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1章・12話

 廊下は、放課後の終わり際らしい薄いざわめきを、もうほとんど失っていた。


 遠くではまだ運動部の声が響いている。階段の下の方から、誰かが走り抜ける靴音もたまに混じる。だが、それもこの辺りまで来ると薄く、壁一枚二枚を隔てた向こう側の出来事にしか聞こえなかった。


 空き教室の扉は閉まっている。


 小窓はある。だが、真正面から立てば中の人間に気づかれる。だから志藤は、そこにはいなかった。


 教室の並びから少しずれた、掲示板の張り出しと柱の影。そのあいだに体を寄せて、廊下の角度とガラスの反射だけで様子を拾っている。姿勢は不自然じゃない。用事のついでに立ち止まっている教師にも見える位置だ。だが視線だけは、ずっとあの空き教室にかかっていた。


「……灯紗希が来るとはな」


 ひどく小さく呟く。


 驚き、というほどではない。だが歓迎もしていない。想定していた“被害生徒の経過観察”の中へ、余計なものが入り込んできた時の苛立ちが、そのまま声になった。


 しかも一人ではない。


 志藤は、閉じた扉を見たまま眉を寄せる。


「しかも、男まで連れて」


 口調には露骨な棘が混じる。


 あの少女――灯紗希は、学校の中ではどこか静かな生徒だった。明るく振る舞ってはいるが、あくまで一定の距離を保つ。人の話は聞くし、笑いもする。だが、誰かへ深く踏み込む前に、必ず一度止まるようなところがあった。


 そういう子だと思っていた。


 それが今日は、見慣れない男を連れて、被害生徒のところまで入り込んでいる。


「随分と熱心に嗅ぎまわるじゃないか」


 扉の向こうでは、声が細く漏れていた。


 灯紗希の声は、やはり聞き取りやすい。柔らかいのに輪郭がある。無駄に騒がず、相手を急かさず、それでいて言葉が溶けない。記録に向いている声だと、改めて思う。


 だが今は、その声が気に障る。


 自分の管理下にあるはずのものへ、勝手に指を差し込まれている気がした。


「……そういう子だったとは。残念だよ」


 失望した恋人みたいな言い方だった。もちろん、そんな関係ではない。だが志藤の中では、その程度の飛躍はもう飛躍ですらないのだろう。


 扉の向こうで、別の声が混じる。


 男の声だった。低い。抑えている。だがただ静かなだけじゃない。必要なことだけを残して削ったような声音だ。


 志藤の表情が、そこで初めて少し変わった。


 灯紗希だけを見ていた視線が、扉そのものへと寄る。中の男の輪郭を、ガラスの映り込みと漏れた音だけで測ろうとする目になった。


「……いや」


 独り言が、わずかに低くなる。


「待てよ」


 教師の立場で生徒に付き添う大人、というだけなら、もう少し匂いが違うはずだった。保護者ならもっと不用意だ。教員なら、学校の中でああいう間合いは取らない。なのにあの男は、扉の向こうで無駄に近づかず、けれどいつでも動ける位置を崩していない。


 気配を殺しているわけではない。殺せていない、と言った方が近い。だが、殺せていないのに不用意でもない。そういう立ち方だった。


 志藤は目を細める。


「あの男……何だ?」


 記憶の底に、別の声が引っかかった。


 あまり思い出したくない種類の声だ。こちらの事情を知っているようでいて、何もかもを見透かした顔で、余計な助言だけを残していく男の声。


 “彼”が、そんな話をしていたことがあった。


 時々いる。妙に鼻の利く連中が。見えてはいなくても、辿ってくる。学校や街や家ではなく、もっと別の流れに沿って。


「……ああ」


 志藤は納得しかけて、すぐにまた不快そうに口を歪めた。


「そういう手合いか」


 組織の名がどうとか、肩書きが何だとか、そこまで正確に覚えているわけではない。そもそも興味もなかった。ただ、“面倒なものが来ることがある”というその一点だけは、妙に耳に残っていた。


 なら、確かめた方がいい。


 あれがただの大人ではないのなら。

 灯紗希が本気でこちらへ手を伸ばし始めているのなら。


 このまま黙って見ている理由はない。


「なら、まずは一つ」


 志藤は、柱の影から半歩だけ位置をずらした。


 扉に直接近づくわけではない。近づかなくてもいい。声も、影も、もう十分そこにある。必要なのは距離じゃない。きっかけだ。


「確かめよう」


 唇だけが笑う。


 目は笑っていない。教師のものでも、父親のものでもない。自分の記録棚へ手をかけられた人間が見せる、狭く湿った敵意だった。


「男の口はいらないが……」


 廊下の薄暗がりに、ひどく静かな声が落ちる。


「ご退場願おうか」


 その言葉と一緒に、空き教室の扉の下へ落ちている影が、ほんのわずかに揺れた。


  教室の静けさが、もう元には戻らなかった。


 扉の向こうにはまだ放課後のざわめきが残っているはずなのに、そこへ別の気配が一枚だけ重なったみたいに、空気の薄さだけが教室の中へ残っている。


 美和は椅子の上で膝を寄せたまま、もう扉の方を見なかった。見ないようにしているのが分かる顔だった。紗希はその横顔を見ている。レンは机の角に預けていた体を、ほんの少しだけ起こしたままだった。


