1章・19話
図書室の静けさは、違和感を感じてしまうほどだった。
さっきまでいた空き教室の空気が、まだ皮膚の上に薄く残っている。
口の位置がずれる感覚も、喉の手前で呼吸が引っかかる感じも、完全には消えていない。なのに、ここへ入った途端、目の前にあるのは整然と並んだ本棚と、光沢の落ちた机と、静かすぎるほど静かな放課後の空気だった。
その普通さが、かえって気味が悪い。
紗希は入口のところで一度だけ足を止め、浅く息を吸った。まだ胸の上の方だけで呼吸している感じがある。けれど、歩けないほどではない。むしろ立ち止まっている方が、さっきの感触を思い出してしまいそうだった。
レンが半歩前へ出て、図書室の中を軽く見渡す。
人は少ない。
奥の方の席に生徒が二人。貸出カウンターの近くに司書らしい人影が一つ。無人ではないが、騒がしくもない。誰かがこちらへ強い関心を向けている様子も、今のところはなかった。
「座れるかい」
振り返らずに、レンが低く聞く。
紗希はその背中を見ながら、少しだけ肩をすくめた。
「図書室くらいなら」
言ってから、喉の奥がひりついて、小さく咳き込む。痛みはある。だが、言葉はちゃんと音になる。さっきよりはずっとましだ。
レンはそれを聞いて、ようやくこちらを見た。
「無理はするなよ」
気遣いの言葉ではある。けれど、甘やかす感じではない。現場で怪我人に最低限だけ声をかけるような、あくまで実務の調子だった。
紗希は少しだけ笑う。
「してません。多分」
「多分かよ」
短く返しながらも、レンはそれ以上は言わなかった。代わりに、入口から近すぎず遠すぎない机を目で選んで、その一つへ顎をしゃくる。
「そこ、使おう」
紗希は頷いて歩き出す。
机と机のあいだを抜ける時、椅子の脚が床を擦る音がひどく大きく聞こえた。図書室の静けさのせいだけじゃない。さっきまで、同じ顔の群れが影から這い上がってきていたせいで、普通の物音に戻るまで耳の方が追いついていないのだろう。
席へ着くと、紗希は一度だけ机に指先を置いた。冷たい。木の硬さが、そのまま伝わってくる。さっきまでいた空き教室の、ひどく薄い空気とは違う感触だった。
レンは椅子を引かず、立ったままもう一度図書室全体を見る。入口。カウンター。本棚の影。窓ガラスの反射。何かが潜むならどこか、そういう見方のままだ。
紗希はそれを横目で見て、少しだけ息を整えた。
「そんなに警戒しなくても、多分ここではいきなり襲ってこないですよ」
「“多分”が多いな、今日」
レンはようやく椅子を引いた。だが座り方は浅い。すぐ立てる位置に重心を残したまま、紗希の斜め後ろ寄りに収まる。
「今日に限っては、慎重なくらいでちょうどいい」
紗希は返事の代わりに、目の前の検索端末へ視線を落とした。
画面は暗いままだ。まだ何も始まっていない。なのに、その前へ座っただけで、さっきまでの戦闘が別の形に変わった気がした。追いかけるでも、喰うでも、断つでもなく、今度は“調べる”側に回るのだと、ようやく身体が理解し始める。
それでも、完全には切り替わらない。
口元に指をやる。もう位置は合っている。少なくとも、さっきみたいに自分の唇がどこにあるか分からなくなる感じは消えていた。
レンが小さく言う。
「……いけるな?」
紗希は、端末の前で指を組んでから頷いた。
「はい」
短く返す。
「やりましょう」
図書室の静けさの中で、その一言だけが、少しだけ硬い音を持って落ちた。
紗希は端末の前で、すぐにはキーへ触れなかった。
画面はまだ暗い。
ログイン画面を呼び出す前の、何も始まっていない四角い沈黙だけが、机の上にある。図書室の空気は静かで、乾いていて、さっきまでいた空き教室の薄く濁った空気とはまるで違う。違うのに、喉の奥にはまだ、あの貼りつくみたいな息苦しさの名残が残っていた。
レンは斜め後ろから、その手元を見ている。
「何を調べる?」
短く聞く。
急かしているわけではない。確認だった。
