1章・18話
扉の影から、するりと。
怪異の一体が、恭介の側面へ回り込んだ。
さっきまでレンと紗希を囲っていた群れの一つだ。
けれど今の動きは、ほかの個体とは少し違っていた。声をばらまくでもなく、距離を測るでもなく、ただ一点、恭介の喉元だけを狙って滑り込んでくる。
レンが反応する。
「右――」
だが、その声より早く。
恭介の口元が、先に歪んだ。
視線は、合っていない。
いや、そもそも見ていない。前髪の影に沈んだ目は、相変わらず何も追っていないままだった。なのに、その顔つきだけが獲物を前にした獣みたいに変わる。
志藤は、そこで初めて背筋に冷たいものが走るのを感じた。
あの男の目は、最初から何にも合っていなかった。
灯紗希にも。
斧の男にも。
群れている怪異にも。
焦点そのものが死んでいる。
まともに見えていない。
それは、もはや疑いようがなかった。
なのに。
死角へ入った怪異へ、そいつの方が先に反応した。
「なあ紗希。約束通り、“兵器”になってやる」
恭介は笑ったまま言う。
「そのお代は、俺のメシだ」
次の瞬間、距離が消えた。
踏み込んだ、というより、そこにいた。
恭介の身体がぶれる。線の切れ目から抜け出したみたいに、一気に怪異との間合いが潰れる。
怪異が、複数の口をいっせいに開く。
悲鳴でも、威嚇でもない。奪った声をまた使おうとしただけの、空虚な開き方だった。
その全部に、恭介が喰い込む。
噛みつく。
乱暴で、容赦がない。
人間なら躊躇するはずの距離へ、最初から躊躇がない。
怪異の輪郭が大きく歪んだ。
少女めいた顔が、そこで初めて怪異の顔になる。
口だけが裂け、頬がずれ、影の中の中身が露出する。
だが、恭介はそれごと食い破る。
黒い靄みたいなものが散った。
同時に、教室中でざわついていたコピーたちの声が一瞬だけ途切れる。
レンが目を見開く。
「……は?」
紗希も、口元を押さえたまま息を呑む。
恭介は喰いちぎったそれを、喉の奥へ押し込むように飲み込んだ。
ほんの一瞬、教室の空気が止まる。
――だが。
次の瞬間には、恭介の顔が露骨に不機嫌になった。
「……なんだこれ」
低く、吐き捨てる。
舌の上に残ったものを嫌うみたいに、口の端を歪める。
期待していたものと違った時の顔だった。飢えた獣の歓喜は、一撃で苛立ちへ変わる。
「薄っす」
誰に言うでもなく、心底うんざりした声で言う。
「腹の足しにもならねえ」
床へ、黒い残滓のようなものを吐き捨てる。
「雑魚じゃねえか」
教室の空気が、またざわつく。
少女の姿をした怪異たちの顔が揺れる。
窓際の影。
扉の脇。
机の下。
どこにいる個体も、少しだけ後ずさったように輪郭を薄くする。
恭介はそれを見ていない。
見ていないまま、鼻だけを鳴らす。
「本体はどこだ」
怒鳴るというより、獲物を呼ぶ声だった。
「出来損ないばっか寄こしてんじゃねえ」
さっき喰ったものが何の足しにもなっていないことが、かえって苛立ちを増している。
視界は戻らない。
世界は相変わらず線のままだ。
飢えも、一歩も退いていない。
恭介は舌打ちした。
「出てこいよ」
低く、笑う。
「そっちを喰わせろ」
そこで、ふっと静かになった。
唐突に。
さっきまで苛立ちのまま怒鳴っていたのに、急に口を閉じる。
それだけで、教室の温度が変わる。
恭介は人差し指を口元へ当てた。
喋るな、とでも言うみたいに。
紗希にも、レンにも、いや、教室そのものを黙らせるみたいな仕草だった。
レンは思わず口を閉じる。
紗希も、咳き込む寸前の息を止めた。
恭介の目は見えない。
前髪が垂れて、そこを完全に隠している。
