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戌井くんの国家論  作者: nodokara
第三章
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第三章

その午後、リビングのテーブルに、一枚の純白の封筒が置かれていた。

その表面には、特区管理委員会の紋章が、鈍く光る金色の箔押しで刻まれている。

「……戌井様、こちらに、招待状が届いております」

冴子が淡々とした口調でそう言いながら、銀のペーパーナイフで封を切った。中から出てきたのは、電子認証チップが埋め込まれた重厚なカードだった。

「パーティー……? しかも、上層部が主催する、新参の特権階級を歓迎するためのものですか?」

結衣が覗き込み、少しだけ不安そうに眉を寄せた。

「そうだよ。……『天才プログラマー・戌井駆の技術に敬意を表し、特区の運営陣との親睦を深める場』……だってさ」

駆はカードを指先で弄びながら、ため息交じりにソファーに背を預けた。地下での過酷な労働から解放され、ようやくこの静かな暮らしに馴染んできたところだったのに、その『平穏』を掻き乱すような招集命令。

「戌井様、これは義務でございます。特区で活動し、ライセンス料を受け取っている以上、上層部への顔見せは『契約』の一部。……無視すれば、この家の維持管理にも影響が出る可能性があります」

冴子の冷静な指摘に、駆は小さく肩をすくめた。

「わかってる。断れないんだよね。……結衣さんは、どう思う?」

駆の問いかけに、結衣は少し考え込み、それから恐る恐る口を開いた。

「……あの方たちと、親睦を深める……なんて、嘘ですよね。きっと、私たちを品定めするだけ……。でも、戌井様がどうしても行かなければならないのなら、私も……」

「うん。……実はね、案内状には『パートナーの同伴を推奨する』って書いてあるんだ。僕一人じゃ、きっとあの冷たい空気の中で凍りついちゃうから……結衣さんに、一緒に来てほしいんだ」

駆の言葉に、結衣は驚いて目を丸くし、それから少しだけ頬を染めた。

「……はい! 私、戌井様の隣にいても恥ずかしくないように、準備します。……冴子さん、私、何を着ればいいでしょうか?」

「結衣様、その点につきましては、すでに手配済みです。特区の社交界で、戌井様の隣に並ぶに相応しいものを」

冴子はいつもの冷徹な表情のまま、少しだけ満足そうに口元を綻ばせた。

「……ありがとうございます、冴子さん」

駆はしみじみとそう呟くと、招待状をテーブルに置いた。

「面倒な付き合いだとは思うけど……結衣さんと、晴れ舞台に出るのも、悪くはないかもしれないね。ねえ、せっかくだし、会場で何か美味しいものでも探してこようか?」

「ええ、もちろん。戌井様。……ただし、あそこは社交の場です。飲食に夢中になりすぎて、本分を見失わないようにお気をつけください」

冴子の少し呆れたような忠告に、駆と結衣は顔を見合わせて笑い合った。

特区の上層部が仕組んだ「政治的な儀式」を、三人はまるでピクニックの予定でも立てるかのように、自分たちのペースで受け入れ始めていた。

「楽しみですね、戌井様。どんな豪華な料理が出てくるのか、今から考えておきます!」

結衣の明るい声が、リビングの温かい空気に溶けていく。

招待状が告げる「嵐」の予感などどこ吹く風。三人は、この小さな部屋で、これから先の日常を語り合っていた。



陽の光が差し込むクローゼットルームで、冴子さんが慎重に広げたのは数着の衣装だった。特区の格式に合わせつつも、あまり仰々しくないものを、という僕の注文に合わせて、冴子さんが厳選したものだ。

「駆さん、こちらはいかがでしょうか。派手すぎず、かといって見劣りもしない、落ち着いた色合いのスーツです」

冴子さんが差し出したのは、深いネイビーのスーツだった。僕はそれを手に取り、鏡の前で合わせる。

「ありがとう。これなら動きやすそうだ。……結衣さんのほうはどうかな?」

僕が振り返ると、そこにいた結衣は、手に持ったサクラ色のドレスを胸元に当てていた。その整った顔立ちは、控えめな色合いのドレスを纏うことで、より一層引き立っている。鏡に映る結衣は、ただそこに立っているだけで華やぐような美しさがあった。

