第5話 マリーのバカァー
空飛ぶ船はゆっくりと、そして高く高く上がってゆく。
窓の外では、さっきまで僕たちの足元にあった森が、少しずつ遠ざかっていく。木々は緑色の絨毯のようになり、やがて川や海まで見えるようになった。僕たちの集落は、もうどこにあるのか分からない。
空を飛んだことなんてない。でも、鳥たちはいつもこんな景色を見ているのだろう。
僕は何度も「すごい、すごい」と声を上げたけど、隣に座るマリーは、ずっと窓の外を見つめていた。いつもなら大騒ぎしているはずなのに、今は何も言わない。時々、後ろにいるカロンの様子を気にしているようだった。
しばらくして、アティの声が響いた。
<30秒後にマカパ軌道施設汎用ゲート7に到着します。少し揺れますのでご注意ください>
やがて、目の前に神の塔が迫ってきた。空に向かって伸びる巨大な神の塔に近づくにつれて、その大きさが分からなくなっていく。壁にはいくつもの窓や通路のようなものがあり、ところどころに黒い穴が開いていた。
空飛ぶ船は塔の側面に沿って進み、やがて大きな穴の一つに吸い込まれるように入っていった。
少し揺れたあと、船は静かに止まった。
窓の外には、見たこともない文字が壁いっぱいに書かれていた。その向こうには、どこまでも続いているような広い空間が広がっていた。
船の振動が止まると、最初に口を開いたのはマリーだった。
「どこに運べばいい?」
その声に反応したのか、目の前のガラス板にきれいな絵、運ぶ先を示す文字の案内が浮かび上がった。
いくつか並んだ絵の一つには、丸い車輪の付いた台に人を乗せて運んでいる様子が描かれていた。
それを見てマリーが困ったような顔をして口を開いた。
「字が読めないの」
マリーは字を読めなかったが、僕は何となくわかる。
簡単な文字だけだけど、小さい時からおじいさんの所で字を習っていた。
ENTRANCEというのは出口か入口か、どっちかだ。そうだった気がする。
「THIS WAY TO THE ENTRANCEって書いてある。この絵の運ぶ道具で、ここまで行けばいいんだよ! マリー、探しに行こう」
僕たちが船を降りようとしたとき、アティの声がそれを制した。
<お待ちください。現在、この施設では最低限の機能しか稼働していません。表示された運搬装置も使用できない可能性があります。現在、起動できるか確認しています>
マリーが言った。
「じゃあ、天使の羽は? あの空を飛べるやつ」
<パーソナル・フライト・ユニットの安全運航規定により、操縦者が発熱その他の理由で正常な操縦ができないおそれがある場合、使用は認められていません>
よく分からないけど、使えないようだ、マリーは悔しそうにカロンを見ていた。
<これより生活・一般・汎用型の医療AIに権限を引き継ぎます。以後は、そちらの指示に従ってください>
少し間があって、アティとは少し違う声が聞こえてきた。
<状況を確認しています>
<成人男性1名。発熱状態の患者と認識しました。搬送優先度Aに設定します>
<小児2名。うち1名に顔面および右大腿部の裂傷と出血を認めます。搬送優先度Bに設定します>
<患者搬送用の自動ストレッチャーは運用を停止しています。医療カプセルを起動しました。受け入れ態勢は確立されています>
<患者搬送のための方法が見つかりません>
マリーがイライラしながら口を開いた。
「私たちで運ぶわ。どこに行ったらいいの? 早くして!」
<搬送方法について確認中です>
<確認しました。指示に従って行動してください>
そう言うと、ガラス板に絵が表示された。布を広げたその上にカロンを乗せて、二人で引っ張る絵だった。
それを見るや否や、マリーはカロンの頭の下の布を持ち上げながら、僕に大声で言った。
「ルーカス、足の方を持ちなさい!」
二人で声を掛け合いながら、カロンをベッドから床へと降ろす。カロンは少しうめき声を上げたけれど、目を覚ますことはなかった。
僕たちは毛布の端をつかみ、ゆっくりと引き始めた。思っていたよりずっと重い。床に毛布が擦れる音が、静かな部屋に響いていた。
建物の中は薄暗かったけれど、所々に黄色い光が続いていた。
僕たちはその光をたどって進み、やがて行き止まりに着いた。
そこには扉があったけれど、僕たちには開け方が分からなかった。