視線で探すことはない。
代わりに、鼻を鳴らす。
すん、と短く。
もう一度。
それから、わずかに首を巡らせる。
窓際。
教卓の脇。
扉の近く。
群れのざわつきの、その後ろ側。
他の怪異より輪郭が濃い。
他の個体より、あまりにも“少女らしい”形を保っている一つ。
人の顔をしているように見えてしまう、逆に不自然な一体。
恭介の口元が、にやりと吊る。
白い歯だけが、一瞬だけ暗がりに覗いた。
「……みつけた」
志藤の背中に、冷たい汗が伝った。
見えていないはずだ。
あの目は、何も追っていない。
なのに、群れの奥の“それ”へ顔を向けた。
まっすぐに。
――喉が、勝手に開く。
「戻れ、“ひな”!」
その一言が響いた瞬間、教室の中に残っていた同じ顔の群れが、一斉に止まる。
窓際に貼りついていたものが、ふっと輪郭を薄くした。教卓の脇にいたものは顔の向きだけを揃え、机の下で口を開閉させていたものは、声を鳴らしかけたまま凍りつく。次の瞬間には、その全部が一つの意志に引かれるみたいに、影と反射の中へ吸い込まれていった。
扉の小窓。
窓ガラスの暗がり。
机の脚元に落ちた細い影。
さっきまでばらばらに散っていた口と顔が、そこへ収束していく。
ただ消えたのではない。
呼び戻されたのだと、レンにはすぐ分かった。
「……今の声で、全部引いた」
斧を構えたまま、低く言う。
紗希はまだ口元を押さえている。呼吸は浅い。だが、さっきみたいに空気がどこへ行くのか分からない状態からは、どうにか戻ってきていた。薄い咳を一つこぼしてから、掠れた声で言う。
「外からまとめてた、ってことですね」
恭介だけは、撤退していく群れを惜しむように舌打ちした。
「チッ。逃げやがった」
その言い方に、緊張も安堵もない。
ただ、食い損ねた獲物が引いた時の苛立ちだけがあった。
教室の空気が、ようやく少しだけ動く。
さっきまで肌に張りついていた圧が引き、床へ落ちた椅子や、蹴られてずれた扉や、窓際に揺れるカーテンの音が、ひどく現実的に戻ってきた。戦闘が終わったわけではない。だが、少なくとも今この瞬間だけは、向こうが一歩退いたのだと分かる。
レンは扉の小窓を見たまま、気を抜かずに言う。
「まだ気を抜くな」
紗希は壁へ片手をついて、ゆっくり呼吸を整える。立てる。だが、平常には程遠い。口元の位置感覚も完全には噛み合っていないのか、指先が無意識にそこを探るみたいに動いていた。
「……は、っ……はい」
返事の途中でまた少し咳き込む。
その横で、恭介は床へ吐き捨てた黒い残滓みたいなものを睨んでいた。喰った直後の不機嫌が、まだそのまま顔に残っている。
「さっきのは腹の足しにもならねえ」
吐き捨てるように言う。
「外のやつの方が、まだマシだ」
レンはそちらへ半眼を向ける。
「腹の足しって……」
「雑魚だってことだよ」
恭介は鼻で笑う。
「こういう薄いの何匹食っても、腹ん中で音もしねえ」
その言い方は相変わらず最低だったが、少なくとも、さっき教室内にいたものが“本体”ではないことを、戦った感覚としてはっきり掴んでいるのは伝わった。
――外にいる。
しかも、命令を飛ばして群れをまとめるくらいには、中枢に近い。
*
まずい、と志藤は思った。
思った時には、もう遅い。
声は出ていた。しかも、自分で思っていたよりずっと大きく。扉一枚向こうへ届くだけならまだしも、あの教室の中にいた三人全員へ、はっきり聞かせるくらいには。
「まずい、つい声を出してしまった……」
死角へ身を押し込む。呼吸を殺そうとする。だが、焦った時の呼吸ほど隠しきれないものはない。自分でも分かるくらい、吐く息が浅い。