しかし、結衣自身は自分の美しさに無自覚なまま、少し困ったように眉を下げている。

「あの……どれも素敵なんですけれど、なんだか私には立派すぎてしまって」

そんな様子を見て、僕は苦笑した。

「似合ってると思うよ。結衣さんが着ると、服もよく映えるし。それに、その色は今の結衣さんにちょうどいいんじゃないかな」

駆が素直な感想を伝えると、結衣は少しだけ驚いたように顔を上げた。

「……そうですか? 駆さんがそう言ってくれるなら、これにしようかな」

「ええ、とてもお似合いですよ、結衣様。その控えめな色合いが、結衣様の柔らかな雰囲気を、よりいっそう引き立ててくれます」

冴子さんが淡々と言い添えると、結衣は安堵したように小さく微笑んだ。ふわりと咲くような笑顔を見て、駆は改めて、二人で行くことにして良かったと思った。

「ありがとうございます。……では、これに決めますね」

「よし、決まりだね。……じゃあ、当日は会場の雰囲気を確認しつつ、あまり無理せず楽しんでこよう」

駆は鏡に映る二人を見つめ、どこか落ち着いた気持ちでそう呟いた。華美な装飾がなくても、これなら十分だと思えた。

「承知いたしました。では、当日までに靴の調整など、細かな準備を進めておきます」

冴子さんはそう言うと、手際よく衣装を整え始めた。

駆は、その様子を心強い気持ちで見守っていた。






リムジンが静かに速度を落とし、迎賓館の重厚な門が見えてきた。

車窓を流れる街灯が、車内に細い光の筋を落っては消えていく。僕はネクタイの結び目を少しだけ緩め、隣に座る結衣に声をかけた。

「……随分と立派な建物だな。ここが今日の会場か」

結衣は窓の外の巨大な門を見上げ、小さく息を呑んだ。

「はい。……少し、圧倒されそうです。こういう場所に来る機会なんて、今までありませんでしたから」

駆は彼女の言葉に頷き、自分の膝の上で組んでいた手を解いて、結衣の近くに置いた。

「ああ、僕も同じだよ。こういうのは正直どう振る舞えばいいのか、よく分からない。……まあ、案内状には分子料理が出るなんて書いてあったから、どんなものか食べてみるのも経験かな」

「そうですね。どんな豪華な料理が出てくるのか楽しみです! ……あ、でも、あまり期待しすぎないようにしておきますね」

結衣が少しだけ肩の力を抜いてそう言うと、駆は短く笑った。

「そうだな。もし期待外れだったら、帰りにどこかで肉まんか何か買って帰ろう。コンビニのやつの方が、今の気分には合っている気がするし」

「肉まん……いいですね。冴子さんにお土産として、何か珍しいお菓子を探してみるのもいいかもしれません」

「それなら、冴子さんも喜ぶだろうな。……あそこは、あくまで帰るまでの場所だと思っておこう。二人で帰る時に、何を食べようか相談する。それくらいの気持ちでいれば、なんとかなるはずだ」

結衣は僕の言葉を聞き、少しだけ落ち着きを取り戻したように微笑んだ。

「はい。……なんだか、そう考えると少し気持ちが楽になりました」

「そうか。ならよかった」

リムジンがエントランスの前に停まり、運転手が静かにドアを開ける。

駆は最後に一度だけ深く息を吐き、隣の結衣を見つめた。

「よし、行こうか。……あまり長居はしないようにしよう」

「はい、駆さん」

二人は車を降り、煌びやかな光に包まれた会場へと歩き出した。


会場へと一歩足を踏み入れた瞬間、駆はその圧倒的な光の量に眩暈めまいを覚えた。

クリスタルのシャンデリアから降り注ぐ虹色の光。大理石の床には、最高級のシルクや仕立ての良いタキシードを着た特区の権力者たちがひしめき合い、グラスの触れ合う繊細な音が、まるで心地よいBGMのように響いている。

