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戌井くんの国家論  作者: nodokara
第三章
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第四章

特区の朝は、完璧な天気予報と共に訪れる。

部屋の壁一面を覆う大画面モニターには、今日の気温、湿度、そして街の最適化率が穏やかなフォントで表示されている。駆はコーヒーを片手に、その無機質な光をぼんやりと眺めていた。モニターの隅、ニュースのティッカーが、いつもと変わらぬ速度で流れていく。

『……供給網の最適化に伴い、昨夜より一部ルートで一時的な通信遅延が発生しております。該当エリアの住人様には、システム調整へのご理解とご協力をお願い申し上げます……』

駆は文字列を目で追う。何の変哲もない、特区では珍しくないシステム調整の告知。だが、彼はふと指先を止め、端末を操作した。昨夜、結衣と歩いたあの路地裏の周辺データが、奇妙なほど滑らかに「再構築」されていることに気づく。

『……なお、居住区第7セクター付近では、メンテナンスの一環として一部街路灯の出力が一時的に低下いたします……』

(第7セクター……昨夜の、あの路地だ)

駆の喉の奥が乾く。昨夜、男たちが立ち去った後、路地裏の風景は街灯の青白い光に照らされていたはずだ。だが、今のモニターには「メンテナンス」という名目で、あの一帯の記録が意図的に欠落していると示唆するようなログが残っている。

「駆様、今日はもう一つ、美味しいお惣菜を探してみましょうか」

キッチンから結衣の明るい声が聞こえる。彼女は昨夜の出来事を、ただの不快な記憶として心の奥に追いやり、日常を取り戻そうとしていた。

駆は画面から目を逸らし、カップの中の黒い液体を見つめた。街のシステムが「何事もなかったかのように」辻褄を合わせている。あまりに洗練された隠蔽工作。昨夜、一人の人間が姿を消したという噂すら、ニュースの波間に消えている。

「そうだな。……今日は、もう少し違うルートを歩いてみようか」

彼は端末を閉じ、ニュースを切り捨てた。彼が手元で操作しているのは、完璧に管理された特区のシステムの一端に過ぎない。だが、その裏側には、血の匂いをデータに変換して消し去る術を知る誰かがいる。

朝食のテーブルには、結衣が意気揚々と買ってきたフルーツゼリーが並べられている。結衣が宝石のように透き通ったそれを掲げて見せる。その瞬間、駆は昨夜の路地裏で聞いた「刃が噛み合う金属音」を幻聴した。カキン、という硬質な響き。鼻腔の奥に鉄錆のような匂いが蘇り、駆の指先がわずかに震える。

「駆様? どうしたんですか、顔色が……」

結衣の心配そうな声に、駆は瞬時に思考を現実に引き戻した。彼は何事もなかったかのように口角を上げ、ゼリーを掬う。

「いや、なんでもない。ただ、今日のゼリーは一段と綺麗だなと思って」

その時、同居人の冴子がコーヒーを啜りながら、ゼリーのスプーンを弄んで言った。

「ねえ、駆。最近の管理委員会、妙に『若年層の健康管理』にうるさいのよね。あなたと結衣のその優秀なサンプル、次世代の『最適化モデル』として、委員会のおじさまたちは子供を欲しがっているんじゃないかしら?」

駆は思わずコーヒーを吹き出しそうになる。結衣は「えっ?」と目を丸くして、落としそうになったスプーンを慌てて握り直した。

「さ、冴子さん……冗談ですよね?」

「どうかしら。子供を作るってことは、二人の『プログラム』と『ハードウェア』で、新しい命という名の『アプリケーション』をビルドするってことでしょ? 響きはいいけど、システムに『収穫』されないように気をつけなさいよ。彼らはあなたたちの遺伝子という名の『コード』しか見ていないわ」

「どういう意味ですか、それ」

駆が問い返すと、結衣は茹で上がったかのように耳まで真っ赤に染め、俯いてしまった。

「うう……駆様……」

駆はようやく比喩の意図を理解し、頭を抱えた。冴子は愉快そうに笑い、結衣の背中をポンポンと叩く。

「ま、照れることはないわ。駆、あなたが子供を持つなら、名前は『イチロー』とか『ジロウ』にでもする? わかりやすい名前がいいでしょう?」

「しませんよ! そんな名前!」

駆のツッコミに、結衣がくすくすと笑い出し、ようやく部屋に穏やかな空気が戻る。外の世界では何かが消え、路地裏では刀が鳴っているかもしれないが、この部屋の中だけは、二人の温かな鼓動と、少しだけ恥ずかしい沈黙が流れていた。

