第2話 子供たちと黒い天使
--我々の祖先は、かつて青い星に住んでいたという。
そこには広大な海があり、陸地には果てしない森が広がっていた。人々は土を耕して食べ物を育て、自らの手で家を建て、町を築いた。空には鳥が翼を広げ、夜には無数の星が瞬いていたという。
風はどこからともなく吹き、雲は大地の上を流れ、海は絶えることなく波を寄せては返す。
そこでは、世界そのものが息づいていたのだろう。
私がその話を聞いたのは、まだ幼い頃だった。
親から聞かされた話もあれば、教育システムを通じて学んだこともある。ひいおばあちゃんから聞いた話も、ほんの少しだけ覚えている。
断片的な記憶と、繰り返し語られる遠い昔の物語。
それらをつなぎ合わせるたび、私の心には、見たこともない世界の姿が少しずつ形作られていった。
高い空。どこまでも続く大地。人の手では造り出せない自然。そして、行こうと思えばどこへでも行ける自由。
私が暮らす場所とは、ずいぶん違っていた。
だから私は、この仕事を希望した。
自分たちの力で暮らしを築き、広い世界を歩き、まだ見ぬ景色を求めて旅をする。風の向こうに何があるのか、自分の目で確かめる。昨日まで知らなかった場所が、今日には自分の知る世界になる。
そんな生き方に、私は憧れていた。
けれど、祖先たちはその世界を失った。
長い年月をかけて築き上げた文明は崩壊し、人々は暮らしを支えるものの多くを失った。かつて当たり前にあったものが消え、昨日まで続いていた日常が、ある日を境に途絶えてしまったという。
海は残った。大地も、空も、森も。
それなのに、人々は自分たちの世界を守れなかった。
どうして、そんなことになったのだろう。
我々よりも不自由で、危険に満ちた世界で生きていた人々が、なぜ自分たちの暮らしを維持できなかったのか。
彼らは、私が想像するほど賢くなかったのだろうか。
それとも、自由というものは、人間が思うほど素晴らしいものではなかったのだろうか。
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地上設備の調査を開始して、すでに2周期近くが経過していた。
調査項目は、地上構造体の損傷状況、テザーの固定設備や基礎構造の状態、昇降システムの復旧見込みなど多岐にわたった。
電力と制御系の大半は停止していたものの、主要構造は十分な強度を保っており、多くの設備は修復や部品交換によって再利用できる可能性があった。
<カロン調査員、予定されていた調査項目はすべて完了しています>
「ありがとう、アティ」
<どういたしまして、カロン>
カロンは調査データを確認し、項目ごとの最終評価をまとめていった。これで主要な調査はひと段落だ。残る確認事項を処理すれば、報告を送信できる。
調査期間中、現地住民との接触はなかった。特に避けていたわけではないが、結果として、予定していた作業を妨げられることなく進めることができた。
ただし、施設内部の調査では、想定していなかった光景に遭遇した。建物の各所に残された、おびただしい数の白骨化した遺体である。
事前の学習データから、文明崩壊時に多くの人命が失われたことは知っていた。しかし、実際にその痕跡を目の当たりにすると、知識として理解していた事実とは受け止め方が違った。
高度な技術を持ち、惑星規模の文明を築き上げた人類が、なぜここまでの状態になってしまったのか。
かつて、この場所にも人々の暮らしがあり、彼らを支える社会や仕組みがあったはずだ。今ではその多くが失われ、残されているのは朽ちた建物と、誰にも看取られることのなかった物言わぬ人々の遺骨だけだった。
施設内外には、現在も人が立ち入っている形跡があった。
前任者が独立電源と自律制御系を残していたおかげで、警備システムの一部は今も稼働状態を維持していた。それがなければ、今回の調査はもっと困難になっていたかもしれない。
今後、施設を再稼働させるには、周辺からの侵入を防ぐ手段を確保する必要がある。現地住民にとっては不本意な措置となるだろうが、施設の管理と安全を維持する以上は、必要に応じて武力による排除も選択肢に含めざるを得なかった。
カロンは最終評価を確認し、調査データを送信した。
十分な事前調査が行われていたことに加え、現地で妨害を受けることもなかった。今回は本当に運が良かった。
