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戌井くんの国家論  作者: nodokara
第ニ章
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第二章

準市民IDのカードキーをかざすと、白亜のタワーマンションの最上階、その重厚な扉が電子音と共に静かに開いた。

「――おかえりなさいませ、戌井様」

玄関ホールに足を踏入れた瞬間、駆の視界に二人の女性の姿が飛び込んできた。

一人は、リビングのソファーの傍らに、小動物のように身を縮めて立っていた。

結衣。今年18歳になる、駆の「最初の妻(保護妃)」だ。国家のアルゴリズムによって、駆のプログラミング能力(技術力)に見合う遺伝子として斡旋された少女。華奢な体躯に豪奢なシルクのドレスをまとっているが、その儚げな美しさは緊張で完全に固くなっていた。指先は細かく震え、視線は床の絨毯の一点に張り付いている。地下から『試練』を力尽くで突破してきた男がどれほど粗暴なのか、彼女はその恐怖で頭が一杯だった。

さらに、結衣の少し後ろで、衣服の皺一つない完璧な姿勢で直立不動の礼を取っていたのが、冴子だった。

28歳。この国のルールにおいて、男の欲望を刺激する容姿を持たなかった女性たちに与えられる「高級家政婦クラン・キーパー」の制服を着ている。地味で目立たない顔立ちの奥にある瞳は、驚くほど冷ややかに澄んでいた。新しい主がどんな人間であろうと、自分の仕事を完璧にこなして居場所を守るだけ――その瞳には、深い諦念と冷ややかな警戒があった。

(……あ、うわあ。みんな、すごく緊張してる)

駆は長めの前髪の奥で、困ったように、そしてすまなそうに眉を下げた。

駆は、泥と油の匂いが少しだけ残る作業着のポケットから、おそるおそる手を抜いた。そして、結衣に対しても、冴子に対しても、ぎこちなくペコペコと何度も頭を下げた。

「あ、初めまして。戌井駆です。あの、えっと、僕のせいで、急にこんな部屋に来させちゃって、本当にすみません」

消え入りそうなほど頼りなく、ひどく不格好な挨拶だった。

その言葉に、冴子は小さく眉を動かした。主の交代など義務に過ぎないと諦めていた28歳の家政婦は、自分のような「影」に対して、必死に頭を下げて謝る19歳の天才を、値踏みするような鋭い視線で一瞬だけ見つめた。表面的には従順な一礼を返しつつも、(ずいぶん頼りない主だこと。最初のうちだけの演技かしら)と、冷めた警戒を解いていない。

駆は次に、怯える18歳の結衣の前に、ゆっくりと歩み寄った。彼女を威圧しないよう、少しだけ腰を落として目線を合わせようとするが、自分も緊張して視線が泳いでしまう。

「結衣さん、ですよね。あの、僕、ずっと地下の暗い工場で、汚いパイプばっかり触っていたから。あの、特区のルールとか、女の子との話し方、全然わからないんです」

駆は、前髪をいじりながら、困ったように、はにかむような笑顔を結衣に向けた。

「だから、その、僕が変なことを言ったり、嫌な気持ちにさせちゃったら、あの、遠慮なく怒ってください」

「あ……は、はい。ありがとうございます、戌井様」

結衣は小さく声を震わせながら、お仕着せの返答をした。目の前の少年が、想像していたような横暴な独裁者ではなく、むしろ自分以上に不器用で、たどたどしい言葉しか喋れないことに少しだけ拍子抜けしたものの、それでもまだ胸の鼓動は速いままだ。本当にこの人は安全なのだろうか。差し出された不格好な「優しさ」を前に、彼女はまだ、怯えの檻から完全には出てこられない。

駆はその様子に、やっぱりすぐには安心できないよね、と頭を掻いて苦笑した。それから後ろに立つ冴子の方を振り返り、人当たりの良い笑みを浮かべる。

「冴子さん。僕、片付けも料理もなんにもできなくて。きっと、たくさん迷惑をかけます」

駆は自分の汚れた作業着の袖を見つめながら、ぽつりと言葉をこぼした。

「でも、僕、これでようやく、あの息苦しい、死にそうな労働から、もう働かなくていいんだって思ったら、本当にホッとしていて。だから、この部屋は、みんながのんびり、楽に暮らせる場所にしたいんです。これから、よろしくお願いします」