ふと、結衣がゼリーの容器に視線を落としたまま、絞り出すように小さな声で言った。

「……昨日の夜、私、駆様の腕の中で、ここが本当に安全な場所だって思えたんです。だから、その……冴子さんが言ったような、その、ビルド作業……」

結衣は顔を真っ赤にしながらも、意を決したように駆の目を見つめた。

「もし、駆様がよければなんですけど……今夜は、私を駆様の隣に置いてくれませんか? 管理委員会とか、外の怖いニュースとか、全部ログアウトして……二人だけで、……うう……っ、こんなこと、言っちゃダメでしたよね……っ」

駆は心臓が大きく跳ねるのを感じた。結衣の照れ隠しが、さっきの冴子の冗談の比喩を超えて、彼女自身の言葉として駆の胸に刺さった。

「ダメじゃない」

駆は自分の声が、自分でも驚くほど低く響いたことに気づいた。彼は結衣の手をテーブルの下から引き上げ、優しく包み込んだ。

「……君が望むなら、今夜は、他の何よりも君を優先するよ。たとえシステムがどんなにエラーを吐こうと、今夜は結衣さん、君だけだ」

結衣は顔を上げた。彼女の瞳には、恥じらいと、それ以上に深い駆への愛しさが揺らめいている。

「はい……駆様」

冴子は、そんな二人の様子を「お熱いこと」と口元を隠して笑うと、席を立った。二人の周りには、特区の冷徹な空気さえも寄せ付けない、温かな空気が満ちていた。


琥珀色の灯りが、寝室の空気をとろりと溶かしていた。

駆は結衣の背にそっと手を添え、彼女をベッドの柔らかなシーツへとゆっくりと横たえた。肌が触れ合うたびに、特区という管理された世界から切り離された、二人だけの時間が深まっていく。駆の指先が、結衣の華奢な肩から鎖骨へと、ゆっくりと、祈るような丁寧さで這っていった。

「駆様……」

結衣は駆の名前を呼ぶだけで、幸せそうに目を細めた。彼女の呼吸は駆の吐息と重なり、室内の静寂をかき乱すことなく、さざ波のように穏やかに揺れ動いている。駆は彼女の瞳を見つめながら、その目元に軽く口づけを落とした。それは所有の主張ではなく、互いの存在を確認し合うような、深い敬愛の所作だった。

結衣の手が駆の背中に回り、彼を引き寄せる。二人の体温が混ざり合い、境界線が曖昧になっていく。駆の動作はどこまでも優しく、壊れやすいガラス細工を扱うかのように慎重だった。結衣もまた、自分の存在すべてを彼に預けるように、瞳を閉じてその温もりを受け入れている。

「……結衣さん、君の声、聞かせて」

駆の囁きに、結衣はふわりと笑みをこぼした。彼女の肌を愛撫する駆の手のひらが、結衣の心臓の鼓動をダイレクトに拾い上げる。トクトクと、早まる心音。それはシステムが生成する規則的なログではなく、生身の人間が愛を感じている証だった。

重なり合う体は、夜の静寂の中に溶けていく。駆は結衣の耳元で、彼女への愛おしさを言葉にならない吐息で伝える。結衣はそれに応えるように、駆の背中に爪を立て、彼をより深く自分の中に抱き入れた。

激しい衝動よりも、互いの境界を少しずつ溶かしていくような、慈しみに満ちた時間が流れる。結衣の潤んだ瞳が駆を映し、駆の視線が結衣のすべてを慈しむ。ただ、お互いの存在を感じ、名前を呼び合い、その温もりが永遠に続くことを願うような、穏やかな儀式。

カーテンの向こうで、特区の街灯がどれほど冷酷に光っていようとも、このベッドの上の二人の世界は、ただ優しさだけで満たされていた。駆は結衣の髪をそっと撫で、彼女が安堵の吐息を漏らすのを聞きながら、その温かな重みを胸に刻み込んだ。

