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1章・16話

 厨房には、甘い匂いがこもっていた。


 本来なら、今ごろは床でも磨いているはずだった。


『協力しないんなら、お店のお掃除お願いしますね』


『……え? 協力、してくれないんですよね?』


 紗希がにこにこと念を押しながら押しつけていった仕事だ。


「しらねっつの!」


 恭介は当然のように無視して、厨房でホットケーキを焼いていた。


 焼きたてのホットケーキが、皿の上で何枚も重なっている。

 バターはもう半分溶けて、縁から落ちたシロップが皿の底でべたついていた。小麦の焼ける匂いと甘ったるい熱気で、喫茶店らしい空腹はたしかに誘われる。普通なら、これだけあれば十分すぎる。


 恭介は、その一枚を折りたたむみたいにして口へ押し込んだ。


 噛む。飲み込む。すぐ次を取る。

 味わってはいない。

 ただ、口を動かしているだけだった。


「腹が減った」


 誰もいない店内へ向かって、ぼそりと呟く。


 返事はない。

 そもそも客もいない。紗希もいない。レンもいない。喫茶店〈灯〉の一階は、夕方の光と甘い匂いだけを残して妙に静かだった。


 皿の山は、もうだいぶ低い。

 それでも、足りない。


 胃は重い。

 甘ったるさも、喉に貼りつく感じも、もう十分すぎるほど分かる。口の中は飽ききっているし、胸のあたりには食った分だけの鈍い重みもある。なのに、飢えだけがまるで黙らない。


 恭介は舌打ちして、また一枚ひっつかむ。


「……空腹が紛れるかと思って、一人フードファイトを始めてみたはいいけどよ」


 吐き捨てるように言う。


「食っても食っても、おさまらねえ」


 その声には苛立ちが混じっていた。

 ただ腹が減っただけなら、こんなに機嫌は悪くならない。腹が減っているのに、食っても違う。胃袋には落ちているはずなのに、腹の底に口を開けている別の飢えには、まるで届かない。甘いものは上っ面をぬるく撫でるだけで、いちばん欲しいところには何一つ引っかからなかった。


 恭介は皿の上のホットケーキを睨む。


「クソ。甘いだけで誤魔化せるなら、苦労しねえんだよ」


 そう言いながらも、手は止まらない。

 食っても無駄だと分かっているのに、口だけは動かしている。空腹を紛らわせるために煙草を吸うみたいに、意味がないと知りながらどうでもいいものを腹へ放り込んでいるだけだった。


 次の一枚を取ろうとして、指先が皿の縁を滑った。


 皿がずれる。


 がちゃん、と嫌な音がして、皿が床へ落ちた。


 砕ける。


 白い破片が足元へ散って、バターのついた欠片がカウンターの脚にぶつかった。


 恭介は眉を寄せる。


「……見えにく」


 それは言い訳でも何でもなく、ただの事実だった。


 視界の奥行きが、さっきからずっとおかしい。

 物が立体に見えない。輪郭だけが先に立って、距離が消える。椅子の脚も、皿の縁も、テーブルの角も、全部が“線”として見えるだけで、どこからどこまでが空間なのか噛み合わない。