「ねえ、ここなの? ここからどうしたらいいの? ここを開けて、早く!」
マリーがドンドンと扉を叩くがびくともしない。
<現在、エレベーターは機能停止中です。左側の階段を利用して4フロア上がってください>
「上がればいいのね。ルー、左、左ってどっち?」
「こっちだけど……もしかして、これ?」
見覚えのある緑色の扉だった。ちょうど取っ手が付いている。下に引っ張って扉を開けると、あのきれいに並んだ石の階段が現れた。
ここだ。遺跡で見たやつだ。ここから上がるんだ。床には数字が書いてある。
「ルー、どうやって上に上げる?」
マリーがぽつりと言って、僕ははっとした。
たぶん、今の方法では僕たちだけでは無理だ。重すぎる。
4フロアって言っていた。4つだ。階段の隙間から上を見上げると、ずっと上まで続いているようだった。
僕には、これ以上どうしていいのかわからなかった。二人でここまで引きずってくるだけでも大変だったのだ。
しばらく二人でどうしようかと考えていたが、マリーが静かに言ったんだ。
「私が運ぶ!」
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「ぐおおおおぅぅぅぉぉぉぉぉぉ!」
マリーは今まで聞いたこともないようなうめき声を上げながら、カロンを背負って階段を上がっていた。
僕は、もし階段から落ちてきたら受け止める役だと言われて、布を持って後ろを静かに付いていく。でも、二人が本当に落ちてきたら、僕は多分ぺしゃんこだ。
それにしても、マリーがこんなに力持ちだったとは思わなかった。
足には血管が浮かび、一段上がるたびに「ぐうっ」とか「ううっ」とか、獣のような声を上げている。
そしてとうとう、マリーは4フロア分の階段を登り切ったんだ。
「ちょっと休もうよ」
僕がそう言うと、マリーはフラフラになりながら僕をひっぱたいた。
「いいからそっちを持ちなさい! 叩くわよ!」
その後、僕たちはフラフラになりながら、透明な入れ物の中にカロンを寝かせた。
もう一人の女神さまに言われるまま、細い紐のようなものや手に巻く布のようなものを何本もカロンの身体につないでいく。
マリーはその間、ずっと床に寝転がって目を見開いたまま、ふぅふぅと息をしていた。
<患者固定が完了しました。カプセルを閉鎖します。操作を行った方は離れてください>
透明な筒の蓋が閉じると、機械は静かな音を立て始めた。
僕たちは透明な筒にへばりついて、カロンをずっと見守っていた。すると、カロンが目を開けて何か言ったんだ。
「You two……… So that’s it…」
何を言ったのかは分からなかったけれど、カロンは僕たちを見ていた。
<患者はまだ意識が安定していません。声をかけたり、刺激を与えたりしないでください。安静にする必要があります>
そう言われた直後、カロンはまた目を閉じてしまった。僕たちが慌てて顔を近づけても、もう目を開けることはなかった。
「ねえ、カロンは大丈夫なの?死んじゃったりしないよね?」
マリーが透明な筒に手をついたまま、女神さまに尋ねた。
さっきまであんなに大きな声を出していたのに、今はとても元気のない小さな声だった。
<治療はすでに開始されています。現在、患者の身体の状態を確認しながら、必要な処置を進めています>
「それで、カロンは助かるの?」
マリーがもう一度尋ねた。
<治療を継続します。今は患者の回復を待つことが最も重要です>
女神さまの声は慌てている様子もなかった。だから僕は、きっと大丈夫なんだと思うことにした。
周りを見回すと、僕が今まで見たこともないものがたくさんあった。
壁には小さなガラス板がいくつも埋め込まれていて、その上には知らない文字や絵が浮かんでいる。
天井や机にはいろいろな色の紐が沢山伸びていて、床の端には小さな箱が並んでいた。
魔法の機械があれば、病気になった人もすぐに治せるのだろうか。
もしかしたら僕のお父さんもこれで助かったかもしれないのに・・・
僕がそんなことを考えていると、女神さまがマリーに話しかけた。
<マリーと言いましたね、あなたにも治療が必要です、顔面および右大腿部に裂傷があります。出血は止まっていますが、傷の処置を推奨します>
「私はいいの」
ようやくマリーが答えた。頬の傷にはまだ血がこびりついていたし、太ももの傷もかなりひどそうだった。そういえば、ここまでカロンを運んでくる間も、マリーは自分の怪我のことなんて全然気にしていなかった。