愛おしさが、二人の鼓動とともに静かに、そして確実に深く重なり合っていく。それは、どんなデータにも書き換えることのできない、彼らだけの「幸福な真実」そのものだった。

あくる日、駆は、榊から呼び出された中央制御棟のオフィスにいた。昨夜の路地裏の残像が、瞼の裏にこびりついている。だが、目の前の榊は、まるで何事もなかったかのようにコーヒーを淹れ、のんびりと香りを確かめていた。

「戌井くん、少し待ってくれ。この豆、昨夜手に入れた限定品の『旧時代のブレンド』なんだ。香りがいいだろう?」

榊はデスクの端に置かれた小さなカップを駆に差し出した。駆は緊張で強張る体を無理やり弛緩させ、そのカップを受け取る。

「……ありがとうございます。いい香りですね」

「だろう? この特区の管理システムが弾き出す『究極の効率的栄養補給』も悪くないが、たまにはこういう、生産性のない無駄な時間が、脳のメモリをリフレッシュさせることもある」

榊は椅子に深く腰掛け、窓の外を眺めた。そこには、昨夜の惨劇があった場所など微塵も感じさせない、完璧に整えられた街並みが広がっている。

「ところで、戌井くん。昨夜のパーティーは楽しめたかね? 随分と早めに切り上げたようだが」

駆は心臓が跳ねるのを隠しながら、努めて穏やかなトーンで返した。

「ええ、まあ。結衣――私のパートナーが少し疲れてしまったみたいでして。……ああいうキラキラした場所は、僕たちのような人間には、まだちょっと眩しすぎたのかもしれません」

「ははは、無理もない。君も彼女も、急に高い高度に登りすぎたんだ。気圧の変化には注意しなくてはな」

榊はコーヒーを一口啜り、まるで近所の世間話でもするような軽やかな調子で言った。

「そういえば、結衣さんは最近、何か趣味でもできたのかね? 以前、教育機関のデータでは『読書が好き』とあったが、最近はあまり本を読んでいないようだ」

「ええ……最近は、僕が持っていたプログラミングの教科書を覗き込んでいます。僕が仕事の合間にコードをいじっていると、横から『ここはなぜこうなるの?』と聞いてきたりして。……本当に、毎日飽きないですよ」

駆の言葉に、榊は興味深そうに目を細めた。

「ほう。あの静かな子がね。……ふむ、興味深い。知的な好奇心は若者の特権だからな。……そういえば、私のところの庭でもね、最近、珍しい鳥が巣を作ったんだよ。ただの鳩かと思ったら、どうやら渡り鳥らしくてね。忙しい毎日の中で、あの子たちが卵を温めるのを眺めるのが、今のささやかな楽しみでね」

榊の口から出る、あまりにも日常的な、そして冷徹な彼からは想像もつかないような穏やかな話。駆は、そのギャップに言葉を失いそうになった。

「鳥の巣、ですか。……いいですね。そんな風に、守るものがあるっていうのは」

「全くだ。……彼らは、外の世界がどれほど嵐であろうと、自分の巣だけは完璧に守ろうとする。本能というのは、時にどんな知性よりも理にかなっているのかもしれない」

榊はそこで言葉を切り、カップをソーサーに置いた。カチリという静かな音が、執務室に響く。

「戌井くん。仕事の話だが――」

榊の瞳から、先ほどまでの「庭の鳥を愛でる老人」のような柔和さが消え失せた。

「君が昨夜歩いたエリアのデータに、少しばかり通信エラーのノイズが混じっていた。私のセキュリティ担当が修正をかけているが……ああいう『エラー』は、早めに駆除しておかないと、街全体のシステムを腐らせてしまう。……君も、散歩のルートには気をつけることだ」

それは、世間話の皮を被った、あまりにも冷徹な警告だった。

駆は、コーヒーの熱さを感じながら、静かに頷いた。

「……忠告、ありがとうございます。気をつけます」

「ああ、頼むよ。君には、まだまだ長く、この街で『良い仕事』をしてもらわなければならないからね」

榊はそう言うと、再びキーボードに視線を戻した。駆は立ち上がり、オフィスを後にした。

背後から、またカチカチとキーボードを叩く榊の音が聞こえる。昨夜の殺戮を「ノイズ」と言い切り、今のコーヒーを「リフレッシュ」と語る男。

(この男にとって、僕たちの日常も、あの路地裏の犠牲者も、同じ『ノイズ』に過ぎないんだ)

