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1章・13話

 教室の中に、また静けさが戻る。


 けれど、それは最初に美和を座らせた時の静けさとは違っていた。

 放課後のざわめきが、扉の向こうで薄く続いていることに変わりはない。遠くの笑い声も、机を引く音も、校舎のどこかを走る足音も、たしかにまだある。なのに今は、その全部がこの教室だけを避けて流れているみたいだった。


 美和は椅子の上で膝を寄せたまま、小さく息をしていた。

 さっきまで喉の上で潰れていた呼吸は、いくらか戻っている。口元を探る指先も、もう大きくは迷わない。だが、完全に元通りというにはほど遠かった。息を吸うたび、胸の上の方だけが浅く上下する。


 紗希はその様子を見てから、足元へ視線を落とした。

 椅子の脚元にぶつかって半分飛び出したままの通学鞄。そこから覗いているビニール袋。さらにその中には、血の落ちきっていない新品のエプロンが、ひどく場違いな顔をして収まっている。


 その横で、レンは教室の反射面をまだ見ていた。

 窓。扉の小窓。机の天板。黒板の端。さっき“ひな”たちが滲み出てきた位置を、一つずつ静かに確かめている。もう〈蜃〉の斧は消えていたが、気配だけはまだ戦闘の途中にあった。


 紗希が低く言う。


「……今の、消えたんでしょうか」


 レンはすぐには答えなかった。

 答える代わりに、窓際の黒ずみを一度見て、それから教卓の影へ視線を移す。どこにも輪郭はない。声の再生も、今のところは止んでいる。


 それでも、彼は首を横には振らなかった。


「消えたんじゃない」


 短く言う。


「退いただけだ」


 言い切り方に迷いはなかった。楽観を入れる余地が最初からない声だった。


 紗希は、ビニール袋の口を指先で少しだけ摘まむ。

 血の薄茶色に変わった染みが、光の弱い教室の中でもはっきり見えた。洗った形跡はある。だが、誤魔化し切れてはいない。恭介が雑に水へ通して、雑に忍ばせた結果だと一目で分かる汚れ方だった。


「血を嫌がってました」


 紗希はエプロンを見たまま言った。


 レンは今度、そちらへ視線を落とす。


「そう見えた」


「だったら」


 紗希はそこで言葉を切る。

 “弱点”という言葉を口にしかけて、飲み込んだのだろう。自分でも、それを今ここで確定させてしまうのが早いと分かっている顔だった。


 レンが、その続きを拾う。


「効くと決めつけるのはまだ早い」


 紗希は小さく息を吐く。

 反論ではない。確認だった。


「……ですよね」


 ビニール袋の中のエプロンを見つめたまま、紗希は少しだけ眉を寄せる。


「嫌がっただけかもしれない」


「ああ」


 レンは頷く。


「相性が悪い。それ以上は、まだ分からない」


 言いながらも、彼の目は教室の中から離れない。

 いまの現象を、そのまま“弱点発見”で済ませてしまうほど、現場は都合よくできていない。そういう警戒が、その立ち方にも視線の置き方にも出ていた。


 美和が、椅子の上で少しだけ肩を縮める。


「……まだ、いる……?」


 その声は、さっきよりは繋がっていた。けれどやはり掠れていて、喉の奥に薄い膜が残ったままみたいな音だった。


 紗希はすぐにそちらを見る。

 エプロンから手を離し、椅子の位置を少しだけ美和寄りへ戻した。


「今は、ここにいてください」


 “もう大丈夫です”とは言わない。

 言えないのだろう。その代わりに、いま取れる安全だけを静かに差し出す。


 レンも、美和の方へ半歩ぶんだけ意識を寄せた。


「保健室には戻すな」


 紗希が顔を上げる。


「先生側に寄せるのは危ない、ですね」


「少なくとも、進路指導室の線は濃い」


 そこまで言ってから、レンは少しだけ言葉を削るみたいに黙った。

 “志藤が怪しい”と今ここで断定してもいい。そうしようと思えばできる。だが、その断定が早すぎることも分かっている。現場で見たものと、証言で聞いたものは、まだ辛うじて一本にまとまりきっていない。


 紗希がその沈黙を引き取るように、低く言った。


「志藤先生、ですよね」


 レンは、すぐには頷かない。


「名前だけで決めるな」


 その言い方は冷たいのではなく、慎重だった。


「進路指導室、“ひな”って呼び名、女の子みたいなもの。線は揃ってる」


「でも、答え合わせにはまだ足りない」


 紗希は小さく頷く。


「はい」


 返事は短い。

 そのかわり、視線はまた教室の中へ戻っていく。窓。扉。床の影。反射のある場所。さっきと同じように、ただ見ているのではなく、何かが“また来る”前提で観測している目だった。