 その時、教室の蛍光灯が、じ、と短く鳴った。


 白い光が一瞬だけ強くなり、次の瞬間には、ひどく中途半端な明るさに落ちた。消えたというより、薄くなった。机も、窓も、黒板も見える。だが色だけが一枚削がれて、影の方が少し前へ出てきたみたいな暗さだった。


 美和の肩が、びくりと跳ねる。


 紗希はすぐにそちらを見る。レンも、教室の外側に向けていた意識を切り戻した。


 その瞬間、美和の声がした。


「……先生に、呼ばれて」


 けれど、美和の口は動いていなかった。


 声は教室の奥からでも、扉のそばからでもない。もっと近い。椅子の足元あたり。床に落ちた影の縁から、音だけが浮かび上がったみたいな位置だった。


 美和の顔が一気に白くなる。


「ち、違……」


 うまく繋がらない呼吸のまま、首だけを振る。


「今の、私じゃ……」


 その否定を遮るみたいに、また別の声が重なった。


「……聞いたんです」


 今度は少し高い。けれど、それもやはり美和の口からではない。数拍遅れて再生された録音みたいに、さっきの証言の断片が教室の別の位置から返ってくる。


 紗希の喉元がわずかに強張る。


 美和が椅子の背にぶつかるように身を引いた。口元へ手が上がる。指先が震えている。


「違う……私、話してない……!」


 レンの声が、短く鋭く落ちた。


「下がって」


 誰に向けたのかは、半分ずつだった。紗希にも、美和にも、そして自分にも。


 声のした位置を追うと、床に落ちた椅子の影が、わずかに揺れていた。風ではない。光が落ちただけでもない。影の縁だけが、黒い水面みたいにぬめっている。


 その中から、何かが立ち上がる。


 最初に見えたのは、輪郭だった。小柄な肩。細い首。髪のような黒い塊。遠目には、たしかに少女に見える。だが、形が定まるにつれて、おかしさが前へ出てきた。


 顔の下半分だけが、生々しい。


 口が、一つじゃない。


 薄い唇。切れた口角。少しだけ歯の覗く口。乾いたまま閉じきらない唇。いくつもの口が、少女の顔の下半分に無理やり押し込められて、互いに少しずつずれたまま重なっている。

 ひとつが息を吐けば、別のひとつが言葉の形を真似ようとする。まともに声帯を持っていないくせに、口の形だけで喋ろうとしているみたいだった。


 “ひな”の端末は、最初に美和を見た。


 覗き込むように、じっと。


 少女めいた仕草。子供の距離感。けれど、その視線の先にあるのは心配でも好奇心でもない。すでに奪ったものの具合を確かめるみたいな、いやな丁寧さだった。


 次の瞬間、その顔がゆっくりと横へ向く。


 紗希の口元へ。


 紗希は椅子から半歩ぶんだけ体を引いた。声は出さない。だが、視線だけは逸らさない。


 端末が跳んだ。


 歩いたのではない。這ったのでもない。影が一枚、床から剥がれてそのまま前へ滑ったみたいな速さだった。


「下がれ!」


 レンが割って入る。


 その腕の動きと同時に、何もなかった空間から斧が現れた。


 黒い、というほど色はない。むしろ輪郭だけが先に見える。影を濃く削って作ったみたいな刃だった。柄は短く、片手で振り切れる。だが、出現した瞬間だけ教室の空気がぴんと張る。そこにあると認識したものの距離感が、急にひとつだけ正確になる感じだった。