「マリー、顔から血が出てるよ。足だって痛いんじゃないの?」
「私はいいって言ってるでしょ!」
マリーに怒鳴られて、僕は黙ってしまった。いつものマリーなら、こんな傷くらい平気だと言って走り回っているはずなのに、今はカロンから少しも目を離そうとしない。
女神さまは少し間を置いてから、落ち着いた声で説明した。
<患者の治療は順調に進んでいます。現在、必要な処置を継続しています。あなたがそばにいても、治療の進行に影響はありませんが、ご自身の傷も治療することをお勧めします>
「分かったわ。でも、大丈夫だから」
マリーはそう言うと、また透明な筒に向き直った。女神さまはそれ以上は何も言わなかった。
どれくらい時間が過ぎたのだろう。施設の中はずっと明るいままだったので、時間の感覚がよく分からなかった。
部屋から出てうろうろしていると、小さな窓から外が見えた。空はもう暗くなっていた。
お母さんも、おじいさんも、みんなきっと心配しているだろう。
マリーのお母さんは多分泣き叫んでいるような気がする。
「ねえ、マリー。そろそろ帰らない?」
僕が声をかけると、マリーはカロンから目を離さないまま、首を横に振った。
「もう夜だよ。みんな心配してるよ」
ここにいても、僕たちにできることは何もない。
僕たちがそばにいたところで病気が早く治るわけでもない。
「カロンは魔法の機械ですぐに治るよ、僕たちはもう何もできないよ」
「そんなこと分かってるわよ!」
マリーが振り向いて、僕をにらんだ。
「でも、ここで帰ったら、もう二度とカロンに会えないかもしれないじゃない!」
その言葉を聞いて、胸の奥が少し痛くなった。
カロンに会えなくなるかもしれない。それは僕だって嫌だった。助けてもらったし、ここまで一緒に来たんだから、元気になってほしいと思っている。
でも、マリーはずっとカロンのことばかり考えている。僕が話しかけても、カロンの様子を見たまま返事をする。僕だってここにいるのに。
「会えなくなるかもしれないって、そんなの分からないじゃないか。カロンが元気になったら、また会えるかもしれない。だけど、今は帰ろうよ。僕たちがいなくなったら、みんながどれだけ心配すると思ってるんだよ」
「だから、私は帰らないって言ってるでしょ!」
「マリーはいつもそうだ!」
気が付くと、僕は大きな声を出していた。自分でも驚くくらいの声だった。
「いつも勝手にどこかへ行って、僕まで巻き込んで危ないことばかりするじゃないか。ガラス森だってそうだよ。みんなが行くなって言ってるのに勝手に行って、結局こんなことになったんだ!」
マリーは黙って僕を見ていた。僕は止まらなかった。
「お母さんだって、おじいさんだって、みんな心配してるんだよ。マリーのお父さんとお母さんなんか、どんなに心配してると思う? 僕たちが帰らなかったら、またみんなで探しに来るかもしれないんだ。カロンを助けるからって、何をしてもいいわけじゃないよ!」
僕はいままでマリーに対してこんなに怒ったことはなかった。いつも文句を言いながらも、結局はマリーについて行っていた。危ないことをしても、後で怒られても、二人でいれば何とかなると思っていた。でも、今回は違う。
どうしてこんなにイライラするのか自分でも分からなかった。
「もういい。ルーは帰ればいいじゃない、私はここにいるって決めたの!」
マリーは透明な筒に向き直った。まるで、もう僕と話すことなどないと言っているみたいだった。
「そんなにカロンが大事なの?」
僕がそう言うと、マリーは振り向かずに答えた。
「そうよ。なんなら、もうみんなに会えなくても構わないわ!」
僕は何も言えなくなった。
マリーが何を言ったのか、すぐには理解できなかった。村のみんなにも、お母さんにも、もう会えなくてもいい。そんなことを本当に思っているのだろうか。
僕はマリーの後ろ姿を見つめていた。でも、マリーはこちらを振り返らなかった。
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僕はマリーに何も言わず、部屋を出て階段を下りた。
振り返らず、そのままアティに案内されて、空飛ぶ船に戻った。