 教室は静かだ。

 あまりに静かで、さっきまで同じ顔の少女たちがわらわらと滲んでいたのが、嘘みたいに思えるほどだった。


 けれど、その静けさは薄い。

 指で触れたら破れそうなくらい、頼りない。


 レンはその薄さを測るみたいに、もう一度だけ扉の小窓へ目をやった。

 そこには今のところ、何も映っていない。

 何もいない、とはまだ言えなかった。


 怪異の気配がいったん遠のいたあとも、美和の呼吸はすぐには整わなかった。


 椅子の背にもたれきれないまま、胸の上の方だけで浅く息をしている。さっきよりは空気が入っている。けれど、ひと呼吸ごとに喉のどこかへ薄い膜が引っかかっているみたいな苦しさが、まだ声の底に残っていた。


 美和はしばらく膝の上を見ていたが、やがて小さく顔を上げた。


「……ありがとうございます」


 掠れた声だった。けれど、さっきまでの“言葉の形にならない息”ではない。ちゃんと礼の意味を持った声になっていた。


「私、もう少しで……」


 そこまで言って、口が止まる。


 何を言いかけたのかは、最後まで言葉にならなかった。息が奪われかけていた、と言いたいのかもしれないし、自分でも何が起きていたのか整理しきれていないのかもしれない。どちらにせよ、その先を無理に言わせる必要はなかった。


 紗希は美和のそばに立ったまま、穏やかに首を振る。


「大丈夫です」


 慰めるような強さはない。だが、そのぶん現実に即した落ち着きがあった。


「今は、ちゃんと離れましょう」


 美和はその言葉に、小さく頷いた。


 レンは扉の向こうと教室内の反射面を一度だけ見てから、ようやく美和へ向き直る。そこまでずっと現場の空気を読んでいた目から、ほんの少しだけ力を抜いた。


「まあ、あとは俺に任せて」


 口調だけは、わざと軽い。


「こう見えても、腕利きで通ってるから。ね?」


 言ってから、口元だけ少し笑う。芝居がかっているといえばそうだった。けれど、いま必要なのは正確さより安心の方だと、本人も分かっている顔だった。


 美和は一瞬、目を瞬かせる。


 さっきまで強張っていた表情のどこかが、かすかにほどけた。張りつめていた糸が一本だけ緩んだような、そんな顔だった。


「……はい」


 それから、紗希の方を見る。


「さ、紗希も……行くの?」


 紗希は小さく笑う。


「行きますよ」


 美和は少し迷ってから、もう一度だけ聞く。


「どうして……」


 紗希は肩をすくめるみたいにして答える。


「伊達酔興できてるだけですよ」


 そこで少しだけ間を置く。


「……そういうことにしておきませんか」


 美和は、それ以上は聞かなかった。聞けなかったのかもしれない。けれど、その返答で十分だった。


 いったんこの場から外す。少なくとも、怪異がまた出た時に真っ先に巻き込まれる位置には置かない。レンと紗希のあいだには、もうそういう判断ができていた。


 美和が教室の外へ出る時、何度も振り返ることはなかった。振り返ったら、また戻ってきてしまう気がしたのかもしれない。ただ、扉をまたぐ瞬間だけ足が少し止まり、それでもちゃんと前へ進んだ。


 その背が見えなくなるまで、紗希は黙って見送る。


 レンも、軽い口調のまま手を上げていたが、美和の姿が廊下の先へ消えると、その表情からするりと力が抜けた。


 笑っていた口元が、何でもなかったみたいに閉じる。


「……やけに、すんなり帰せたな」


 低く落ちた声は、さっきまでの軽さとは別物だった。


 紗希が振り向く。


「何がですか」


 レンは扉の向こう、美和が消えた廊下の先を見たまま言う。


「少なくとも、美和ちゃんはターゲットだったはずだ」


 その言い方には、現場の人間の引っかかりがある。うまく行ったこと自体を喜べない種類の勘だった。


「なのに、引き際が妙にあっさりしてる」


 紗希は目を細める。


 言われてみれば、その通りだった。あれだけ執拗に口を狙っていた怪異が、いまは拍子抜けするほど引いている。

 血の反応があったとはいえ、それだけで狙いそのものを諦めるような退き方だったかと言われると、たしかに違和感が残る。


 レンは続ける。


「口を奪うって行為そのものも、中途半端に止まった」


 紗希は少しだけ考えてから言う。


「……途中で、興味を失ったとかじゃないですよね」


 レンは首を横に振る。


「そういう終わり方には見えない」


 一拍だけ、間が空く。


 その間に、教室の窓の外で風が弱く鳴った。どこか遠くで部活の掛け声も聞こえる。学校は相変わらず平日の放課後を続けているのに、この空き教室だけがそこから半歩ずれていた。


 レンは、扉の小窓と窓ガラスの両方を視界に入れながら、低く言った。


「むしろ」


 そこで言葉を切る。


「狙いを変えたように見える」


 紗希の喉が、わずかに動いた。


 その言葉の意味を、二人とも言い換えなくても分かってしまったからだ。


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