紗希は一度だけ口元へ指をやってから、ようやく端末を起こした。画面に光が入る。自分の顔がうっすら映り込みかけて、すぐに目を逸らす。今はまだ、反射面をまともに見たくなかった。
「先生の名前からは、入れません」
レンが眉を上げる。
「もうかなり黒いだろ」
「黒さと、確定してるのは別です」
紗希の声はまだ少し掠れていたが、言葉の選び方はいつも通り落ち着いていた。
検索欄へカーソルを置いたまま、視線だけを画面の上で動かしている。考えているのは単語というより、順番なのだと分かる顔だった。
「答え合わせから入ると、見たいものしか見なくなるので」
レンは小さく息を吐いた。
「条件検索ってわけか」
「そういうことです」
紗希は、そこでようやくキーを打ち始める。
最初に入れたのは、名前じゃない。
御堂高校。
進路指導室。
それから、少しだけ指が止まって、鏡。
レンはその並びを見ていた。
余計な言葉がない。今の時点で拾えている断片だけを、順番に机の上へ並べるみたいな打ち方だ。妙なところで感心する。
「“ひな”は入れないのか」
紗希の指が止まる。
「入れます」
答えたあとで、少しだけ視線を落とした。
「でも、先じゃないです」
「理由は?」
「人の名前かもしれないからです」
淡々と返す。
「怪異そのものの名前とは、まだ限らない」
レンは頷いた。
たしかにそうだ。美和が聞いたのは、先生がそう呼んでいた、という事実だけだ。目の前に現れた少女めいた怪異が、そのまま“ひな”という存在そのものなのか、それとも別の何かへ向けた呼び名なのか、まだ断言はできない。
紗希は続ける。
「先に“ひな”で決め打ちすると、怪異の方へ引っ張られます」
「でも、今ほしいのはそこじゃない」
キーを打つ指が、また少し動く。
過去。
事故。
女生徒。
教員家族。
レンが低く言う。
「進路指導室、鏡、呼び名、教師側の声」
「ええ」
紗希は頷く。
「今拾えてる条件だけで、先に輪郭を作ります」
検索結果が、まだらに並び始める。学校だより、行事記録、進路指導関係の告知、校内新聞の断片、古いPDFの一覧。どれもすぐに答えへ届くようなものではない。けれど、最初から正解が出てくると思っていない顔で、紗希はその列を眺めていた。
図書室の静けさの中で、キーボードを叩く音だけが小さく続く。
レンは入口を一度見る。
誰も来ない。
少なくとも、今のところは。
それを確認してから、また画面へ意識を戻した。
「そのやり方、いつもやってるのか」
紗希は少しだけ笑う。
「たまにです」
「たまに、で済む顔じゃないけどな」
「失礼ですね」
返しは軽い。
だが、その軽さの下で、紗希の視線はずっと鋭いままだった。結果一覧の中の語感、日付、書式の揺れ、記録の欠け方。そういう“直接答えじゃない違和感”を拾いにいっているのが、横からでも分かる。
レンはその横顔を見て、少しだけ納得する。
この女は、怖がらないわけじゃない。
さっきだって、明らかに苦しそうだった。声も掠れているし、まだ呼吸も浅い。
それでも、いったん座ってしまえば、恐怖をそのまま材料へ変える。
面倒な性質だ、と半分思う。
助かる性質だ、と半分思う。
紗希の指が止まった。
「……これ」
小さく呟く。
レンが少し身を寄せる。
「何だ」
紗希は画面を指先で示した。
「まだ断定じゃないですけど、繋がりそうです」
レンの目が細くなる。
結果一覧の一つ。古い校内記録らしい短い項目。文字数は多くない。だからこそ、そこに出ている単語だけが逆に目へ引っかかる。
紗希は、すぐには読み上げなかった。
代わりに、もう一つ検索条件を足す。
雛。
今度はその文字を、ようやく入れた。
レンが静かに聞く。
「読めるか?」
紗希は画面を見たまま答える。
「雛、か」
一拍置く。
「似た名前か……その辺です」
それ以上は、まだ言わない。
言い切るには早いと、自分でも分かっている声だった。
レンは頷く。
「十分だ」
画面の中にまだ答えはない。
けれど、どこを掘ればいいかは、少しずつ見え始めていた。