「他はともかく、灯紗希に声を聞かれたのがまずい……!」
あの女は、気づく。
いまの段階では、まだ断片のはずだ。証言も、違和感も、名前も、全部ばらばらの材料にすぎない。なのに、灯紗希はそれを勝手につなげてしまう。そういう目をしていた。あの空き教室でも、恐怖より先に観測の顔をしていた。
それだけでも厄介なのに。
「まさか、“ひな”を食う存在がいるなんて」
喉の奥が、冷たくなる。
群れを断つ人間は想定していた。
異常を嗅ぎつけて首を突っ込んでくる組織の人間も、話には聞いていた。
だが、食う。あれを喰う。そういう存在は、少なくとも志藤の想定にはなかった。
そこでふいに、顔と名前が噛み合う。
「常盤恭介……」
志藤の眉が寄る。
「思い出したぞ。数年前に自主退学したクズだ」
素行不良。問題児。荒っぽいだけの空っぽな生徒。そういう分類で処理していた記憶がある。教師としての関心ですらなかった。目に入るたびに鬱陶しかっただけの、切り捨てた名前だ。
それが今、教室の中で“ひな”を食っていた。
「……くそ、あんな奴に」
思わず歯噛みする。
WFA。
怪異対策だか何だか知らないが、外から割り込んでくる連中。たしかに厄介ではある。だが、いま分かった。自分が本当に見誤っていたのはそこじゃない。
「WFAなどという些事に気を取られたせいだ」
志藤の口元が引きつる。
「警戒すべきは、常盤恭介と灯紗希だったんだ!」
あの男は喰う。
あの女は見抜く。
この二つが同時にいるのは、想像していたよりずっと悪い。
だが、まだ終わってはいない。
志藤は深く息を吸い込み、無理やり思考を整える。
「……まだ、僕のことは確信にまでは至らないはずだ」
そうだ。
声を聞かれた。名前も出てしまった。だが、それだけだ。直接見られたわけじゃない。進路指導室と自分と怪異のあいだに、まだ言い逃れの余地はある。少なくとも、今この場で全部が繋がり切ったと決めつけるのは早い。
早い。
早いはずだ。
「しばらく鳴りを潜めるしかない」
自分へ言い聞かせるように呟いて、志藤はさらに一歩、暗がりの奥へ身を引いた。
*
教室の中に戻ると、さっきまでの殺気だけが嘘みたいに薄くなっていた。
完全に安全なわけではない。影も反射も残っているし、窓際の暗がりには、まだ何かが潜んでいてもおかしくない。だが、少なくとも、さっきのように一斉に押し込んでくる圧はもうない。
レンは斧を消さずに、短く言った。
「今のは本体じゃない」
紗希が壁に手をついたまま顔を上げる。
「……はい」
「増えるし、断っても終わらねえ」
レンは窓際、小窓、机下を順に見やる。
「端末か、分身みたいなもんだ」
そこへ、恭介が鼻で笑う。
「雑魚だな」
言葉が軽い。
だが、その軽さが逆に裏打ちになっていた。喰ってみたうえで、薄い、足りない、腹の足しにもならないと断じているのだ。
紗希は呼吸を整えながら、小さく頷く。
「進路指導室、鏡、声……」
一つ一つ、確かめるように言う。
「少なくとも、今見えてる断片は、そこに集まってます」
美和の証言。
女の子みたいなもの。
鏡の前。
“ひな”という呼び名。
外から飛んできた命令。
それぞれ別々の話に見えていたものが、進路指導室を軸にすると、ようやく一つの輪郭を持ち始める。
レンも頷く。
「少なくとも、“ひな”って呼び名の方は、怪異そのものじゃない可能性があるな」
紗希は少しだけ目を伏せる。
「……はい。先生が誰かをそう呼んでいて、それが今の怪異にも被さってるのかもしれません」
そこで長い考察はしない。
いまは、全部を確定する場面じゃない。