 レンは迷わなかった。


 踏み込みは小さい。大きく振りかぶりもしない。最短で、少女の口元を横から薙ぐ。


 斧が端末に触れた瞬間、複数の口がいっせいに開いた。


 声にはならない。だが、開いた口の数だけ空気が震えて、耳の奥へ不快な擦過音だけが刺さる。


 そのまま、端末の輪郭が斜めにずれた。


 切れた。


 黒い影が、二つに割れて床へ落ちる。


 同時に、美和が大きく息を吸い込んだ。


「……っ、ぁ……」


 さっきまで喉の手前で引っかかっていた空気が、ようやく肺まで届いたみたいな呼吸だった。口元を押さえていた手が落ちる。唇の位置を探る指先も、さっきよりは迷わない。


 紗希が思わずそちらを見る。


「戻った……?」


 レンはまだ斧を手放さない。目は端末の断面と、美和の呼吸と、その両方を見ていた。


「切れただけだ。安心するな」


 その声の直後、床に落ちた二つの影が、ぶるりと震えた。


 終わっていない。


 切れた輪郭の端から、さっきまでなかった声が漏れる。


「先生に、呼ばれて」


 今度は別の声色だった。少し低い。さっきの美和のものとも違う。


 レンが舌打ちを飲み込むより早く、教室の窓際の影が揺れた。つづいて机の下。扉の小窓に映った暗がり。黒板の脇。床へ落ちた椅子の影。


 同じ顔が、増える。


 少女の輪郭は同じだ。髪の長さも、首の細さも、肩の形もほとんど同じ。なのに、口だけが違う。どの個体も下半分に別々の口を抱えていて、そのせいで声も全部違う。


「……聞いたんです」


 ひとつが言う。掠れた若い女の声。


「見張られてる気がして」


 別のひとつが言う。少し高い、怯えた声。


「先生に、呼ばれて」


 また別のひとつ。今度はやや低く、乾いた声。


 同じ顔が、違う声を喋る。


 それも一つ二つじゃない。机の影、窓の反射、扉の脇、教卓の裏。気づけば教室のあちこちに、少女の輪郭だけが滲んでいた。最初からそこに散っていたのが、レンの斧でひとつ切れたことをきっかけに、いっせいに浮き上がってきたみたいだった。


 紗希の声が、わずかに低くなる。


「……増えてる」


 レンは斧を構え直したまま、目だけで左右を測る。


「違う」


 短く返す。


「最初から散ってたのか」


 一体なら断てる。だが、この数を教室の中で一気に捌くのはきつい。しかも背後には美和がいて、紗希もいる。


 “ひな”たちは、一斉には来ない。そこが余計に不気味だった。少しずつ距離を詰める。声をばらばらに再生しながら、こちらの口元だけを見ている。新しい口を選んでいるみたいだった。


 紗希が、美和の前へ半歩入る。


 その動きで、椅子の脚元に置いてあった鞄が脚にぶつかった。


 がさり、と鈍い音がして、口の開ききっていなかった鞄からビニール袋が半分飛び出す。中に押し込まれていた布が、ずるりと見えた。


 生成り色のエプロンだった。


 胸元のところに、乱暴に折られたメモが二枚、まとめて貼りついている。


 紗希の眉がぴくりと動く。


「……先輩のやらかした、あのエプロン」


 レンが視線だけを落とす。


「何だそれ」


 紗希は反射的にビニール袋を引き抜きかけて、そこで動きを止めた。


「えっ」


 声の調子が、今までと少しだけずれる。


「何で入ってるんですか、これ」


 レンが半眼になる。


「いや、知らなかったのかよ」


「知るわけないでしょう」


 紗希はそう返しながら、貼りついたメモを読む。


「“洗ったから許してくれ”」


 そこで一拍止まる。もう一枚に目を落とす。


「“気に入らなかったら捨てといてくれ。親父さんにバレるとまずい”……」


 レンが、思わずという感じで低く突っ込んだ。


「忍ばせるなよ」


 紗希は呆れたように息を吐く。


「本当に、何をしてるんですかあの人は」


 返しながら、自分でも半分呆れている声だった。


 だが、そのビニールの隙間から覗いた布には、まだ色が残っていた。洗った形跡はある。雑に水へ通したのだろう。だが、血は全然落ちていない。薄茶に変わった染みが、布目の中に汚く残っている。






 その瞬間だった。


 いちばん近くまで寄っていた“ひな”の一体が、ぴたりと止まった。


 口だけが、ざわつく。


 近づこうとしていた輪郭が、一拍遅れて引く。


 別の一体も、窓際でぶれた。さらに奥の一体は、声の再生を途中で途切れさせる。


「……先生に、……」


 音がちぎれる。


 教室中に散っていた同じ顔が、一斉に乱れ始めた。輪郭が崩れる。口の位置がずれる。何か強い臭いを嗅がされた動物みたいに、近寄れないまま距離だけを取ろうとする。


 レンの目が細くなる。


「……血か?」


 紗希もそれを見る。


 ただ退いたのではない。嫌がっている。露骨に、というほど分かりやすくはないが、それでも明らかに反応が変わっていた。


「嫌がってますね」


 “ひな”たちは、それ以上前へ出られなかった。


 声の再生がばらばらに軋み、同じ顔のまま、影や反射の中へ少しずつ沈んでいく。窓の黒ずみ、机の下の暗がり、扉の小窓の薄い映り込み。現れた時とは逆に、輪郭の方からほどけていった。


 最後にひとつだけ残った口が、息みたいな音を漏らす。


「……見張られてる、気がして」


 それもすぐに途切れた。


 教室の中に、また静けさが戻る。けれど、最初の静けさとは違う。


 レンは斧を消さないまま、ビニール袋から覗くエプロンを見ていた。紗希も、そこへ視線を落としたまま言う。


「弱点、なんでしょうか」


 レンはすぐには頷かない。


「まだ分からない」


 そう言ってから、ようやく斧の輪郭が薄れる。影がほどけるみたいに、手元から消えていった。


「でも、相性は悪いらしい」


 その言葉のあと、美和の浅い呼吸だけが、教室の真ん中で細く続いていた。

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