「戌井様、背筋を伸ばしてください。ここは誰もが他人の隙を窺う、戦場のような場所です」

背後から冴子が、周囲の誰にも聞こえないほどの低い声で囁いた。彼女はいつも通りの無表情ながら、その鋭い視線は会場の要人たちの動きを冷徹にスキャンしている。

「わ、分かってるけど……やっぱりこういうの、僕には場違いすぎるよ……」

駆は窮屈なネクタイに指をかけ、何度も呼吸を整えようとした。

そんな駆の視線の先で、結衣はドレスの裾を壊れ物を扱うようにそっと掴み、借りてきた猫のように小さくなっていた。いつもは3人のリビングで楽しそうに笑う彼女が、今は特区の「絶対的な上下関係」を思い知らされたかのように、一言も発せず俯いている。

「――おや、君が榊の連れてきた『地下の真珠』かね」

その声を合図にするように、彼らの周りにスッと人だかりができた。

現れたのは、豪奢な金時計を身につけ、何人もの従属者を後ろに従えた老政治家だった。彼の後ろにいる女たちは、完璧なメイクと彫刻のような微笑みを浮かべ、まるで感情を奪われたマネキンのように直立している。

「私は特区管理委員会の幹部だ。戌井君、君のハッキング技術の噂はかねがね聞いている。地下の泥にまみれていた少年が、これほどの晴れ舞台に上がるとは、まさに特区の慈悲だな」

老政治家はワイングラスを傾けながら、駆を歓迎するフリをして、その実、品定めするようなねっとりとした視線を送ってきた。周囲の貴族たちからも、クスクスと小馬鹿にするような笑い声が漏れる。

「ありがとうございます。僕はただ、自分の仕事をしていただけです」

駆は精一杯、声を震わせないように答えた。しかし、老政治家の視線はすぐに、駆の隣で身を縮めている結衣へと移動した。その瞬間、老人の目が明らかな蔑みに変わる。

「……それにしても、君の連れているそのドール(従属者)は、一体どういう格付けだね? データを確認させてもらったが、教育機関での成績は並以下、これまで一度も斡旋された実績のない『倉庫の肥やし』ではないか」

その言葉は、静かな会場の中で不自然なほど明瞭に響き渡った。

周囲の女たちが、結衣を哀れむように、あるいは見下すように一斉に見つめる。

「特区で成功を収めるためには、連れる道具の価値も重要だ。君ほどの天才なら、より洗練され、君の技術をさらにサポートできる最高級の個体がふさわしい。どうだね、このパーティーが終われば、私の派閥から最高ランクの女を何人でも融通してやろう。君の身の回りを完璧に管理し、決してエラーを起こさない極上品だ」

老政治家は一歩踏み込み、結衣をまるで使い古された粗大ゴミのように一瞥しながら、駆の耳元でニヤリと笑った。

「その結衣とかいう型落ちの女の他に、もっと優れた女は要らないかね?」

その場にいる全員の視線が、駆の解答を待つように集中した。

結衣は恐怖と恥ずかしさで完全に凍りつき、ドレスの裾を握る指先が白く震えていた。

(やっぱり、私はダメな人形だから……ここにいちゃいけないんだ……)

彼女の目から、今にも涙がこぼれ落ちそうになった、その時だった。

「――お気遣い、痛み入ります」

駆はすっと小さく一礼し、穏やかな、けれどどこか掴みどころのない笑みを浮かべた。

その場にいた誰もが、駆が老政治家の提案に乗るものだと思った。しかし、駆は眼鏡の奥の瞳をすっと細めると、流れるような口調で言葉を続けた。

「ですが、私はまだ地下から上がってきたばかりの、未熟なプログラマーに過ぎません。私の書くコードはいつもエラーばかりで、不格好なものばかりです。ですから……私のような不完全な人間には、特区の『最高級』や『完璧』という言葉は、いささか分不相応で荷が重すぎます」

駆はそう言って、隣で硬直している結衣の肩に、そっと優しく手を添えた。

「私には、この不器用で、私のエラーにも根気強く付き合ってくれる彼女(結衣)くらいが、ちょうど身の丈に合っているのです。素晴らしいお声がけを無下にするようで恐縮ですが、この『不完全な組み合わせ』のまま、特区のシステムに貢献させていただきたく存じます。……幹部様のご配慮には、心より感謝申し上げます」

