1章・14話
廊下の死角は、ひどく静かだった。
空き教室の扉一枚向こうでは、まだ人の気配がある。声もある。だが、それはもう内容としては聞いていない。志藤に届いているのは、誰がまだそこに残っているのか、その輪郭だけだった。
灯紗希。
あの斧を出した男。
そして、橘美和。
志藤は掲示板の影に体を寄せたまま、視線だけをわずかに動かす。扉の小窓を正面から覗くことはしない。反射と、足音と、声の滲み方だけで十分だった。十分すぎるくらいだ。
「……橘美和の帰宅を、影ながら護衛している人間が数名いるな」
呟きは、ほとんど息に近い。
先ほどまでよりも、廊下の気配が一段だけ厚い。教師でも生徒でもない、妙に間合いの整った人間が外に増えている。姿を見なくても分かる。あれは学校の人間の立ち方ではない。気配を殺しきれないくせに、目的だけははっきりしている立ち方だ。
「やっぱり、泳がせて正解だった」
志藤は、そこでようやく薄く笑った。
「“ひな”を戻したのもな」
あの場で橘美和へ執着を続けていたら、むしろ余計なものまで引き寄せていた。口は惜しい。記録も惜しい。だが、あれはもう怯えきっている。壊れかけたレコードに針を落とし続けても、綺麗な音は拾えない。
それよりも。
「やっぱりだ。あれが、話に聞いていた“組織”か」
舌打ちは、かろうじて飲み込んだ。
“彼”の言っていたことは、やはり本当だったらしい。鼻の利く連中。脈の周辺を嗅ぎ回り、異物のように割り込んでくる連中。名前などどうでもいいと思っていたが、こうして目の前に現れると、たしかに厄介だった。
「……くそ」
苛立ちが、今度は隠しきれずに漏れる。
「これでは、“ひな”に与える口が間に合わないじゃないか」
口。
声。
怯え。
そのどれもが、足りていない。
橘美和だけでは弱い。あれはもう、恐怖の鮮度が落ち始めている。戻したのは正しい。正しいが、そのぶん、いまここにある供給は減った。
志藤の視線が、空き教室の扉へもう一度戻る。
「あの斧を持っていた男が、中心か」
あの男だけ、立ち方が違う。
灯紗希は踏み込んでくる。だが、あれは好奇心と観測欲の踏み込みだ。
一方で、あの男は違う。下がる位置も、割り込む位置も、最初から“守る順番”が頭に入っている。ああいう人間が一人いるだけで、場の形は変わる。
「……護衛がいないのは、どういう理屈だ?」
そこだけは、ほんの少し引っかかった。
あれが本当に組織の人間なら、もう少し周囲が厚くてもいいはずだ。なのに実際は、外で動いているのは数名。しかも、あくまで橘美和の帰路に合わせたような薄い護り方だ。中心をあの男ひとりへ寄せすぎている。
だが、そこで思考を止める理由はない。
「まあいい」
志藤の表情が、すっと冷える。
「あの男を潰せば、状況は良くなる」
それは確信に近かった。
灯紗希は邪魔だが、まだ個人だ。
だがあの男は違う。場の見方も、反応の仕方も、こちらの気配の拾い方も、すでに厄介な枠に入っている。
「殺すのはまずいな」
ここだけ、口調が妙に静かになる。
「“しゃべれなく”なってもらうくらいが、ちょうどいい」
それで十分だ。
口を奪う怪異に触れた人間が、口を使えなくなる。声が出なくなる。発声が崩れる。
事故でも、症状でも、恐怖の延長でも、見ようと思えばいくらでも見える。
死体は面倒だ。
黙る口の方が、ずっと扱いやすい。
だが、それでも順番はある。
「そして本命は、やはり灯紗希くんだな」
その名を呼ぶ時だけ、志藤の声には妙な柔らかさが混ざる。
さっき教室の中で聞こえた声。
柔らかく、輪郭があって、余計なところで震えない声。
ああいう声は、記録する価値がある。怯えさせれば、なお良い。歪ませれば、もっと良い。
「早くあの声を、あの口を……僕のものに」
そこで一拍、止まる。
自分で口にした言葉に、自分で気づいたみたいに。
「……いや」
すぐに言い直す。
「“ひな”のものにしなければ」
訂正したはずなのに、かえって本音の方だけが廊下に残った。
志藤は扉の向こうを見たまま、ゆっくり息を吐く。
血を嫌う。
それは想定外だった。
だが、だからどうした。
血を持っているなら、持たせなければいい。
「一つでは足りない。囲め」
低く、命じる。
「まずはあの男を押さえろ」
物量でいい。
一体断たれるなら、二体。二体断たれるなら、その倍。
“ひな”は一つの輪郭に縛るものではない。口は散らせる。声は増やせる。数で押し潰せば、あの斧だっていつか間に合わなくなる。
「その隙に、足を払え」
今度は、もっと静かに。
灯紗希へ正面から寄れないなら、寄れないなりの方法で崩せばいい。
転ばせる。落とさせる。手元から離させる。たったそれだけで十分だ。
「手から離れた瞬間だ」
志藤の目が、細くなる。
「そのまま行け」
血のついたものが手元から離れた瞬間、群れはもう迷わない。
あとは口元へ行けばいい。
あの子の声を、あの子の口を、今度こそ。
「灯紗希くんの口を、今度こそ」
その言葉の終わりと同時に、空き教室の扉の下へ落ちていた影が、ぬめるように揺れた。