駆はオフィスを出て、静まり返った廊下を歩き出した。その手には、まだ榊が入れたコーヒーの熱さが残っていた。それが、自分をこの現実に繋ぎ止める唯一の証拠のように思えた。

地下の暗い工場で、ただ機械のようにパイプを磨き続けていた駆にとって、今の生活は夢のようであった。

特区の最上階、広大な窓から見えるのは、計算し尽くされた美しい街並みと、どこまでも広がる空。そこに、結衣という心優しいパートナーと、静かに家を支える冴子という存在がある。

駆にとって、この「日常」こそが何よりも尊い宝物であった。

その日は、駆が「インフラ最適化センター」に見習いプログラマーとして初出勤する朝であった。

駆が慣れない特区のスーツに袖を通し、鏡の前でネクタイを整えていると、キッチンから漂う美味しそうな香りに包まれて、結衣がひょこりと顔を出した。

「駆様、いってらっしゃいませ。……あ、ネクタイ、少し曲がっていますよ」

結衣は小走りで駆け寄ると、背伸びをして駆のネクタイを丁寧に結び直した。彼女の指先が触れるたび、駆の胸の奥がくすぐったいような温かさで満たされる。

「ありがとう、結衣さん。……なんだか、学校に行く前みたいだな」

「ふふっ、そうですね。でも駆様は、立派な仕事に行かれるのですから。……お弁当、持たせましたからね。冴子さんと一緒に作ったサンドイッチです」

駆は受け取ったランチボックスを鞄にしまった。地下にいた頃は配給された乾いたパンを噛み締めていたことを思うと、こうして誰かの手作りの味を仕事場に持っていけるということが、何よりも贅沢に感じられた。

センターに到着すると、山崎という先輩プログラマーが明るい笑顔で出迎えた。

「お、駆くん! おはよう。新しい職場はどうだい? 昨日の選手権の疲れは残っていないか?」

「あ、はい! おかげさまで。……ここに来るまで、少しだけ道に迷ってしまったけれど」

駆は正直に答え、山崎を笑わせた。山崎は駆の肩をポンと叩くと、デスク──ホログラムで構成された作業スペース──へと案内した。

「最初は戸惑うこともあるだろうけど、駆くんのコードの才能は誰もが認めているよ。まあ、まずは焦らず、この区域の電力配分ログの確認からやってみようか。この前、ちょっとした通信エラーがあったらしくてね。システムが微細なラグを起こしているんだ。お前ならすぐ見つけられるだろ?」

「はい、頑張ります!」

駆はモニターに向き合った。複雑に流れる電力データは、地下で見ていた単調な配管の図面とは違い、まるで生き物のように呼吸しているようであった。

時折、山崎がコーヒーを持ってやってきては、「今の設定、すごく効率的だな。さすがだよ」「お昼はあの公園のベンチで食べようか、景色が良くてね」といった何気ない会話を交わす。駆は、自分が「歯車」としてではなく、一人の人間として、他の誰かと緩やかに繋がっていることを実感していた。

(……仕事が終わったら、結衣さんとどんな話をしようか。明日の朝食は、冴子さんが言っていた新しいレシピに挑戦してみようかな)

駆はモニターの中で流れる数字の羅列を見つめながら、画面の隅で点滅する微細なデータ──システムが最適化のために自動修正した、ほんの小さな「ずれ」のログに気づいた。

駆はそれを慌てて修正するのではなく、まるで宝物でも見つけたかのように、優しく画面を指でなぞった。

「……完璧なだけじゃなくて、こういう、ちょっとした個性が残っているのも面白いな」

駆は、システムを壊すことではなく、その「ずれ」を愛でるような気持ちで、そっと修正作業を進めた。夕暮れ時、センターを後にした駆は、結衣との待ち合わせ場所である広場へと足早に向かった。夕日に染まる街並みは、昨日よりも少しだけ優しく見えた。