「お、おぅ……そうかね……。君がそこまで言うなら、無理にとは言わんが……」

老政治家は、自分の提案を「素晴らしい」と持ち上げられつつも、完璧に煙に巻かれたことに気づき、毒気を抜かれたようにワイングラスを揺らした。駆の言葉は、特区のルールを一切否定せず、むしろ自分を「未熟者」と下げることで、老人の面子を完璧に保ったまま、これ以上ないほど強固に結衣以外の存在を拒絶していた。

周囲の貴族たちからも、「なるほど、天才のこだわりか」「妙な謙遜をする少年だ」と、納得とも呆れともつかない呟きが漏れる。

「それでは、私たちはこれで失礼いたします。明日のプログラム構築に備え、体調を整えねばなりませんので」

駆はもう一度、完璧に使用人のフリをして美しく一礼した。背後に控えていた冴子もまた、老政治家たちに向けて、心なしかいつもより深く、けれどその実、最高の皮肉を込めた一礼を捧げている。

「……っ、戌井様……」

結衣の目から、今度は恐怖ではなく、安堵と嬉しさのあまり大粒の涙がポロポロと溢れ出した。会場を出て、冷たいクリスタルの光が届かない静かな廊下へと出た瞬間、駆は「ふぅ……!」と大きくため息をついて、自分のネクタイを乱暴に緩めた。

「あー、緊張した……! 結衣さん、大丈夫? 変なこと言って怒らせちゃってないかな」

「ううん、ううん……っ! すごく、すごくて……私、本当に嬉しかったです……!」

結衣はドレスの袖で涙を拭いながら、これ以上ないほどのひまわりのような笑顔を咲かせた。

彼女の手を、駆は今度は優しく、しっかりと握り直す。

「さあ、僕たちの家に帰ろう。冴子さんの美味しいご飯が待ってる」

「はい!」

完璧なシステムも、最高級の資産も、彼らにはもう必要なかった。

少し焦げ目のついた不格好なトーストと、お酢のドレッシングに大慌てする食卓。そして、お互いを思いやって笑い合えるあの小さな部屋こそが、3人にとって、何ものにも代えがたい本物の「楽園」なのだから。

特区の冷たい空気の中に、3人の確かな温もりが、これからもずっと灯り続けていく。


特区の夜は、街灯の光さえもが街全体を優しく包むように設計されており、どこか温かみのある青白さで満たされている。

駆と結衣が向かったのは、住居エリアの一画にある無人のコンビニエンスストアである。ガラスの自動ドアが心地よい音を立てて開き、二人の訪れを歓迎するように店内が明るく灯った。

「駆様、何を選びましょうか」

結衣は棚に並ぶ無数の商品を見上げ、瞳をキラキラと輝かせた。かつて地下の工場で分かち合っていたささやかな食事とは比べ物にならないほど、目の前に広がる世界は色彩豊かで、どれもが二人の未来を祝うギフトのように見えたからだ。

駆は慎重に、しかし心躍らせるように棚の前を歩く。彼が商品を手に取るたび、センサーが反応し、会計の準備を整える。彼はこの特区の住人として、今この瞬間を誰よりも楽しんでいた。

「……うーん、どれがいいかな。冴子さんはお惣菜が好きだと言っていたな。美味しいものを、三人で食べよう」

駆は真空パックされた肉料理や、彩り豊かな野菜サラダを選びながら、優しい笑みをこぼす。結衣もまた、宝探しをするかのように棚を見つめ、一つの商品を指さした。

「あ、これ。駆様、これ知っていますか?」

それは、色とりどりのフルーツゼリーであった。透明な容器に入った鮮やかな果実の光は、二人の絆を彩る宝石のように見える。駆は少し照れくさそうに笑い、それをそっと手に取った。

「美味しそうだ。……買おう」

店内には音楽こそないが、二人の間にはまるで穏やかな調べが流れているかのようであった。買い物を済ませ、レジを通る必要もなく自動で決済が完了すると、二人は幸せを抱えて出口へ向かう。

