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1章・2話

 逃げなきゃいけない。


 頭のどこかでは、もう分かっていた。

 振り返って確かめる段階は、とっくに過ぎている。ここにいたら駄目だ。校門の明るい方へ走るか、人のいる通りまで出るか、とにかくこの細い道から離れなきゃいけない。


 なのに、足が思うように動かなかった。


 背中を向けた瞬間に、本当にすぐ後ろへ来られる気がした。

 追いつかれる、というより、見失ったら終わる。そんな理屈の通らない確信が、肩のあたりにへばりついて離れない。


 女子生徒は半歩ずつ、後ずさるように進んだ。

 視線だけは前を向けない。自販機。校舎の窓。駐輪場の屋根に張られたアクリル板。夜の道には、反射するものが思ったより多い。そして、そのどれにも、いる。


 少女のような影が。


 最初に見た時は、ただ小さく立っているだけだった。

 けれど今は違う。


 窓に映ったそれは、もうはっきりと顔の向きをこちらへ向けていた。

 白い。夜のガラスの中で、不自然なくらい白く浮いている。髪は肩にかかるくらいで、制服の襟元みたいな暗い影がある。遠目には、遅くまで学校に残っていた生徒が一人、窓辺に立っているようにも見えた。


 だが、顔の下半分だけが変だった。


 口元が、濃すぎる。

 そこだけ別のものを貼りつけたみたいに、妙に輪郭が鮮明だった。しかも、じっと見ていると、一枚じゃない。唇の線が重なって見える。薄い唇。厚い唇。少し開いた口。噛みしめた口。いくつもの口元が、ぴたりと一つの顔に押し込められているみたいだった。


「……や、だ……」


 声を出したつもりだった。

 だが、耳に届いたのは、掠れた息みたいな音だけだった。


 女子生徒は喉を押さえる。

 乾いているわけじゃない。痛いわけでもない。なのに、そこだけ誰かに指を差し込まれて、内側から撫でられているみたいに気持ちが悪かった。


 窓の中の少女が、また少し近づく。


 いや、違う。

 近づいているんじゃない。最初からそこにいる“何か”を、自分の目がようやく見つけ始めているだけなのかもしれなかった。


 女子生徒は耐えきれず、踵を返した。

 走る。鞄が肩にぶつかる。ローファーの底が夜の舗道を荒く叩く。まっすぐ前だけを見て、人のいるところまで行けばいい。明るい方へ。表通りへ。校門へ。


 だが、数歩も進まないうちに、左手のガラス窓にそいつが並んだ。


 走っている。

 窓の中の少女も、こちらと同じ速さで。


「ひ……っ」


 息が詰まる。


 今度は顔が少し近い。

 白い頬。黒い髪。そこまでは少女だった。

 けれど、口元だけがもう、人間のものじゃなかった。


 唇がずれている。

 上唇と下唇の噛み合わせが合っていない。

 口角が裂けているわけではないのに、笑っているようにも、泣いているようにも見える。

 何より、口が一つじゃない。重なっている。人の口元を何枚も貼って、その上から無理やり“少女の顔”へ整えようとして失敗したみたいな、不出来な模造品だった。


 女子生徒はとうとう悲鳴を上げようとした。


 肺いっぱいに息を吸う。

 喉がひりつく。

 口を開く。


 ――声にならない。


 ひゅ、と、情けない空気だけが漏れた。


 女子生徒の目が見開かれる。


 もう一度。

 今度こそ。

 だが、喉はそれ以上開かなかった。声帯が閉じたというより、言葉の出口そのものがどこかへずらされてしまったみたいに、声が出る位置が見つからない。


 呼べない。

 助けて、が出ない。


 その瞬間、前方の水たまりに映った少女が、初めてはっきりと笑った。


 笑った、ように見えた。


 ただし、その顔で動いたのは一つの口じゃない。

 貼り合わされた幾枚もの唇が、半拍ずつずれて開いて、閉じて、噛み合わないまま“笑顔らしい形”だけを作っていた。


 女子生徒は足をもつれさせた。

 止まる。走れない。膝が抜ける。


 目の前の暗がりから、ようやく実体が滲み出してくる。


 そこにいたのは、少女の形をした何かだった。

 制服に似た影をまとい、細い手足を持ち、髪を揺らしている。けれど近づくほど、その形は保っていられなくなる。頬はところどころ薄く、喉元は黒く透け、口元だけが異様に重い。

 顔を作っているのが、骨でも皮膚でもなく、誰かの“口にされたもの”の寄せ集めなのだと、本能の方が先に理解してしまう。


 そしてそれは、女子生徒の目の前で、すっと首を傾げた。


 子供が、相手の顔を覗き込むみたいな仕草だった。

 あまりにも自然で、だからこそ、ひどく気味が悪い。


 女子生徒は後ずさろうとして、踵を取られた。

 背中がフェンスに当たる。冷たい金属音が鳴る。


 少女の形をした怪異が、一歩だけ前へ出る。


 女子生徒は、もう一度だけ、必死に息を吸った。

 せめて誰かに気づいてもらえるくらいの声を。そう思った瞬間、喉の奥で、何かがひゅっと細く縮むのが分かった。

 悲鳴はまた、空気の漏れる音にしかならなかった。

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