「かしこまりました、戌井様。私どもの役割は、この家を完璧に維持管理することでございます。何なりとお申し付けください」

冴子は表情一つ変えず、ロボットのように完璧なお辞儀を返した。

その声にはまだ、超えられない明確な「境界線」と、プロとしての冷徹な壁が厳然と存在している。しかし、彼女が衣服の裾を握る指先には、ほんの少しだけ、今まで出会った富裕層とは違う少年の、あまりにも生々しく不格好な「労働への恐怖」に対する奇妙な違和感が残っていた。

窓の外には、かつて地下からは決して見ることのできなかった、どこまでも広い空と、特区のまばゆい街並みが広がっている。

(これから、少しずつ、仲良くなっていければいいな……)

お互いにまだ見えない壁と警戒を抱えたまま、静かに始まった3人の新生活。

優しすぎる仮面と、切実な安堵を拙い言葉の裏に秘めた駆は、自作プログラム『アポ』のライセンス料が口座に刻々と振り込まれる数字を眺めながら、静かに息を吐いた。

榊が帰ったあと、駆は特区の住人に与えられる衣服へと着替えるため、洗面所兼脱衣所へと向かった。

 しかし、そこで彼は完全に立ち尽くしてしまった。

 地下工場の寮にあったのは、錆びついた蛇口から冷水が出るだけのコンクリートの洗い場だ。だが、この部屋の壁には、ボタンもレバーも見当たらない。あるのは液晶の滑らかなパネルと、不気味なほど静かに青く光るセンサーのライトだけだった。さっきまで見ていた『タケミカヅチ』の冷徹な盤面を思い出させるようなその光に、駆の思考は一瞬フリーズする。

(えっと……これ、どうやって水出すんだろう。服はどこに置けばいいのかな)

 恐るおそるパネルに触れてみようとした瞬間、突如として壁がスライドし、温かな蒸気と共に全自動のミストシャワーが噴出された。

「うわっ!?」

 驚いた駆は、跳び上がるようにして後ろに下がり、その拍子に棚に置いてあった柔らかなバスタオルを床に落としてしまう。

「わわっ、すみません、すみません……っ!」

 誰もいない空間に向かって、習性のように何度も頭を下げていると、背後の引き戸が静かに開いた。

「……戌井様? 何かトラブルでしょうか」

 様子を見に来たのは、この部屋の管理を任されている家政婦の冴子だった。彼女の少し後ろからは、心配そうにこちらを覗き込んでいる結衣の姿もある。榊から渡されたカードにあった、自分が『保護』するべき最初の女性だ。

 床に落ちたタオルと、衣服の裾を濡らして途方に暮れている駆の姿を見て、冴子はすべてを察したように、その冷ややかな瞳の奥をわずかに揺らした。地下の『歯車』だった若者が特区に上がってきたとき、最初にぶつかるのが、この高度に自動化された生活環境の壁なのだ。

「申し訳ありません。設備のご案内が遅れました。ここはすべて音声、または視線認識のAIで駆動しております。……結衣様、戌井様のお着替えのサポートをお願いしてもよろしいでしょうか」

「あ、は、はい! わかりました」

 冴子に促され、結衣が恐るおそる脱衣所へと入ってきた。

 特区の教育機関で育った彼女にとって、これらのハイテク機器の扱いは手慣れたものだった。彼女はセンサーの前に立ち、「システム起動。デフォルト設定で適温の給水を」と小さく呟いた。すると、先ほどまで駆を威嚇するように吹き出していたミストがぴたりと止まり、心地よい温度の湯が滑らかに浴槽へと注がれ始めた。

「あの、戌井様。お洋服は、そこのボックスに入れてくだされば、AIが自動で洗濯と乾燥をして、クローゼットに戻してくれますから……」

 結衣はまだ緊張で声を震わせながらも、不格好に固まっている駆に優しく教えた。

「うわあ、すごい……。ありがとうございます、結衣さん。僕、本当にこういうの、何にも知らなくて。すごく助かりました」

 駆は心底ほっとしたように胸をなでおろし、前髪を揺らしながら、結衣に向かって本当に嬉しそうに笑った。

 その笑顔を間近で見た結衣は、ぱちくりと目を丸くした。

 新しい教科書が肯定する『男の欲望』のままに、自分を意思の通じない人形や従属物のように扱う男なのだとばかり思っていた。国家級の選手権を制した天才プログラマーという肩書きも、その恐怖を煽っていた。なのに、目の前の少年は、お風呂の出し方一つで大慌てし、年下の自分に対してこれ以上ないほど素直に、何度も「ありがとう」と頭を下げている。