ただ、次に何を調べるべきかは、見え始めていた。
レンが息を吐く。
「まず調べる」
斧の輪郭を消し、言葉の調子を仕事のものへ戻す。
「答え合わせじゃない。条件から潰す」
紗希は、ようやく少しだけいつもの調子に近い顔をした。
「調べるにうってつけの場所がありまして」
すると、横から興味なさそうな声が落ちた。
「図書室いくってんだろ」
恭介だった。
「いつもの紗希のやり方だ」
紗希はそちらを見て、小さく肩をすくめる。
「そうです。一番静かに、色々な記録に触れられる場所は、そこしかありません」
記録。卒業アルバム。旧聞。進路指導室に紐づく出来事。事件。
そういうものに触れるなら、まずそこだ。
すると、横から不機嫌そうな声が落ちた。
「図書室は嫌いだ」
恭介だった。
レンがそちらを見ると、恭介は露骨に嫌そうな顔をしている。
怪異に向けていた獣じみた笑みは消えていたが、その代わり、学校そのものに向ける露骨な“うんざり”が顔に出ていた。
「……っていうか、この学校が嫌いだ。俺にはもう関係ねえ」
吐き捨てるように言う。
だが、そのまま引くわけでもない。
「さっきの怪異は、てめえらより先に俺が見つけて食ってやる」
レンはその言い方に、少しだけ呆れる。
戦力として見れば、いま一番有効打を持っているのは間違いなくこの男だ。
だが、図書室検索の場へ連れていったところで役に立つかと言われると、たしかに怪しい。
レンは、紗希へ少しだけ身を寄せて小声で言った。
「学校が気まずいってさっき言ってたの、マジだったんだな……」
紗希は肩をすくめる。
「まあ」
それだけ返してから、足元へ落ちていたビニール袋を拾い上げた。
中には、あの血の染みが取りきれていないエプロンが入っている。
そのまま、恭介へ差し出す。
「じゃあ、先輩、これ」
「……あ?」
「私に押し付けないでください」
恭介が眉を寄せる。
「お前が大事そうにしてたから洗ってやったんじゃねえかよ!」
「洗えてないです」
即答だった。
「流石にこれを着けるのは無理です」
「洗った!」
恭介は食い気味に言い返す。
「綺麗じゃねえか!」
紗希は無言で、ビニール越しの染みを見せる。
バターの汚れと、血の痕と、よく分からない黒ずみまで混じっていて、どこをどう見ても“綺麗”ではなかった。
「……洗えてないです」
もう一度、静かに言う。
恭介は露骨にそっぽを向いた。
「チッ。じゃあ勝手にしろ」
袋をひったくるように受け取る。
「俺は俺で見つける」
その言い方に未練はない。図書室も、学校も、調べ物も、全部どうでもいいが、食えるものがどこにいるかだけは気にしている。そういう離脱だった。
レンが半眼になる。
「好き勝手だな……」
紗希は小さく笑う。
「まあ、いつも通りです」
恭介はそれ以上何も言わず、廊下の別方向へ顔を向けた。見えていないくせに、紗希の熱と、自分の食えそうな気配だけで動こうとしているのが分かる。
教室の中に残っていた緊張が、そこでようやく少し形を変えた。
さっきまでの戦闘の熱は、まだ皮膚の上に残っている。
だが、次にやるべきことはもう決まった。
レンは扉の外を一度だけ見てから、紗希へ言う。
「行けるか」
紗希は呼吸を整えて、頷く。
「図書室くらいなら」
「十分だ」
レンは短く返す。
その背後で、恭介がまた鼻を鳴らした。
「逃がすなよ」
誰に向けたのか分からない。
自分に言ったのかもしれないし、二人へ言い残したのかもしれない。
「せっかく見つけたんだ」
その声音にだけ、さっき教室を満たしていた怪異とは別種の怖さが残っていた。




