1章・22話
レンが出ていったあと、図書室の静けさは少しだけ質を変えた。
さっきまでは、二人で黙っている静けさだった。
今は、一人になった静けさだ。
扉が閉まる音はもう消えている。奥の席で誰かがページをめくる微かな音と、カウンターの向こうで司書が何かを整える小さな気配だけが、遠くで薄く続いていた。静かだ。だが、無音ではない。その半端さが、かえって神経を逆撫でする。
紗希は端末の前で、もう一度だけ呼吸を整えた。
吸う。
まだ少し浅い。
吐く。
喉の奥に残っているひりつきは消えていない。
それでも、キーボードを叩けないほどではない。
机の端には、レンが置いていった護身用のナイフがある。小さい。折りたたまれていて、一見すると文具に紛れそうな大きさだ。だが、そこにあるだけで、さっきまでの話が全部“現実の続き”なのだと嫌でも思い出させる。
紗希はそのナイフへ一度だけ視線を落としてから、端末へ戻した。
「進路指導室、鏡、声……」
小さく呟く。
検索結果のタブをいくつか開いたまま、メモ帳を引き寄せる。
書く。
考えるというより、並べる。頭の中に散っている断片を、一回紙の上へ置いていく。
――進路指導室
――鏡
――声
――“ひな”は怪異の名前ではないかもしれない
ペン先が一瞬止まる。
「フィアー能力……」
さっきのレンの瞳を思い出す。青白い渦。静かにとぐろを巻いていた、あの目。恐怖を自分のものにした時、それを形にできる。そういう説明だった。
だったら。
「“ひな”って、実は怪異じゃなくて、フィアー能力だったりするんでしょうか?」
自分で言ってみてから、すぐには頷かなかった。
怪異と能力を雑に同一視すると、見たい形に寄せすぎる。そこはまだ保留にしておくべきだ。
紗希はメモ帳の端に、小さく書き足す。
――怪異?
――能力?
――声の再生
それから、画面の検索結果と見比べる。
古い校内記録。
欠けた事故報告。
教員家族の情報の不自然な薄さ。
そこへ、“雛”という字が人名として被さってくる。
さらに一行、書く。
――ひな=妹や娘の名?
断定はしない。
疑問符はつける。
けれど、そこまで来た時点で、自分がかなり危ない場所へ手を伸ばしていることは分かっていた。
紗希は机の上に肘をつかず、背筋を少し伸ばしたまま、別の単語を打ち込む。
志藤。
いや、消す。
「まだ早い」
独り言だった。
名前を先に置くと、全部がそっちへ引っ張られる。だからまだやらない。先に条件だけを揃える。条件から浮かんだなら、それを疑う。そういう順番だ。
メモ帳へ、また書く。
――志藤→怪異?
――命令者?
――声
――再生
――鏡?
それを見て、紗希は少しだけ目を細めた。
「……そこまで来ましたか」
誰に言うでもない。
ただ、自分のメモの並びが、思っていたより先へ進んでしまっていることを確認した声だった。
図書室の奥で、椅子が小さく鳴った。
紗希は振り向かない。
この程度の音なら、さっきからいくらでもしている。ページをめくる音も、本を戻す音も、椅子の脚が擦れる音も、全部“普通の図書室”の中にある。
だから、いちいち反応しない。
端末の画面をスクロールし、また止める。
メモ帳へ、もう一つだけ書き足す。
――“ひな”は役名?
――そう呼ばれているだけ?
そこで、ペン先が止まった。
さっき空き教室で、自分が見たものを思い出す。少女めいた輪郭。けれど口だけが異様だった。声も、自分のものではなかった。なら、あれは“ひな”そのものではなく、“ひな役”をやらされている何か、なのかもしれない。
紗希の指先が、紙の上で止まったまま動かない。
「……それ、あなたの名前じゃないでしょう」
無意識に、そう零していた。
その一言が落ちたあと、背後の空気がごくわずかに変わった。
それでも紗希はまだ、振り返らない。
気づいていないわけではない。
ただ、まだ“気のせい”の範囲へ押し込められる種類の変化だった。人の気配と本棚の影が重なっただけ。そう思おうとすれば、思えてしまう程度の違和感。
だから、もう一度だけ画面へ視線を戻す。
その背後、図書室の死角で。
志藤は、息を止めるように立っていた。
見えているのは紗希の後姿と、机の上のメモの断片だけだ。全部を読めるわけじゃない。
だが、断片だけで情報は補完できた。できてしまった。
進路指導室。
鏡。
声。
“ひな”は役名かもしれない。
そして、最後の一言。
――それ、あなたの名前じゃないでしょう。
そこまで来たのか、と志藤は思う。
背筋が冷える。怒りより先に、危機感が喉へせり上がる。
この女は危険だ。
観測しているだけではない。こちらの構造へ、もう手をかけている。
紗希はまだ、気づかない。
メモ帳へ視線を落としたまま、小さく息を吸う。
その呼吸はさっきより少しだけ深い。戻ってきている。頭も回っている。だからこそ、危ない。
志藤は、音を立てずにもう半歩だけ近づいた。
紗希のペン先が、最後にもう一行を書こうとして止まる。
図書室は静かだった。
あまりにも静かで、その背後に立つ人間の悪意だけが、そこから切り離されていた。