(本当に……普通の、優しい男の子なんだ……)

 結衣の胸の奥を占めていた重苦しい恐怖が、ほんの少しだけ、春の雪のように解けていくのを彼女は感じていた。

 脱衣所の外で見守っていた冴子も、床のタオルを拾い上げながら、その無機質だった表情にわずかな変化を滲ませていた。

 これまでの傲慢な主たちなら、自分が使えないことを棚に上げて「説明が足りない」と怒鳴り散らすか、あるいは使用人をただの使い捨ての機械のように扱っていただろう。だが、駆は自分が「知らないこと」を隠そうともせず、不器用なまま、周りの人間に助けを求めている。

「戌井様、お湯が溜まるまでの間に、お召し替えの準備を整えておきます。どうぞ、ごゆっくりお寛ぎください」

 冴子の声は、プロとしての明確な一線を保ちつつも、最初の一言に比べればほんの少しだけ角が取れて柔らかくなっていた。

「はい! よろしくお願いします、冴子さん」

 不格好な言葉のまま、それでも確かに、特区の冷たい空気の中に3人の小さな温もりが灯り始めていた。

 駆は、優しく波打つ温かい湯船を見つめながら、これで本当にあの地獄のような労働に戻らなくていいのだという安堵を、もう一度深く噛み締めていた。

風呂から上がった駆は、支給された特区の衣服に袖を通した。地下のボロ布のような作業着とは違い、肌に吸い付くような上質な布地に、彼はそわそわと落ち着かない様子で自分の体を擦り合わせた。

リビングに向かうと、広大なガラスのテーブルには、信じられないほど豪華な夕食が並んでいた。

色鮮やかなサラダ、黄金色に焼けた肉料理、湯気を立てる濃厚なスープ。しかし、キッチンには火を使った気配も、鍋の擦れる音も一切ない。ただ、壁に埋め込まれた大型の「マルチ・フードマイスター」が、微かな駆動音を響かせているだけだった。

「お待たせいたしました、戌井様。本日の夕食は、お客様の生体データと栄養バランスを最適化した特区推奨のフルコースです。すべて分子調理データに基づき、全自動で完璧に再現されております」

冴子が冷徹な所作で椅子を引くと、駆は圧倒されながら席についた。隣には、少し緊張が解け、どこか興味深そうに駆を見つめる結衣がいる。

「いただきます……っ」

駆は恐るおそるスプーンを口に運んだ。

一瞬で、濃厚な旨味と芳醇な香りが口いっぱいに広がる。完璧な温度、計算し尽くされた調和。地下で食いつないだ、あの灰色の配給食とは、比較することさえ無礼なほど「完璧」な味だった。

「すごい……美味しいです。……なんて言うか、味のバランスが崩れようがないっていうか。映画に出てくる料理みたいだ」

夢中でスプーンを動かす駆を見て、結衣が少し誇らしげに微笑んだ。

「そうでしょう? 特区の調理AIは世界一なんです。どんな高級レストランの味でも、分子レベルで完全にコピーできるんですよ」

「分子レベルかぁ……本当にすごいなぁ……」

駆は感嘆し、続いてステーキにナイフを入れた。しかし、その完璧な焼き加減の肉を口へ運ぶ動きが、ふと小さく止まる。

その表情に、ほんのわずかだが、影のような寂しさが差した。

「……お口に合いませんでしたでしょうか」

冴子の鋭い問いかけに、駆ははにかむように苦笑いした。

「あ、いえ! とんでもないです! もの凄く美味しいです。……ただ、贅沢な悩みなんですけど」

駆はフォークを弄びながら、遠い過去を見つめるような目をした。

「すごく美味しくて完璧だからこそ……次は、母が作ってくれたような、不揃いな手料理が食べたいな、なんて思っちゃって。贅沢ですよね」

「お母様の……手料理?」

結衣が不思議そうに首を傾げた。特区で生まれ育った彼女にとって、食事とは管理され、供給される「燃料」でしかなかったからだ。

「うん。僕の家、すごく貧しくて。母さんが作る野菜炒めは、いつも火が通りすぎて焦げてたり、塩っぱすぎたり、たまにジャガイモが硬かったりしたんだ。でも、僕がハッキングのコンテストで賞を取った日だけは、無理をして高いお肉を入れてくれてね。『駆、おめでとう』って、笑いながら一緒に食べたんだよ」

