表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/24

1章・15話

 静けさは、長く続かなかった。


 レンが扉の小窓へ視線をやった、その次の瞬間には、もう教室の空気が変わっていた。


 窓際の影が揺れる。

 扉の小窓に映った暗がりが、わずかに滲む。

 机の下、教卓の脇、床へ落ちた椅子の影。退いたはずの“ひな”たちが、今度は別の形で浮かび上がってくる。


 同じ顔。

 違う口。

 違う声。


「……見張られてる気がして」


 掠れた女の声が、窓の反射から漏れる。


「先生に、呼ばれて」


 今度は低い声が、小窓の縁から返ってくる。


「聞いたんです」


 別の声が、机の下から這い上がる。


 レンは舌打ちを飲み込んだ。


「……来るぞ」


 斧の輪郭が、また手の中に立つ。


 今度の“ひな”たちは、さっきとは違っていた。血を見て退いた直後の、あの警戒した間合いではない。顔を出す位置も、声を鳴らす順番も、明らかに意図がある。紗希のいる側へまっすぐ寄るのではなく、まずはレンの周囲に群れてくる。


 レンは一歩、紗希の前へ出る。


「下がってろ」


 言い終えるより早く、最初の一体が来た。

 少女の輪郭が、影ごと剥がれて滑り込む。レンは最短の軌道で斧を振った。


 断てる。


 手応えはある。黒い輪郭は裂ける。だが、それで終わらない。斬った影の後ろから、別の口が開く。さらに別の声が重なる。


「先生に、呼ばれて」


 右。


「聞いたんです」


 左。


「見張られてる気がして」


 今度は真後ろ。


 レンが体をひねり、振り向きざまにもう一体を断つ。影は裂ける。口の群れが空気だけを噛む。だが、床の暗がりからは次の輪郭がもう立ち上がっていた。


 数が多い。

 一体ずつなら切れる。だが、切るたびに別の位置が空く。紗希を庇うには、明らかに手数が足りない。


 紗希もそれを見ていた。

 血の残ったエプロン入りのビニール袋を手元へ寄せながら、レンの動きと群れの位置を同時に見ている。逃げるより、どこが一番危ないかを先に見てしまう目だった。


「今度は、レンさんに寄ってます」


「分かってる」


 レンは短く返す。


「だから下がれ」


 その瞬間だった。


 床のすぐ上を、もう一体が音もなく滑った。真正面ではない。斧の届く角度でもない。机の脚と椅子の脚のあいだを抜けて、紗希の足首だけを狙って入ってくる。


 紗希が気づいた時には、もう遅かった。


「っ……」


 足を払われる。


 大きく転ぶほどではない。だが、体勢は完全に崩れた。膝が床に落ちる。受け身を取ろうとした手が、持っていたビニール袋ごと滑る。


 がさり、と嫌な音がした。


 血の残ったエプロンが、紗希の手元から離れる。


 その瞬間、教室の空気の質が変わった。


 さっきまでレンを押さえるために散っていた“ひな”たちの意識が、一斉に向きを変える。顔は同じまま。声もばらばらのまま。けれど、その全部の視線が紗希の口元へ吸い寄せられていく。


 レンの顔色が変わった。


「おい!」


 叫びながら一体を断つ。だが、その斧の軌道より早く、一つの顔が紗希の真正面まで詰めていた。


 少女の顔。

 その下半分だけが、生々しく変形する。


 複数の口が、一つの大口になるのではない。薄い唇、荒れた唇、切れた口角、乾いたまま閉じきらない唇。ばらばらの口が、花びらのように裂けて開く。花ならもっと均整があるだろう。これは形の悪い、乾いた肉のひらき方だった。


 それが、そのまま紗希の口元へ覆いかぶさる。


 噛むのではない。

 貼りつく。

 冷たいというより、乾いている。薄い膜を何枚も押し当てられたみたいに、生理的にぞっとする感触だけが先に来る。


 紗希の目が見開かれた。


「……っ、ぅ……!」


 口を押さえたつもりだった。

 だが、自分の唇がどこにあるのか、一瞬で分からなくなる。


 そこにあるはずなのに、位置が噛み合わない。声を出そうとしても、唇の形が作れない。もっと手前、顔の下半分そのものが、薄い膜越しにずらされているみたいだった。


 息を吐く。

 出ない。


 いや、出てはいる。だが出口が合っていない。横へ漏れる。上へ逃げる。肺だけが痙攣して、呼吸の形だけが空回りする。


 レンの背筋が、ぞっとする。


 違う。


 美和の時は、ここまでではなかった。せいぜい喋りづらい、声が掠れる、その程度で止まっていた。

 自分だって今、群れに押されてはいるが、同じように口を奪われているわけじゃない。


 なのに紗希だけ、入り方が違う。


「おい、待て」


 レンの声が、初めて本気で乱れる。


「何で紗希ちゃんにだけ、そんな深く入る……!」


 答えるものはいない。


 代わりに、周囲の“ひな”たちが一斉にざわついた。


 一体が張りついたのを合図にしたみたいに、群れ全体の圧が紗希へ寄る。さっきまでは距離を測っていた口たちが、今は明らかにそこへ集まりたがっている。まるで、一つの口が“入口”を見つけたせいで、全部がそこへ吸われ始めたみたいだった。


 紗希は膝をついたまま、喉元ではなく口元を押さえている。

 だが、押さえている位置すらずれていた。

 息が入らない。肺の上の方だけが、浅く、速く、意味のない動きを繰り返している。


 レンは斧を振るう。

 一体断つ。

 また一体来る。

 口だけが、耳の近くでばらばらに開く。


「先生に、呼ばれて」


「聞いたんです」


「見張られてる気がして」


 全部違う声なのに、全部同じ顔だ。


 斧の軌道が影を裂いても、紗希のところまでは届き切らない。


「紗希ちゃん!」


 レンが叫ぶ。


 だが紗希は返せない。

 返事の代わりに、潰れた呼吸だけが喉の手前で掠れた。


 教室の中で、同じ顔の群れの口だけがざわついていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