1章・20話
検索結果の列へ視線を落としたまま、レンはしばらく動かなかった。
さっきまで紗希の斜め後ろで、入口と端末画面の両方を同時に見ていた目つきが、そこで少しだけ止まる。何かを聞き逃さないように周囲へ張っていた意識のうち、一部だけが別の方向へ引かれたみたいな止まり方だった。
端末が、短く震えている。
音はほとんどしない。
図書室の静けさの中でも、耳で聞くというより、机越しに伝わる微かな振動として分かる程度だ。
紗希は検索欄へ指を置いたまま、横目でレンを見る。
「何か来ました?」
レンはすぐには答えなかった。
端末を裏返しに置いたまま一度だけ指先で引き寄せて、画面の端だけを見る。文章を全部読むような動きではない。差出人と一行目だけを拾うような、仕事の時の目だった。
「……ちょっとな」
それだけ言う。
声色は変えていない。
だが、変えていないこと自体が、逆に少しだけ不自然だった。軽い通知なら、もっと雑に流すはずだ。そうしない時点で、紗希にも何となく分かる。
画面へ視線を戻しながら、軽く言う。
「さっき話してたでしょう。図書室で調べてくれてるのもありがたいんだが、こっちのバックには“専門家”がいるもんでね」
紗希が小さく瞬く。
「専門家」
「そっちにも調査を頼んでる」
レンは端末を軽く持ち上げる。
「だから、踏み込んだ情報が返ってくる可能性がある」
紗希はそこで、ようやく納得したように頷いた。
「レンさんの、職場のお話ですね?」
レンは肩をすくめる。
「まあ、そんなとこ」
否定しない。
けれど、そこで説明を始める気もない。今この場で広げる話じゃないのだと、その短さだけで分かる返しだった。
図書室の奥で、誰かが本を閉じる音がした。
ぱたん、と乾いた小さな音。
それだけで、今この場がまだ普通の学校の中にあることを思い出す。思い出すのに、端末を見たレンの空気だけがそこから半歩ずれたままだった。
紗希は、画面の中の文字列へ目を戻す。
教師家族。
事故。
雛。
断片の重なりは、ようやく輪郭を持ち始めている。ここで手を止めたくはなかった。
レンが椅子の背から体を少し起こす。
「悪い、ちょっと外す」
短く言った。
紗希はそこで初めて、きちんと顔を上げる。
呼吸はまだ完全じゃない。喉の奥の違和感も残っている。けれど、思考の方はもう戻っていた。だからこそ、ここで一緒に動くより、自分は自分でこのまま検索を続けるべきだとも分かる。
「私は続けてます」
即答だった。
レンが眉を上げる。
「一人で大丈夫か」
その問いに、紗希は少しだけ間を置く。
“絶対大丈夫”とは言えない。さっきまでのことがある。けれど、だからといって一緒に立つ必要があるかというと、それも違う。
「図書室ではお静かに、ってルールがありますし」
少しだけ肩をすくめる。
「犯人も手荒なことはしないでしょう。多分」
レンは半眼になった。
「その“多分”が怖いんだよ」
そう言いながら立ち上がる。
立ち上がったあとも、すぐには歩き出さない。端末をポケットへしまいかけて、そこで一度だけ手が止まった。
ほんのわずかだ。
けれど、紗希はその間を見逃さなかった。
レンは内ポケットへ手を入れ、小さな折りたたみナイフを取り出した。金属の光は鈍い。いかにも武器という大きさではないが、文具よりは明らかに重い種類の道具だった。
「一応、これ持っといて」
差し出されて、紗希は一瞬だけ目を瞬かせる。
「……おお、ナイフですか!」
「ちょっ、一応グレーなことしてんだから、大声出さないで」
レンは先を宥めるように、両の手を開いて見せた。
そして、小さく咳払いをする。
「……護身用。コトが終わったら、返してくれよな」
レンは一言だけ添えた。
だが、そのまま少しだけ目を逸らした。
「ちょっとね。情けない話なんだけど、今の俺は君を守れそうにないんだ」
そこで一拍置く。
「少なくとも、半日くらいは」
紗希はナイフを受け取る前に、レンの顔を見た。
「ああ、さっきの斧ですか」
レンの口元がわずかに引きつる。
「……勘がいいな」
「なんらかの“制限”を踏んでしまったんですね」
紗希は静かに続ける。
「で、秘密にしておきたい。そんな感じですか」
レンはすぐには答えない。
その沈黙が、だいたい肯定だった。
紗希はそこで初めてナイフを受け取る。冷たい。軽すぎはしない。握れば、ちゃんと“道具”の重みがある。
「そんな能力を持っている人、見たことがあります」
ぼそりと落とす。
レンが眉を上げた。
「なんだよ、“フィアー能力”、知ってんのか」
少しだけ肩をすくめる。
「渦眼っていう眼を持ってる人間が、恐怖を自分のものにしたとき、形にできるんだ」
そこで、レンは端末を持ち直しかけた手を止めた。
「……まあ、口で言っても分かりづらいか」
軽くそう言って、顔を少しだけ上げる。
「こんなふうなやつだ」
紗希は目を瞬く。
レンの瞳の奥で、青白いものがゆっくりと揺れた。
光、というより、色のついた深みだった。
瞳孔の奥に、細い渦がとぐろを巻いている。水面に落ちたインクが沈まずに留まり続けているみたいに、青白い線が幾重にも重なって、静かに回っていた。
派手ではない。
けれど、一度見たら見間違えようがない。
人の目のはずなのに、そこだけ別の深さがある。
紗希は、思わず息を止めた。
「……ほんとに、渦なんですね」
「でしょ」
レンはあっさり言って、すぐに目を伏せる。
青白い渦は、その動きに合わせてふっと薄れ、いつもの落ち着いた瞳に戻った。
「手品は終わり。話すと長くなるから、この辺でいいでしょ」
「今ここで君らに話す筋のことじゃない」
紗希はナイフを机の端へそっと置く。
「そうですね。関係ないですし」
それから、レンの端末を軽く見た。
「“通信相手”、お待たせしてるんですよね」
少しだけ笑う。
「行ってらっしゃい。朗報、お待ちしてます」
レンはその返しに一瞬だけ口元を緩めた。
「先輩より物騒ですね、レンさん」
紗希が付け足すと、即座に返る。
「あの男と一緒にするなよ……」
その返しに、紗希は短く笑う。笑うとまた喉が少しひりつくが、もう我慢できないほどではない。
レンはそれを確認してから、図書室の入口へ視線をやる。
「無茶はするなよ」
今度はさっきより少しだけ真面目な調子だった。
紗希はナイフを机の端へ寄せ、端末画面へ向き直る。
「多分しません」
「信用ならねえな」
レンはそう言って、ようやく踵を返した。
図書室の入口まで行って、そこで一度だけ振り返る。
紗希はもう画面の方を見ている。検索欄にカーソルが点滅している。机の上には小さなナイフ。図書室は静かで、何も起こっていないみたいな顔をしていた。
レンはその静けさを一瞬だけ睨むように見てから、何も言わずに出ていく。
扉が閉まる音は小さかった。
そのあとに残った静けさだけが、さっきより少し不穏に見えた。
紗希は画面を見つめたまま、ふと指を止める。
「フィアー能力、ねえ……」
小さく呟く。
「先輩の“喰う”のは能力じゃないって、本人が言ってましたけど」
そこで、検索結果の列へ視線を落とす。
「“ひな”って、実は怪異じゃなくて、フィアー能力だったりするんでしょうか?」




