1章・21話
図書室を出ると、空気の温度が少しだけ違った。
同じ校舎の中なのに、廊下の静けさは図書室の中より薄い。どこか遠くで椅子を引く音がして、階下から部活の掛け声みたいなものがかすかに滲んでくる。普通の学校の音だ。だが、レンにはその“普通”がかえって鬱陶しかった。
端末を握る手に、まだ微かな熱が残っている。
通信相手を待たせている。分かっている。分かっているが、図書室を出た直後もしばらくは足が早くならなかった。紗希を一人置いてきた、という事実が、思ったより重く足首に引っかかっていたせいだ。
「……クソ」
小さく吐き捨てる。
階段手前の防火扉を押し開ける。
非常階段の空気は、校内よりさらに乾いていた。コンクリートと埃の匂い。壁に反響する足音。人の気配はほとんどない。話をするなら、ここが一番ましだった。
レンは踊り場まで下りて、ようやく立ち止まる。
そこで一度だけ、息を吐いた。
端末を開く。
表示された短い通知文面を見て、目つきが変わる。軽い呼び出しではない。向こうも、急ぎで返してきている。
レンは迷わず通信を繋いだ。
「相馬だ」
声は低い。
図書室で紗希と話していた時より、明らかに低い声。
彼が仕事で使っている時の声だった。
「確認できたか」
返答を待つ間、踊り場の手すりへ背を預ける。視線は階段の上下を一度ずつ見る。誰もいない。だが、それでも完全には気を抜かない。
「早く頼む」
短く言い足す。
「時間がない」
その最後の一言だけ、少しだけ本音が混じった。
冷静さを崩すほどじゃない。けれど、急いでいることだけは隠しきれていなかった。
踊り場の窓から、夕方の光が細く差していた。
埃っぽい光だった。
鉄の手すりの縁だけが白く浮いて、その下はすぐ鈍い灰色へ沈む。校内の喧騒も、ここまで来るとずいぶん薄い。遠くで誰かが笑った気配がしても、コンクリートの壁に当たる頃には、もう別の場所の音みたいに平たくなる。
端末の向こうで、短いノイズが走った。
『確認した』
事務的な声だった。男か女かも分かりづらい、温度の薄い声だ。
『御堂高の公開記録はかなり削られてる。だが、“雛”に繋がる可能性のある記録はある』
レンは踊り場の壁に背を預けたまま、目を細める。
「人名、でいいんだな」
『断定はできない。だが、怪異の即席ネームと見るよりは自然だ』
返答は早い。
『古い事故記録、それと教職員家族に関する欠損データが噛んでる』
「欠損、ね」
レンは小さく舌打ちした。
思ったよりも学校側の処理が雑なのか、逆に丁寧すぎて穴が見えるのか、まだ分からない。だが、痕跡は残っている。完全には消しきれていない。
『それと、今の現象だが』
通信相手の声が、一段だけ低くなる。
『単独霊としては不自然だ』
「霊、だと? 死人が化けて出たって言いたいのか?」
レンの眉がわずかに動いた。
『あくまで怪異の種別の話だ。死に際の恐怖の感情が、黒く沈殿してブラックベインの脈を通して具現化された怪異』
一般的な怪異の成り立ち方ではある。
だが、レンの引っかかっていたのはそこではない。
『……しかし、それにしてもだ。分身性。再生性。命令反応。加えて、声の再生が強すぎる。普通の残留思念の挙動じゃない』
「……誰かが手を入れてるってことか」
『その可能性が高い』
踊り場に、少しだけ沈黙が落ちた。
レンは端末を握り直す。
それで、教室で見たものの輪郭が少しだけ変わる。少女めいた怪異。ばらばらの口。増える断片。外から飛んできた命令。あれは“ただそこにいるもの”じゃない。誰かが何らかの形で、維持している。
胸の奥が、嫌な感じに冷えた。
「……それで終わりか?」
声は平坦に保ったつもりだったが、少しだけ急いていた。
『志藤と、外部人物の接触履歴らしきものも出た』
レンの指先が止まる。
「外部人物?」
『記録上は断片的だ。学校側の報告書には名前が出ていない』
『だが、こちらの照合で一致した可能性が高い』
一拍。
『“ミカゲ”だ』
レンの喉が、かすかに鳴った。
「……ミカゲ」
その名前だけで、空気の温度が変わる。
レンは視線を落とした。
踊り場の床は汚れている。靴跡と、古い雨染みと、誰かが蹴ったらしい小石。
その全部が、今は妙に遠かった。名前だけは、嫌な形で覚えている。忘れようがない。“真澄の件”と無関係だと思ったこともない。だが、知っているのはそこまでだ。
それでも、その名前がここで出るのは最悪に近かった。
「確度は」
『高いとは言えない。だが、無視できる低さでもない』
『少なくとも、“志藤が単独でここまでやってる”線は薄くなった』
レンは目を閉じた。
それだけで十分だった。
十分すぎる。紗希に今すぐ戻って伝えるべき情報が、一気に増えた。いや、戻る前に、自分の中で整理しないと危ない種類の情報だった。
雛は実在した可能性が高い。
今の“ひな”は単独霊じゃない。
志藤の背後に、ミカゲの線があるかもしれない。
どれも重い。
その上で、一番まずいのは、その情報を持った自分が、いま図書室から離れていることだった。
「……分かった」
レンは低く言う。
「十分だ。戻る」
通信相手は、そこで少しだけ間を置いた。
『それと、追加で一点』
レンの眉が寄る。
『“雛”に該当する人物記録、苗字が出た』
踊り場の空気が、そこでひどく薄くなった気がした。
レンは何も言わない。
端末の向こうの声が続ける。
『雛という人物の苗字は――』
その先を聞いた瞬間、レンは壁へ後頭部を軽く預けた。
「……まあ、やっぱりそうだよな」
乾いた笑いにもならない声だった。
「そうなるよな」
納得と、苛立ちと、嫌な予感だけが、短い二言に混ざっていた。