駆の視線は、地下の暗闇で彼を支えていた微かな光の記憶をなぞっていた。

「……そのあとすぐ、母さんは病気で死んじゃって。僕は借金を返すために地下の『歯車』として売られたから、あの焦げた野菜炒めが、最後に食べた家族の料理だったんだ。だからかな。この完璧な料理を食べたら、なんだか急に、あの不格好な味が恋しくなっちゃって」

「……」

食卓が静まり返る。

結衣は、駆が背負ってきた過酷な歳月と、彼がいまだに手放せずにいる「温度」に触れ、言葉を失っていた。

そして、背後に控えていた冴子は、じっと駆の背中を見つめていた。

彼女がこれまで仕えてきた特区の権力者たちは、最高級の料理をデータとして消費し、数値を競い合うだけだった。食べ物に「記憶」や「愛着」を見出す者など、この合理主義の掃き溜めには一人もいなかった。

「……手料理、ですか」

冴子が小さく呟いた。その声は、いつもより低く、どこか湿り気を帯びていた。

「自動調理機には『焦げ』や『味のムラ』といったエラーを再現するプログラムは搭載されておりません。それが、この特区が定義する『完璧』ですから」

「あはは、そうですよね。プログラムとしては、失敗のない方が正しいですから」

駆がスープを飲み干すと、冴子はすっと皿を下げながら、表情を崩さないままこう添えた。

「ですが……もし戌井様が、その『エラーのある食事』をお望みであれば。……明日の朝食は、調理機のデータではなく、私の手で用意させていただきます。お口に合うかは保証いたしかねますが」

駆は驚いて顔を上げた。結衣も「えっ、冴子さんが?」と目を丸くする。

「本当ですか……!? 冴子さんの手料理、食べてみたいです!」

子供のように無邪気に目を輝かせる駆を見て、冴子はほんの一瞬だけ、凍りついていた冷徹な仮面の裏で、口元を小さく綻ばせた。

「期待はしないでください。私は家政婦であり、料理人ではありませんから。……結衣様、お代わりの準備をいたします」

立ち上がる二人の背中を見ながら、駆は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

冷たいテクノロジーと、合理性という名の鎖に縛られたこの特区の最上階。そこで、駆は確かに、誰にも消せない「温もり」の灯を見つけ始めていた。

翌朝、駆が目を覚ますと、廊下の向こうからかすかに「トントン」と小気味よい音が聞こえてきた。

特区の高度な防音壁を抜けて響くその音は、地下工場の冷徹な機械音とはまったく違う、どこか規則正しくて心地よいリズムだった。駆が寝癖のついた髪をかきあげながらリビングへ向かうと、そこにはエプロン姿の冴子がまな板に向かっている姿があった。

「あ、戌井様。おはようございます」

お盆を持ってトーストを運んでいた結衣が、駆に気づいてパッと表情を明るくした。

「おはようございます、結衣さん。……あ、冴子さん、本当に手料理を……?」

「おはようございます、戌井様。お約束ですから」

冴子は包丁を止め、少しだけ決まり悪そうに目を逸らした。

ガラスのテーブルに並べられていたのは、昨日までの「分子調理」の完璧なフルコースとは打って変わり、どこか不揃いな形をした厚切りのトースト、少し焼き色のムラがある目玉焼き、そして不格好に切られた野菜のサラダだった。

「私の実家は特区の外の古い農家でして、当時の記憶を頼りに作ってみましたが……やはり自動調理機のようにはいきませんね。形も不揃いですし、栄養計算もされていません」

「ううん、全然そんなことないです! すごく美味しそう!」

駆は嬉しそうに椅子に座り、さっそく目玉焼きに箸を伸ばした。一口食べると、黄身の濃厚な味が口いっぱいに広がる。少し焦げた白身の香ばしさが、昨日食べた完璧な料理よりも、ずっと駆の心を落ち着かせた。

