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1章・23話

 図書室の静けさは、少しずつ重くなっていた。


 放課後の終わり際だ。閉館も近く、もともと利用者は多くなかった。

 それでも、レンが出ていく少し前までは、奥の席で誰かがページをめくる音や、カウンターの向こうで司書が返却本を揃える気配が、かすかに残っていたはずだった。


 けれど今は、その“図書室らしい音”が、どこからも聞こえてこない。


 最後の生徒がいつ席を立ったのか。司書がいつカウンターを離れたのか。紗希にははっきり分からなかった。検索結果とメモ帳を往復しているあいだに、気配だけが少しずつ剥がれ落ちて、気づけばこの部屋には、自分の呼吸と端末の駆動音しか残っていなかった。


 紗希は端末の前で、画面とメモ帳を見比べていた。


 進路指導室。

 鏡。

 声。

 “ひな”は人名の可能性。

 再生。

 役名。


 そこまで並べて、ペン先が止まる。


 喉の奥はまだ少し痛い。呼吸も、完全に戻ったわけじゃない。けれど、頭はもう動く。むしろ、こうして静かな場所に座ってしまうと、さっきまでの断片が余計に鮮明になってくる。


 紗希は一度だけ目を閉じて、それから小さく息を吐いた。


「……ひな」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、メモ帳へ新しく一行書き足す。


 ひな=娘の名=ニセモノ


 書いた直後、自分でも少しだけ眉を寄せた。

 断定が強い。いつもの自分なら、ここで疑問符を一つ足す。けれど今は、それを付けるより先に、そう書かずにはいられなかった。


 少女の形。

 奪った口。

 自分の声を持たない何か。

 “ひな”と呼ばれていたものは、本人じゃない。そう呼ばされているだけだ。そんな感覚が、もうかなりはっきりしていた。


 紗希はその一行を見つめたまま、ぼそりと零す。


「それ、あなたの名前じゃないでしょう」


 独り言だった。


 けれど、その言葉が落ちた瞬間。


 背後の空気が、変わった。


 ほんのわずかだった。

 本棚の影が一枚増えたような、誰かが立ち止まったような、そういう程度の変化。普通なら、図書室の中の何でもない気配として処理できる程度のものだ。


 紗希はまだ、振り返らない。


 気づいていないわけではない。

 ただ、“気のせい”として押し込めるには十分な弱さの違和感だった。


 だから、画面へ視線を戻す。


 その背後で、志藤は息を止めるように立っていた。


 見えたのは、机の上のメモ帳の一部だけだ。

 全部を読めたわけじゃない。だが、それで十分だった。


 ひな=娘の名=ニセモノ


 その一行が、喉の奥へそのまま刺さる。


 ぞわりと、背中が粟立った。


 どこまで見えている?

 いや、そこまで分かるはずがない。

 ただのメモだ。

 なのに、どうしてその言葉になる?


 志藤の喉がひくつく。

 怒りではない。まだ。先に来たのは、もっと生理的な怖気だった。見透かされた、という感覚に近い。自分が“そうであってほしい”と固定してきたものを、その女は静かな顔のまま、たった一行で壊しかけている。


「なんだ、その、メモは……」


 うめくような声だった。


 紗希の肩が、ぴくりと揺れる。


 ようやく、背後に“人間の声”があると気づいたらしい。けれど、振り返るには一瞬遅い。紗希が椅子から半ば腰を浮かせるより早く、志藤の手が出ていた。


「君は!」


 両肩を掴む。


 強い。

 教師が生徒を呼び止める力じゃない。止めたい、黙らせたい、それ以上そこへ触れるな、という焦りだけで掴んだ指だった。


 紗希が振り返る。


「……志藤、先生?」


 驚きはある。

 だが悲鳴にはならない。

 その短い呼びかけが、志藤には逆に耐えがたかった。


 その顔は、実際には笑っていない。

 ただ、いつもの柔らかい表情の名残が少しだけ残っているだけだ。呼吸を立て直したばかりで、目元もまだ少し疲れている。なのに志藤には、それが笑っているように見えた。


 笑っている……?

 いや、違うのかもしれない。

 それでも、そう見えてしまった。


 見透かしている。

 試している。

 そこまで来て、なお平然としている。


「君は、どこまで僕を……!」


 語尾は裂けた。

 問いにもなっていない。何を見た、何を知った、何をどこまで繋げた――その全部を言葉にできないまま、感情だけが先に噴き出している。


 紗希が何か言おうと、わずかに口を開く。

 だが、次の瞬間にはもう、志藤の腕がその身体を押していた。


 止めるつもりだった。

 黙らせるつもりだった。

 それ以上、机の上の言葉へ触れさせないために、ほんの一歩だけ遠ざける、その程度のつもりだった。


 だが、指はもう力加減を失っている。


 紗希の背が、本棚へぶつかる。


 その瞬間、さらに嫌なことが起きた。


 弾かれるみたいに、紗希の上半身がわずかにのけぞった。受け身を取るには近すぎる。肩を掴まれたままだから、体勢も整えられない。次の瞬間、後頭部が棚板の固い縁へ叩きつけられた。