調査予定期間は12周期だったが、実際には2周期足らずで完了した。
この惑星の自転周期に換算すれば、予定期間まではまだ150日ほど残っている。予備期間を考慮しても、かなりの余裕ができたことになる。
時間が余れば、追加の調査指令が届く可能性もある。今後予定されている計画には、施設の演算ノードの復旧調査も含まれていたはずだ。
軌道上からの事前報告によれば、現地には産業基盤がほとんど残っていない。そのため、演算ノードを復旧するには、本国から製造設備や精密加工装置、必要な資材を持ち込むだけでなく、それらを稼働させるための電力や冷却設備も整える必要がある。
現地で製造基盤を再構築するとなれば、必要な資源は膨大なものになる。
現状の評価では、現状の資源投入量に対して得られる成果は極めて小さい。少なくとも、今回の調査対象である施設の復旧と並行して進められるような規模ではないだろう。
カロンは小型船の端末を起動し、軌道上の施設との通信状態を確認した。
画面には、船から展開された補助ロボットたちの作業状況が表示されていた。地上設備とは対照的に、宇宙側の施設では復旧作業が順調に進んでいた。
電力系統の復旧も予定より早く進んでいる。内部設備の点検も始まっており、居住区や医療区画の一部はすでに使用可能な状態になっていた。
「思ったより順調だな」
<はい。現在の進捗であれば、予定より早く主要設備の復旧を完了できる見込みです>
「それは助かる。引き続き作業を進めてくれ」
<了解しました>
カロンは端末を閉じ小型船の外へ出た。
ふと空を見上げると、地平線の向こうの大地に夕日が沈みかけていた。
調査に没頭していて気づかなかったが、なんて美しい夕日だろう。
現地の人々に見つからないよう、高いビルの屋上に船を隠していたのが功を奏した。周囲に視界を遮るものは何もない。眼下には広大な河口が広がり、その先に見える海と夕日に染まった空がどこまでも続いていた。
かすかな風が頬を撫でる。遠くから鳥の群れが飛んできて、夕空を横切っていった。
そのとき、少し離れた場所から、建物が崩れる大きな音が響いた。
カロンはそちらに目を向けた。崩壊した文明の名残は、今も少しずつ形を失っている。けれど、その音さえも、この静かな風景の中では不思議と耳障りではなかった。
人の営みが失われたことで、自然は少しずつ本来の姿を取り戻しているのだろう。澄んだ空も、海も、鳥たちも、かつてはもっと違う姿だったのかもしれない。
なぜだろう。
気がつくと、頬を涙が伝っていた。
<カロン? どうしましたか。体調に異常がありますか?>
「いや、そうじゃないと思う」
<では、何か問題が発生しましたか?>
「わからない。わからないけど、ここは美しいんだ。だから涙が出るんだと思う。どうしてなんだろう?」
アティはすぐには答えなかった。
カロンも、それ以上は何も言わず、ただ夕日を眺めていた。
やがて太陽は水平線の向こうへ沈み、空はゆっくりと夕闇に包まれていった。
その夜、カロンは久しぶりに携帯食ではなく、簡単なキャンプ料理を用意した。温かい食事をゆっくりと味わい、後片付けを済ませると、船のそばに寝転がった。
見上げた空には、無数の星が輝いていた。人工の光に邪魔されることのない星空は、これまで見てきたどの映像よりも鮮明だった。
本国はどのあたりだろう。
星の位置からおおよその方向を探ろうとしたが、すぐにやめた。少しホームシックになっているのかもしれない。そう思ったが、どうもそれだけではない気がした。
この星はいい。
不便なことは多いし、失われたものも数えきれない。それでも、不思議と帰りたいとは思わなかった。
自分が暮らしていた場所は、こんなに静かではなかった。いつも何かが動き、誰かが話し、さまざまな音に囲まれていた。それが当たり前だと思っていた。
カロンは星空を眺めながら、しばらくその静けさを楽しんでいた。
そのときだった。
どこからか、小さな泣き声が聞こえてきた。
「BUÁÁÁÁÁÁÁÁ!」
「UÉÉÉÉÉÉÉÉÉ!」
「MAMÃÃÃÃÃE!」
「ALGUÉÉÉÉM!」
「AAAAAAAH!」
「SOCORROOOOO! MAMÃE, ME AJUDAAAAA!」
カロンは上体を起こした。
……どうやら、この星の静かな夜は終わったらしい。
「アティ、えっと……なんて言ってる?」
<助けを求めているようです。少し前から音声をトレースしています>