 彼はしゃがんで破片を拾おうとして、椅子の脚に肩をぶつけた。


「っ、チ」


 短く舌打ちする。


 今度は椅子が倒れた。

 客席の方まで、がたん、と音が響く。


「椅子多すぎんだよ、この店」


 悪態をつきながら立ち上がりかけて、今度は自分の足で椅子の脚を踏んだ。体勢が崩れる。

 そのまま、厨房との境目あたりで盛大に転んだ。


 手から離れたホットケーキが、ひっくり返って胸元へ落ちる。まだ少し熱かった。シロップが服につく。割れた皿の小さい破片まで、ズボンの膝に引っかかった。


 恭介は床に転がったまま、しばらく天井を見ていた。


 見えてはいない。

 白い天井のはずなのに、いまはそこも線の集合にしか見えない。蛍光灯も木目も、全部平たく浮いているだけだった。


 その状態のまま、深いため息をつく。


「……昨日のちっちゃい怪異じゃ足りなかった」


 ぽつりと零す。


 昨日、〈灯〉まで逃げ込んできた端くれは喰った。

 たしかに喰った。あの瞬間だけは腹の底が少し黙った気もした。だが、たったそれだけだ。いまはもう、何も入っていないのと変わらない。


 恭介は寝そべった状態で、床に手をつき、ホットケーキのかけらを胸から払い落とす。

 それから、皿の破片が服に引っかかっているのに気づいて、面倒くさそうに指で弾いた。


「腹減ったまんまだ」


 誰にともなく言う。


 店内は静かだった。

 コーヒーミルの音もない。カップを置く音もない。紗希の“先輩、ちゃんと片づけてくださいよ”という声もない。


 代わりに、自分がひっくり返した椅子と、割れた皿と、食いかけのホットケーキだけが散らかっている。


「ここにいりゃ、怪異が勝手に寄ってくるみてえな話、してたのによぉ」


 恭介は床に転がったまま、割れた皿の破片を指で弾く。


「全然来ねえし! ……嘘はよくねえよな、嘘は」


 眉を寄せて、吐き捨てる。


「……やっぱ紗希に群がってるだけなんじゃねえのか。ブラックベインも怪異も」


 その、どうしようもない静けさの中で。


 ふいに、恭介の表情が止まった。


 視界の線が、一本だけ意味を持つ。


 輪郭じゃない。

 形でもない。

 熱だ。


「……あ?」


 さっきまで床に転がったまま、皿の破片を指で弾いていた男の声とは思えなかった。低いが、急に芯が通る。


 恭介は動かない。

 動かないまま、目だけが細くなる。


 見えてはいない。相変わらず世界は線の集合だ。厨房の境目も、椅子の脚も、倒れた皿も、全部が薄い輪郭で重なっているだけで、まともな奥行きは戻っていない。


 だが、その中で一つだけ、線じゃないものがある。


 熱。


 いつもなら、雑踏の中でも分かる。店の二階にいても、道を一本隔てても、ぼんやりとは拾える。

 紗希のいる位置だけが、線じゃなく熱で分かる。輪郭じゃなく、そこにいるという確信だけが先に来る。


 その熱が、今。


 弱い。


「……紗希の“熱”が」


 恭介の口元が、ゆっくり歪む。


「消えかけてる」


 そこから先は早かった。


 さっきまでの鈍さが嘘みたいに、恭介は床へ手をついて起き上がる。胸元についたホットケーキのかけらを払う。ズボンの膝に引っかかっていた皿の破片を指で弾き飛ばす。倒れた椅子を蹴って退かし、その音にすらもう苛立たない。


 むしろ、笑っていた。


「は」


 短く漏れた声が、そのまま笑いへ変わる。


 目の奥だけが、急に冴えている。


 さっきまでホットケーキで空腹をごまかしていた、みっともない男の顔じゃなかった。頬はまだ少し汚れているし、服にもシロップの染みがついている。なのに、顔つきだけが先に別のものへ変わっている。


「紗希が」


 一歩、踏み出す。


「怪異にボコされてるんだ!!」


 心底嬉しそうだった。


 叫び声が明るいわけじゃない。高いわけでもない。むしろ低い。けれど、声の弾み方だけがあまりに楽しそうで、普通の人間ならまず出さない種類の喜色が混じっていた。


「いいぞ」


 恭介は笑う。


「そういうの待ってた」


 カウンターに手をつき、ぐるりと回って出口へ向かう。

 途中、足元の椅子にまたぶつかりかけるが、今度は蹴り飛ばして済ませる。線しか見えていないくせに、進む勢いだけで通路をこじ開けていくみたいな動きだった。


「そのままやられてろ、紗希」


 言ってることは最低だった。


 けれど手だけは止まらない。

 上着をひっつかむ。靴を引き寄せる。ドアの鍵を雑に回す。店を出る支度が、妙に速い。


「食われかけてる顔、あとで見せろよ」


 一瞬、そこで口元が深く吊る。


「……俺にも腹の足しになるかもしれねえしな」


 冗談とも本気ともつかない言い方だった。

 ただ一つ確かなのは、その言葉の裏に一片の優しさもないことだ。


 恭介は、客席を見渡した。


 倒れた椅子。

 割れた皿。

 食いかけのホットケーキ。

 シロップのついた床。

 掃除するはずだった店内は、もはやさっきより散らかっていた。


「……帰ったら片づけりゃいいか」


 まるで今そこで思い出したみたいに呟いて、次の瞬間にはもう忘れている声だった。


 店の扉を開ける。


 夕方の空気が流れ込んでくる。

 外の光も、街の輪郭も、恭介には相変わらず線にしか見えない。だが、その向こうにある紗希の熱だけは、弱々しく、けれど確かにまだ残っていた。


 恭介はその熱へ顔を向ける。


 にやり、と笑う。


「待ってろ」


 その言い方も、助けに行く人間の声じゃなかった。


「今、喰いに行ってやる」


 そう言って、恭介は〈灯〉を飛び出した。

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