(明日もまた、みんなと笑い合える)

駆のポケットには、結衣が作ってくれたサンドイッチの空箱と、明日の朝食のための新しい食材のメモが入っている。特区の平穏な夜が、今日も静かに二人を迎えようとしていた。

特区の管理システムは、夕暮れ時の静寂とともに、駆の端末へ今日の「最適化完了」のログを通知してきた。

帰宅し、部屋のドアを開けると、そこにはキッチンで俯く結衣の姿があった。

「駆様、おかえりなさい……」

結衣はいつものような明るい声ではなく、どこか元気がなかった。テーブルの上には、無機質な栄養ペーストのパックが一つ、ぽつんと置かれている。

「どうしたんだ、結衣さん。何かあったのか?」

「あ……いえ、あの。今日、少しだけ甘いものが食べたくなって、ショッピングモールの検索をしてみたんです。でも……」

結衣はホログラムの購入履歴画面を指差した。そこには赤い文字で大きく『非推奨:過剰な糖分摂取による最適化率の低下』と表示されている。

「先週、私が少し多めに果物を食べたから、システムが私の『甘味許容量』をゼロに設定しちゃったみたいで。……お菓子どころか、少し甘い飲み物すら買えないんです」

結衣は力なく笑った。彼女は特区のルールには従順だったが、駆のために腕を振るおうとした矢先のこの制限に、少しだけ心細さを感じていたらしい。

駆は結衣の背中にそっと手を添え、優しく微笑んだ。

「そうか。……わかった。少し休憩するから、リビングで待っていてくれ」

「え? 駆様?」

駆は何も説明せず、自分の作業用端末を開いた。部屋の空気が、少しだけピリリと引き締まる。

駆が目を付けたのは、結衣の「栄養摂取許容量」を決定しているアルゴリズムのパラメータだ。システムは結衣の今日の活動量と健康データから、「糖分は不要」と断定している。駆はキーボードを叩き、その計算式の中に、極めてエレガントな「偽装工作」を組み込んだ。

『現在、対象個体(結衣)は高度なストレス環境下にあり、精神的安定のために特定のブドウ糖摂取が必須である』

駆は、システムが判断を下すための「健康データ」の優先順位を書き換えた。物理的な健康数値よりも、「幸福度という名の精神パラメーター」を最優先に計算させるよう、論理をチューニングしたのだ。

数秒後、システムから穏やかな通知音が鳴った。

『推奨設定を更新しました。個体の精神的健康維持のため、選択的糖分摂取を許可します』

駆は端末を閉じ、リビングへ戻った。結衣はまだ呆然とした様子で椅子に座っている。

「結衣さん、もう一度確認してみてくれ」

「え……?」

結衣がおずおずとホログラムを操作する。先ほどまで赤く光っていた警告は消え、代わりに『本日限定:精神ケアのための嗜好品選択権を付与』という甘美な文字列が浮かび上がっていた。

「わっ……嘘、買えるようになってる」

結衣の瞳が、魔法でも見たかのように驚きで見開かれた。

「駆様、これ……?」

「システムが君のストレスを察知したみたいだ。今日は特別に、君が食べたいものを何でも選んでいいそうだよ」

駆の言葉に、結衣はパッと顔を輝かせた。彼女はすぐに駆け寄り、駆の頬にそっとキスをした。

「ありがとうございます、駆様! ……あ、そう言えば、この前の、あのとろけるようなチョコレート、まだ在庫があるかしら!」

結衣はまるで少女のように弾んだ足取りでキッチンへ向かい、注文を開始した。特区の無機質な空間に、彼女の明るい笑い声と、甘いお菓子を選ぶ楽しげな鼻歌が響く。

駆はソファに深く腰を下ろし、結衣の嬉しそうな背中を眺めた。

システムを壊す必要などない。ただ、その厳格な論理の中に、彼女たちの幸福を「必要なデータ」として混ぜ込むだけでいい。

(……このシステムも、案外チョロいな)

駆は静かに目をつぶり、結衣が淹れてくれるコーヒーの香りを待った。完璧に管理された特区の夜の中で、二人のための、甘く優しい「1日だけの特例」が始まろうとしていた。

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