1章・15話
静けさは、長く続かなかった。
レンが扉の小窓へ視線をやった、その次の瞬間には、もう教室の空気が変わっていた。
窓際の影が揺れる。
扉の小窓に映った暗がりが、わずかに滲む。
机の下、教卓の脇、床へ落ちた椅子の影。退いたはずの“ひな”たちが、今度は別の形で浮かび上がってくる。
同じ顔。
違う口。
違う声。
「……見張られてる気がして」
掠れた女の声が、窓の反射から漏れる。
「先生に、呼ばれて」
今度は低い声が、小窓の縁から返ってくる。
「聞いたんです」
別の声が、机の下から這い上がる。
レンは舌打ちを飲み込んだ。
「……来るぞ」
斧の輪郭が、また手の中に立つ。
今度の“ひな”たちは、さっきとは違っていた。血を見て退いた直後の、あの警戒した間合いではない。顔を出す位置も、声を鳴らす順番も、明らかに意図がある。紗希のいる側へまっすぐ寄るのではなく、まずはレンの周囲に群れてくる。
レンは一歩、紗希の前へ出る。
「下がってろ」
言い終えるより早く、最初の一体が来た。
少女の輪郭が、影ごと剥がれて滑り込む。レンは最短の軌道で斧を振った。
断てる。
手応えはある。黒い輪郭は裂ける。だが、それで終わらない。斬った影の後ろから、別の口が開く。さらに別の声が重なる。
「先生に、呼ばれて」
右。
「聞いたんです」
左。
「見張られてる気がして」
今度は真後ろ。
レンが体をひねり、振り向きざまにもう一体を断つ。影は裂ける。口の群れが空気だけを噛む。だが、床の暗がりからは次の輪郭がもう立ち上がっていた。
数が多い。
一体ずつなら切れる。だが、切るたびに別の位置が空く。紗希を庇うには、明らかに手数が足りない。
紗希もそれを見ていた。
血の残ったエプロン入りのビニール袋を手元へ寄せながら、レンの動きと群れの位置を同時に見ている。逃げるより、どこが一番危ないかを先に見てしまう目だった。
「今度は、レンさんに寄ってます」
「分かってる」
レンは短く返す。
「だから下がれ」
その瞬間だった。
床のすぐ上を、もう一体が音もなく滑った。真正面ではない。斧の届く角度でもない。机の脚と椅子の脚のあいだを抜けて、紗希の足首だけを狙って入ってくる。
紗希が気づいた時には、もう遅かった。
「っ……」
足を払われる。
大きく転ぶほどではない。だが、体勢は完全に崩れた。膝が床に落ちる。受け身を取ろうとした手が、持っていたビニール袋ごと滑る。
がさり、と嫌な音がした。
血の残ったエプロンが、紗希の手元から離れる。
その瞬間、教室の空気の質が変わった。
さっきまでレンを押さえるために散っていた“ひな”たちの意識が、一斉に向きを変える。顔は同じまま。声もばらばらのまま。けれど、その全部の視線が紗希の口元へ吸い寄せられていく。
レンの顔色が変わった。
「おい!」
叫びながら一体を断つ。だが、その斧の軌道より早く、一つの顔が紗希の真正面まで詰めていた。
少女の顔。
その下半分だけが、生々しく変形する。
複数の口が、一つの大口になるのではない。薄い唇、荒れた唇、切れた口角、乾いたまま閉じきらない唇。ばらばらの口が、花びらのように裂けて開く。花ならもっと均整があるだろう。これは形の悪い、乾いた肉のひらき方だった。
それが、そのまま紗希の口元へ覆いかぶさる。
噛むのではない。
貼りつく。
冷たいというより、乾いている。薄い膜を何枚も押し当てられたみたいに、生理的にぞっとする感触だけが先に来る。
紗希の目が見開かれた。
「……っ、ぅ……!」
口を押さえたつもりだった。
だが、自分の唇がどこにあるのか、一瞬で分からなくなる。
そこにあるはずなのに、位置が噛み合わない。声を出そうとしても、唇の形が作れない。もっと手前、顔の下半分そのものが、薄い膜越しにずらされているみたいだった。
息を吐く。
出ない。
いや、出てはいる。だが出口が合っていない。横へ漏れる。上へ逃げる。肺だけが痙攣して、呼吸の形だけが空回りする。
レンの背筋が、ぞっとする。
違う。
美和の時は、ここまでではなかった。せいぜい喋りづらい、声が掠れる、その程度で止まっていた。
自分だって今、群れに押されてはいるが、同じように口を奪われているわけじゃない。
なのに紗希だけ、入り方が違う。
「おい、待て」
レンの声が、初めて本気で乱れる。
「何で紗希ちゃんにだけ、そんな深く入る……!」
答えるものはいない。
代わりに、周囲の“ひな”たちが一斉にざわついた。
一体が張りついたのを合図にしたみたいに、群れ全体の圧が紗希へ寄る。さっきまでは距離を測っていた口たちが、今は明らかにそこへ集まりたがっている。まるで、一つの口が“入口”を見つけたせいで、全部がそこへ吸われ始めたみたいだった。
紗希は膝をついたまま、喉元ではなく口元を押さえている。
だが、押さえている位置すらずれていた。
息が入らない。肺の上の方だけが、浅く、速く、意味のない動きを繰り返している。
レンは斧を振るう。
一体断つ。
また一体来る。
口だけが、耳の近くでばらばらに開く。
「先生に、呼ばれて」
「聞いたんです」
「見張られてる気がして」
全部違う声なのに、全部同じ顔だ。
斧の軌道が影を裂いても、紗希のところまでは届き切らない。
「紗希ちゃん!」
レンが叫ぶ。
だが紗希は返せない。
返事の代わりに、潰れた呼吸だけが喉の手前で掠れた。
教室の中で、同じ顔の群れの口だけがざわついていた。




