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1章・17話

 レンの斧が、また一体を裂いた。


 黒い輪郭が二つに割れ、床へ落ちる。だが、その隙間を埋めるみたいに、別の顔がすぐ横から滲み出る。窓の反射、小窓の縁、机の影。どこを断っても、次の口がもう開いていた。


「先生に、呼ばれて」


「聞いたんです」


「見張られてる気がして」


 ばらばらの声が、教室の中で勝手に重なる。


 レンは舌打ちを噛み殺した。

 一体ずつなら断てる。けれど、今はその“一体ずつ”を作らせてもらえない。紗希へ寄っていく群れを捌きながら、さらに紗希の口元へ貼りついたあれを剥がす――その手順を踏む余裕がない。


 紗希は膝をついたまま、口元を押さえていた。


 押さえている。だが、位置が合っていない。

 そこに口があるはずなのに、自分のものとして噛み合っていない。

 吸った息は喉へ落ちきらず、吐いた息は出口を外して横へ漏れる。肺だけが浅く速く痙攣して、呼吸の形だけが空回りしていた。


 レンの視界の端で、“ひな”の一体がまた紗希へ口を寄せようとする。


「クソ……!」


 考察は山ほどある。

 美和の時と症状が違う。

 自分にはここまで入ってこない。

 紗希だけ、深い。

 理由は分からない。


 だが今は、そんなことを並べている場合じゃない。


「今は、紗希ちゃんを助けるのが先決だ……!」


 吐き捨てるように言って、レンは手元へ意識を集めた。


 〈蜃〉が、手の中で縮む。

 いつもの斧より小さい。片手で握り込める程度の、手斧だ。影を濃く削って固めたみたいな刃が、ぎり、と嫌な音もなく輪郭だけを立ち上げる。


 レンはそれを見ずに、紗希の真正面へ視線を通す。


「俺の〈蜃〉は蜃気楼でね。幻だけを斬るって芸当ができる」


 言い終えると同時に、手斧を投げた。


 真っ直ぐじゃない。

 弧を描くようにして、斧は飛んでいった。

 教室の中ほどを抉るような軌道で飛び出して、紗希へ向かう。


 紗希の目が、かすかに揺れた。

 だが避ける余裕はない。


 手斧は、その肩口をかすめるようにして通り抜けた。


 服には触れない。

 肌にも触れない。

 膝をついた紗希の身体を、そこにないものみたいにすり抜けて、その口元へ貼りついていた“ひな”だけを、横から切り裂く。


 複数の口がいっせいに開き、声にならない擦過音が弾けた。


 貼りついていた膜が、剥がれる。


「――っ、は……!」


 紗希の身体が跳ねた。


 大きく息を吸う。

 今度はちゃんと肺まで落ちた。喉の手前で潰れていた空気が、一瞬だけ通る。咳き込む。肩が上下する。まだ楽にはほど遠いが、それでもさっきよりは明らかに呼吸の形が戻っていた。


 その余波みたいに、近くへ群がっていた何体かの“ひな”も、輪郭を崩して床の影へほどける。


 手斧はそのまま弧を描いて戻ってきた。


 レンが手を上げる。

 戻ってきた刃を受け止めた瞬間、それは手の中でどろりと溶けた。黒い泥みたいに輪郭を失って、指のあいだから零れる前に空気へ消える。


 レンが顔をしかめる。


「これは、奥の手“その一”なんだがよ……!」


 息は乱れている。

 それでも口だけは回る。


「ちょっと欠点があって」


 消えた手元を軽く振る。


「使い捨てになっちまうんだわ!」


 冗談めかしているが、冗談では済まない顔だった。

 投げた一撃で、その場の圧は崩せる。だが、それだけだ。持続しない。押し切れない。


 それでも、いま必要だった一息だけは作れた。


 レンはすぐに次の影へ視線を走らせる。


「まあでもいい、紗希ちゃん。退路は作ったから逃げてくれ!」


 言ってるそばから、教室の暗がりがまたざわつく。


 窓の反射に、同じ顔。

 小窓の縁に、別の口。

 教卓の脇の影が、ぬるりと持ち上がる。


 わらわらと湧く。

 さっき崩れた分を埋めるみたいに、また別の輪郭が教室の中へ戻ってきていた。


 レンが舌打ちする。


 その時だった。


 廊下の向こうで、何かが倒れる音がした。


 がたん、と。

 椅子か、掃除用具入れか、そういう軽いものを雑に引っかけたような音だ。


 レンの目が、扉の方へ向く。


「……まだいるのか?」


 怪異の新手かと思った。

 けれど音は、妙だった。


 不規則なのに、近づいてくる。

 壁にぶつかる。何かを踏み外す。けれど、そのたびに方向だけはこっちへ寄ってくる。

 普通の人間の足取りにも、怪異の滑る動きにも聞こえない、中途半端に荒っぽい接近音だった。


 紗希は、咳き込んだまま顔を上げる。


 口元の位置感覚はまだ完全には戻っていない。呼吸も浅い。

 それでも、その音だけは拾えた。


「……」


 レンが振り向く。


「何だ」


 紗希は一度、肺へ空気を入れ直す。

 まだ喉が痛い。声は少し掠れる。けれど、今度は言葉になる。


「この音。……はあ、ようやく来ましたか」


 一拍。


「まったく。本当に食い気でしか動かないんだから」


 廊下の向こうで、また別のものが倒れた。


 がしゃん、と、今度はもう少し大きい。

 何かにぶつかりながら、それでも真っ直ぐ近づいてくる音だった。


 紗希の目が、かすかに細くなる。


「来てます」


 レンが眉をひそめる。


「誰が」


 紗希は口元を押さえたまま、それでも少しだけ笑った。


 にんまり、と。


「さぁて、誰でしょう」


 人差し指を口元に添えて、悪戯っぽい表情を浮かべた。

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