
追跡は切れていない。
むしろ、わざと辿れる程度に痕跡を残しているようにも感じた。挑発なのか、ただ餌場を変えただけなのかは分からない。だが一つだけ確かなことがある。
あれは、まだ終わっていない。
校門の明かりが視界の端を横切る。
その向こう、住宅と店舗の並ぶ夜道へ、黒い気配が滑り込んでいくのが見えた。
喫茶店〈灯〉のある方角だった。
レンは速度を落とさない。
「逃がすかよ」
誰に聞かせるでもなくそう言って、夜の街へ踏み込んだ。