船の中に入ると、僕は黙って椅子に座った。アティは僕の様子を見ていたのか、静かな声で話しかけてきた。
<ルーカス、心配する必要はありません。マリーは私が責任を持って集落まで送り届けます。それまでの間、あなたたちが連絡を取れるようにする方法も用意します>
僕は何も答えなかった。
船が動き始めると、窓の外に神の塔の施設が見えた。
あそこにマリーがいる。カロンのそばに座って、僕のことなんかもうどうでもいいというように、ずっとカロンを見ているんだろう。
僕は窓の外を見るのをやめて、膝の上で手を握った。
帰り道、僕はずっと下を向いていた。どうしてこんなに悔しいのか、自分でも分からなかった。
マリーに怒ったはずなのに、置いてきてしまったことが悲しかった。あんなことを言わなければよかったと思うのに、今さら戻ることもできない。
気が付くと、僕は泣いていた。
<ルーカス、到着しました>
アティにそう言われて、僕は椅子から立ち上がった。船の出入口に向かいながら、さっきのことを思い出していた。
マリーは一人で大丈夫だろうか。あんなことを言ったけれど、本当は一緒に帰りたかった。
カロンが目を覚ますまで、ずっとあそこにいるつもりなんだろう。眠る場所とか、食べ物だってあるのかどうかすら分からない。
僕は出入口のところで立ち止まった。
「ねえ、アティ」
<はい、ルーカス>
「マリーのことなんだけど……」
どう言えばいいのか分からなくて、僕は少し黙ってしまった。それでも、ここで言わなければいけないと思った。
「マリーをちゃんと村まで連れて帰ってあげて」
<承知しました。私にお任せください。それから、これを持って行ってください>
船の出入口の横にあった小さな入れ物が、音もなく開いた。中から出てきたのは、手のひらより少し大きい、薄くて光る板だった。
「これ、何?」
<通信端末です。これを使えば、ある程度の距離まで離れた相手とも連絡を取ることができます>
僕は光る板を受け取った。こんな小さなもので、離れたところにいるマリーと話ができるなんて信じられなかったけれど、今はそれがとてもありがたかった。
「ありがとう、アティ」
<どういたしまして。気をつけてお帰りください>
僕は船を降りた。ガラス森の奥の広場は暗くて静かだった。
振り返ると、空飛ぶ船は低い音を立てながら静かに浮かび上がり、神の塔の方へ戻っていった。
僕は光る板を大事に抱えて、集落へ向かって歩き始めた。
しばらく歩くと森の向こうから、いくつもの明かりが近づいてきた。たいまつを持った大人たちだった。
「ルーカス!」
誰かが僕の名前を呼んだ。お母さんや村の人たちが、たいまつを振りながら走ってきた。僕を見つけたお母さんは、泣きそうな顔で駆け寄ってきて、いきなり僕の頬を叩いた。
「ああ、ルーカス! ルーカス!私のルーカス、神よ、感謝します」
痛かった。でも、僕は泣かなかった。お母さんに何か言われた気もするけれど、よく覚えていない。
村の人たちに囲まれながら集落まで戻ったけれど、家には行かず、その足でフラフラとマリーの家へ向かった。
黙ってマリーの家に入ると、コスタおばさんは目を真っ赤に泣きはらして、うずくまっていた。
僕は何も言わずに、アティにもらった光る板を差し出した。
コスタおばさんが光る板を受け取ると、板の上にふわりと絵が浮かび上がった。そこには、透明な筒のすぐそばに座っているマリーの姿が映っていた。マリーは膝を抱えるようにして、じっとカロンの眠る筒を見つめていた。
「ああぁ、マリアナ……。マリアナ、どうしたの、マリアナ……」
僕は、カロンという人が病気になったこと、僕たちが空を飛ぶ船で神の塔まで行ったこと、そして神様の魔法でカロンを治してもらっていることを説明した。
「マリーはカロンが治るまで帰らないって、僕が怒っても聞かなかったんだ。コスタおばさん、本当にごめんなさい」
それだけ伝えると、僕はそのまま外に出た。
どうしてマリーはあんなことを言ったんだろう。どうして僕は、あんなことを言ってしまったんだろう。
もう、何もかも嫌になってしまった。
僕は歩きながら、とうとう我慢できなくなって大声で叫んだ。
「マリーのバカー!」
その声は、夜の集落に響いた。
僕は泣いた。さっき船の中で泣いたときよりも、もっと大きな声で泣いた。
「マリーのバカー!」
「マリーのバカー!」
「マリーのバカァーーーー!」