「どの辺り?」
<現在地から方位角15度、距離328メートル、標高192メートルです>
カロンは端末を開き、アティが示した位置を確認した。
少し先にある高層建築のようだ。まあ、そのうち泣き止むだろう。
しかし、いつまで経っても泣き声は止まなかった。泣き止むどころか、ますます大きくなっているようにさえ聞こえる。
「……アティ、調査ドローンを飛ばして、様子を確認してくれないか。ステルスモードで頼む」
<了解しました>
しばらくして、ドローンから送られてきた映像には、高層建築の上部で身動きが取れなくなっている子供たちの姿が映っていた。どうやら、自力で降りられなくなって助けを求めているらしい。
「なんで、あんなところに登ったんだ?」
<理由は不明です>
「まあ、そのうち自分で降りるだろう」
<カロン、現地住民がパーソナル・フライトユニットを所有している可能性は極めて低いです。まして、子供が使用できる装備ではありません。飛行資格も必要です>
「……それもそうだった」
カロンはもう一度、ドローンの映像を確認した。子供たちは相変わらず、そこから動けずにいる。
「じゃあ、このまま一晩中泣き続けるのか?」
<その可能性はあります>
カロンは小さく息を吐いた。
「そもそも、降りられない場所にどうして登ったんだ? 理解できない」
小型船を移動させれば目立ってしまうし、現地住民に見られるわけにもいかない。
カロンは装備を取り出し、パーソナル・フライトユニットを装着した。
「アティ、サポート頼む」
<了解しました>
カロンは屋上の端まで歩き、PFUを起動して静かに宙へ浮かび上がった。
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「ママァーーーーーーーー!」
「ママァーーーーーーーー!」
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーママァーーーーーーーー!」
マリーはありったけの声で泣き続けていた。
帰ろうとしたとき、突然、階段が崩れた。二人は高い遺跡の上に取り残され、降りられなくなってしまったのだ。
最初は別の場所から降りようと、あちこち探し回った。しかし、どこにも下へ降りられそうな場所は見つからなかった。
そのうち、ルーカスがシクシクと泣き始めた。
マリーは強がって、必死にルーカスをなだめた。
「大丈夫よ、ルー。みんなが探しに来てくれるから。大丈夫」
そう言って、ルーカスを励まし続けた。
美しい夕日が二人を照らし、やがてあたりは闇に包まれた。
暗くなっても、誰も助けに来ない。
マリーも次第に心細くなっていった。
降りられる場所はない。降りられないということは、助けが来ても、簡単にはここまで登ってこられないということだ。
どう考えても絶望的な状況だった。
自分のわがままで、ルーカスまで巻き込んでしまった。
大好きなパパやママには、もう一生会えないのかもしれない。
そう思った途端、マリーの中で何かが切れた。
マリーは大声で泣き始めた。
マリーの大音響の泣き声が響く中、ルーカスは膝を抱えたまま、うつむいていた。
もう泣く気力も残っていなかった。もう帰れない。そう思うと、何も考えられなくなっていた。
そのとき、かすかに高い音が聞こえた。
<キーン……>
耳の奥に響くような、細く高い音だった。
ルーカスは顔を上げた。マリーの泣き声に混じって、確かに何かが聞こえる。
<キュイィィィィー……。>
音は少しずつ大きくなっていた。
空を見上げると、暗闇の中に二本の光の筋が見えた。
細く伸びた光は、夜空に白い軌跡を描きながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。まるで、空から何かが降りてくるようだった。
ルーカスは目を凝らした。
光の間に、何か黒いものが見える。
最初は、光に照らされた建物の一部かと思った。けれど、それは建物のように動かないものではなかった。二本の光と一緒に、少しずつ大きくなりながら近づいてくる。
黒い影は、光の間で形を変えた。
左右に広がった光の根元に、細長い胴体のようなものがある。さらにその下には、二本の足らしきものが見えた。
人だ。そう気づいたとき、ルーカスは息を止めた。人のようなものが、空を飛んでいる!