 音が、先に来た。


 鈍い。

 乾いた。

 ひどく現実的で、だからこそ嫌な音だった。


「――」


 紗希の口が、わずかに開く。


 悲鳴にはならない。

 息を吸い損ねたみたいな、声になる前の空気だけが喉元で潰れて、そのまま消える。


 手から、ペンが落ちた。


 ころ、と机の端をかすめて床へ転がる。メモ帳がずれ、端末の画面が少しだけ傾く。画面の中では検索結果がそのまま光っているのに、そこへ触れていた指だけが、もう動かない。


 紗希の身体から、力が一気に抜けた。


 糸を切られたみたいだった。


 肩を掴んだままの志藤の手に、さっきまでそこにいた“人の重さ”が、急に別のものへ変わる。支えを失った身体が、棚に沿って崩れる。頭が横へ傾き、髪が頬へ落ちる。


 返事がない。

 動かない。


 時間がそこで一瞬、ひどく長くなった。


 紗希の頭の下、本棚の縁にぶつかったあたりから、赤がじわりと滲む。大量じゃない。細い。だが、木の色の上では十分すぎるほど鮮やかだった。


 志藤の喉が、ひっと鳴る。


「……あ」


 何をしたのか、自分でも一拍遅れて理解する。


 違う。

 そんなつもりじゃなかった。

 ただ止めたかっただけだ。黙らせたかっただけだ。少し押しただけだ。ほんの少し。


 なのに。


 紗希は、ぴくりとも動かなかった。


 目は半ば開いている。焦点はどこにも合っていない。呼吸も、さっきまでみたいに浅く速く揺れるのではなく、逆に見えなくなっていた。胸元の上下が、ここからでは分からない。


 志藤の手が、ようやく肩から離れる。

 離した途端、紗希の身体はその場へ完全に崩れ落ちた。


 どさり、と重い音がした。


 その音で、志藤の背筋に冷たいものが一気に走る。


 死んだ。


 そう思った。

 思ってしまった。


 志藤は半歩、後ずさる。


 図書室の静けさが、急に耳障りになる。

 もう誰もいないはずなのに、誰かが来る気配だけが、校舎の遠くの音に混じって聞こえる気がした。


 その時。


 紗希の指先が、ほんのわずかに動いた。


 志藤の肩が跳ねる。


 呼吸は、見えない。

 だが、止まりきっていた顔の筋肉がかすかに揺れた。唇の端だけが、ごくわずかに持ち上がる。


「……あは、は」


 息だった。


 笑い声と呼ぶにはあまりに軽く、あまりに薄い。喉の奥に残った空気が、勝手に漏れただけみたいな音。けれど、その掠れた音が図書室の静けさの中に落ちた瞬間、志藤の背筋を氷みたいなものが走った。


 紗希の目は、まだどこも見ていない。

 焦点は合っていない。

 意識も、たぶんまともじゃない。


 なのに。


 笑っているように見えた。

 見えてしまった。


「……ひな、じゃない」


 紗希の唇が、少し遅れて動く。


 言葉になり切らない。

 けれど断片だけは、はっきり落ちる。


「そう、呼んでる……だけ……」


 志藤の喉が鳴った。


「黙れ」


 反射みたいに出た声だった。

 だが紗希は止まらない。止まるだけの意識が、もううまく残っていないのかもしれない。観測していた欠片だけが、壊れた録音機みたいに、順番もなく漏れていく。


「鏡……」


「声……」


「消しても……残る……」


 志藤の呼吸が浅くなる。


 違う。

 違う違う違う。


 こいつはもう、ちゃんと喋れていない。

 意識だって曖昧なはずだ。

 意味なんて分かっていない。

 ただ、適当に音を並べているだけだ。


 なのに一つ一つが、自分の喉元へ刺さる。


「笑うな」


 絞り出すみたいに言う。


 紗希はまた、かすかに「あは、は」と息を漏らした。

 それが本当に笑っているのか、ただの空気の抜け方なのか、もう志藤には分からない。


「……いや」


 額に汗が滲む。


「笑ってない……?」


 自分で言って、自分の声の方が信用できなくなる。


 紗希の視線はまだ定まらない。

 床とも、本棚とも、誰とも合っていない。けれどその口だけが、また動いた。


「レンさん……」


 ひどく小さな声だった。


「戻る……」


 志藤の身体が、びくりと強張る。


「人、来ますよ……」


 紗希はそう言って、薄く笑ったように見えた。


 違う。

 本当は違うのかもしれない。

 頭を打って、意識が混濁して、呼吸も乱れて、それでも観測していた断片だけが漏れているだけなのかもしれない。


 だが志藤には、もうそうは見えなかった。


 見透かされている。

 試されている。

 このままでは全部、外へ出る。


「違う、違う……」


 志藤は自分へ言い聞かせるように呟く。


「僕は、そんなつもりじゃ……」


 だが、その言葉の途中で自分でも分かる。

 もう、そんな言い訳は意味がない。

 この女はまだ見ている。まだ喋る。まだ外へ繋がる。


「このままじゃ……」


 喉が震える。


「外へ出せない」


 世間体。

 通報。

 生徒に重傷を負わせたという事実。

 それだけじゃない。この女は危険だ。ここで黙って眠っていたとしても、起きたらまた見る。繋げる。名前をつける。壊しかける。


 なら。


「ここにいればいい」


 その言葉は、思いついたというより、ずっと前から胸の奥に沈んでいたものが浮いてきたみたいに出た。


「消えたわけじゃない」


 紗希の頬の横、本棚の板に滲んだ赤を見ながら、志藤は息を呑む。


「まだ、留められる」

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