店を出ると、夜風が二人を優しく撫でた。駆は片手に持った買い物袋の中身を確かめ、溢れる幸福感を噛み締める。

「駆様。……あの、私、今日みたいな日がずっと続けばいいなって思いました」

結衣が隣で幸せそうに呟くと、駆は彼女の細い指先をそっと、しかし力強く握りしめた。

「ああ。……そうなるように、僕が頑張るよ」

歩き去ったコンビニの明かりが、二人の背中をいつまでも見守るように輝いている。センサーとAIたちは、この幸福な記憶を記録しながら、特区という街の中で二人の穏やかな明日を祝福しているかのようであった。

二人は並んで歩き出した。家へと続く、美しく舗装された道を。

しかしその時、路地の奥から、風を切る鋭い音と、火花のような閃光が二人の視界の端をかすめた。

「……何の音だろう」

駆が足を止め、路地を覗き込む。そこには、仕立ての良いスーツを纏いながら、時代錯誤な「刀」を構えた男たちが対峙していた。

「――一般人か!」

闘争に夢中になっていた男の一人が、二人の気配に気づき叫ぶ。男は駆たちを睨みつけると、面倒そうに舌打ちをして仲間に告げた。

「場所を変えるぞ。こんなところで観客を増やす趣味はない」

男たちは夜の闇の向こうへ走り去った。何が起きているのか、なぜスーツを着た大人たちが時代劇のような刃物を振り回しているのか。駆には、その理屈がまったく理解できなかった。ただ、彼らの背後で、追われていた一人が逃げ場を失い、冷たい金属の閃光に飲み込まれて崩れ落ちる音だけが、不気味に響いた。

理解不能なエラーが脳内を駆け巡る。駆はただ、結衣の震える肩を抱き寄せ、何も見なかったことにして、この場所から駆け出した。手の中のゼリーが重く、ひどく場違いに感じられた。



路地を抜けて大通りに出たとき、街の光は先ほどと何も変わらず、眩いほどの透明感で満ちていた。

だが、駆の網膜には、まだあの路地裏の残像が焼き付いている。

(……何だったんだ、今の)

頭の中は真っ白だった。論理的な整合性など、どこにもない。スーツ姿の男たち。時代錯誤な刀。そして、一瞬にして奪われた誰かの命。

彼が日々触れているコンピュータの世界では、エラーには必ず原因があり、対処法がある。しかし、今起きたことは、システム上のデバッグログにも残らないような、あまりに不条理な「事象」だった。

「……駆様、手が冷たい」

隣を歩く結衣の震える声に、駆は我に返った。彼女もまた、自分が何を見たのかを理解できていない。ただ、本能が「見てはいけないものを見てしまった」と告げているだけだ。

駆は、握りしめていたコンビニの買い物袋を、もう片方の手で包み込んだ。中に入っているフルーツゼリーや惣菜の、プラスチックの冷たさと適度な重量。それが唯一の現実だ。さっきまで、これらを買うことに小さな幸せを感じていたというのに、今はその事実さえもが、ひどく遠い昔のことのように思える。

(誰にも、聞けない……)

榊に聞くべきか? いや、もしあの男たちが特区の管理側に関わる人間なら、不用意な質問は自分たちを危険に晒すかもしれない。駆の脳内にある高性能な推論エンジンは、あの光景をどう処理すればいいのか分からず、ただ空回りを続けている。

「大丈夫だよ、結衣さん。もう、忘れよう。……何もなかったんだ」

自分に言い聞かせるように呟く駆の声は、驚くほど平坦だった。

彼らは美しく舗装された道を歩く。街灯が二人を照らし、背後に長い影を落とす。特区の街は完璧で、静かで、冷徹なまでに平穏だ。だが、さっきの金属音だけが、駆の耳の奥にこびりついて離れない。

この街のどこかには、AIが感知できない「死のルール」が隠されている。

その予感が、駆をじわりと追い詰めていた。

駆は何がどうなっているのか、何を見たのか、何も分からない。ただ、自分が踏み入れていた「楽園」が、本当はもっとずっと深くて、おぞましい底なし沼の上に立っているのだということに、彼はまだ気づいていなかった。

二人の足音が、無機質なアスファルトに規則正しく響く。夜は、何事もなかったかのように過ぎていった。

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