「ぁぁぁぁぁぁあああああああ!!」
ルーカスは悲鳴とも叫びともつかない大声を上げた。
突然の大声に、それまで泣き続けていたマリーが泣き止み、ルーカスの方を振り向いた。
ルーカスは何かにおびえるように、空中を見たまま叫んでいた。
その視線の先を追ったマリーは、言葉を失った。
黒い悪魔が浮かんでいた。
悪魔は甲高い音を立てながらゆっくりと降りてくる。そして、二人の目の前に着地すると、突然まばゆい光を放って周囲を照らした。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーー!」
「ひいいいいーーーーーーーーーー!」
二人はその光から逃げるように、建物の端へ這っていった。
もう後ろには逃げられない。
ルーカスは必死にマリーにしがみついて叫び続けた。
「マリー! マリー! 悪魔だー! 悪魔がー! あああああ!」
マリーは床に転がっていた瓦礫をつかむと、次々に投げつけながら必死に叫んだ。
「ごめんなさい! もう悪いことしません! おうちに帰してぇぇぇ!」
しかし、悪魔は動かなかった。
しばらくすると、細い翼のような光が消え、周囲を照らしていた強い光も収まった。
黒い悪魔は、二つの異なる声色で話し始めた。
「I came to help you. Can you understand me?」
<They probably don't understand you. You're speaking a different language.>
マリーとルーは抱き合ったまま、ブルブルと震えていた。
恐怖で固まった二人は、言葉にならない泣き声を漏らし続けている。
黒い悪魔が少し動くと、二人はさらに後ろへ下がった。
<Charon, they're moving toward the edge. Another step and they could fall.>
(カロン、彼らが端へ移動しています。もう一歩下がれば落下する危険があります)
「I can see that. What should I do?」
(分かっている。それで、どうすればいい?)
<Please don't scare them.>
(怖がらせないようにしてください)
「I am!」
(やってるさ!)
そのすぐ後ろには、もう足場がない。
あと何センチか下がれば、二人とも奈落の底へ落ちてしまう。
「ママァー! ママァー!」
「もう悪いことはしません! ごめんなさいー!」
「神様、助けてぇぇぇー!」
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『何か変だ……』
そう思って最初に泣き止んだのは、ルーカスだった。
「マリー、マリー、落ち着いて。あれは悪魔じゃないよ。悪魔だったら、僕たちはもう食べられてるよ」
しかし、マリーはうわごとのように同じ言葉を繰り返していた。
「もう悪いことはしません!」
「イタズラもしません!」
「いい子にします!」
「言うことを聞きます!」
「もうわがまま言いません!」
「もう二度とここには来ません!」
「ルーにも意地悪しません!」
どれだけ悪いことをしてきたんだろう。ルーカスはそんなことを思いながら、もう一度マリーに優しく声をかけた。
「マリー、あれは悪魔じゃないよ。空から来たんだ。神様かもしれない」
その時、黒い悪魔は女の人の声で話し始めた。
<言葉は分かりますか? それ以上下がると危ないです。こちらへ来てください>
見た目は黒い悪魔なのに、その声は女性のものだった。しかも、悪魔自身が喋っているようには聞こえない。どこから聞こえてくるのかも分からない、不思議な声だった。
あれは悪魔じゃない。空を飛んでいる。背中には羽のような光もある。
きっと天使だ。神様が自分たちを助けるために遣わしてくれた天使なのだと、その時ルーカスは理解した。
「マリー、大丈夫だ。あれは天使様だ」
そう言うと、ルーカスは必死に止めるマリーを置いて、スタスタとカロンに近づいていった。
「ルー、待って! ダメよ、ルー!」
やがてルーカスはカロンの目の前まで来ると、祈るようにひざまずき、神への感謝を口にした。
すると、再びあの女性の声が聞こえてきた。
<この人はただの調査員で、祈りの対象ではありませんよ?>
「What is this kid doing?」
(こいつなにやってんの?)