「……美味しい。すごく美味しいです、冴子さん。なんだか、ホっとします」

駆が本当に幸せそうに咀嚼するのを見て、冴子はいつも通りの冷徹な表情を崩さないようにしながらも、小さく胸をなでおろした。

「それは良かったです。……結衣様も、どうぞお座りください」

「はい!」

結衣も席につき、3人で静かに朝食を食べ進める。

これまでは「主人」と「使用人」という明確な壁があった空間に、料理の湯気と共に、確かにささやかな家族の団欒のような空気が流れ始めていた。

「あ、戌井様。そのサラダ、ドレッシングはそれじゃないですよ。それは……」

結衣が慌てて声をあげたが、時すでに遅し。駆はボトルのラベルをよく見ずに、薄緑色の液体をレタスにたっぷりとかけてしまっていた。

「へ? 違うの? ……うぐっ、す、すっぱーーーーい!!」

口に入れた瞬間、駆は両目をぎゅっと瞑って、椅子の背もたれにのけぞった。

「ですから言おうとしたんです。それは特区の超高濃度クエン酸配合・疲労回復専用お酢エキスです……」

結衣はクスリと笑いながら、慌てて冷たいお水を駆の前に差し出した。駆はそれをひったくるようにして一気に飲み干し、「ぷはぁ……」と大きなため息をつく。

「び、びっくりした……。脳みそがシャキッと突き抜けるかと思った……」

「地下工場での疲労が残っているかと思い、私が用意しておきました。少し刺激が強すぎたようで失礼いたしました」

冴子は表情一つ変えずにそう言ったが、その手元のお盆がわずかに震えている。明らかに笑うのを堪えていた。

「もう、冴子さんも意地悪です。……あ、でも戌井様、見てください。このトースト、耳のところがサクサクで本当に美味しいんですよ」

結衣が自分のトーストを小さくちぎって、嬉しそうに駆に見せた。特区の教育機関では、食事はサプリメントや計算された流動食に近いものが多く、こうして「手でちぎって食べるパン」の食感自体が、彼女にとっても新鮮で仕方がなかったのだ。

「本当だ、サクサクだね。……あ、結衣さん、口の横にパンくずがついてる」

「えっ!? どこ、どこですか……?」

慌てて両手でパタパタと自分の頬を触る結衣を見て、駆は楽しそうに笑った。

「あはは、反対側、右側だよ」

「もう、教えてくれるなら最初から言ってください……!」

恥ずかしそうに顔を赤らめる結衣と、それを見て顔を綻ばせる駆。

窓の外には、完璧に管理された特区の冷たい、美しい街並みが広がっている。けれど、今のこの部屋の中だけは、不揃いな手料理の温かい湯気と、3人の穏やかな笑い声で満たされていた。

「冴子さん、このトーストもう一枚焼いてもらってもいいですか?」

「はい。次はもう少し、お酢エキスに合わないくらい、甘いジャムでも添えましょうか」

「あ、ぜひそれをお願いします!」

お腹も心もじわじわと満たされていく中、3人ののんびりとした朝は、どこまでも優しく過ぎていくのだった。

ごちそうさまでした、と3人で食器を片付け終えたあと。

「よし! 食後の運動がてら、この部屋の機能をもう少し勉強してみよう。結衣さん、ちょっと手伝って」

「えっ? お勉強ですか……?」

首を傾げる結衣を連れて、駆はリビングの中央に立った。

昨日はミストシャワーのセンサーに驚いて大慌てした駆だったが、一晩経って、少しだけこのハイテクな家に興味が湧いてきている。

「冴子さん、この部屋のAIって、音声でどこまで命令を聞いてくれるんですか?」

「基本的には、居住者の安全と快適性を損なわない範囲であれば、どのような口頭指示にも対応いたしますが……」

部屋の隅で片付けをしていた冴子が、怪訝そうに手を止めて振り返る。

駆はにやりと笑うと、天井のセンサーを見上げて、少し大きめの声で呼びかけた。

「ルームAI、起動。……ええと、部屋の照明を、僕の気分の色に変えて」

『――音声コマンドを確認しました。居住者・戌井駆様のバイタルデータをスキャン中……』

部屋のスピーカーから、滑らかな女性の声が響く。

次の瞬間、それまで爽やかな朝の光を再現していた白いLED照明が、一瞬にして「どぎつい蛍光黄緑色」へと変化した。

「うわあああ!? 目が、目がチカチカする……!」

「戌井様の気分って、こんな色なんですか……!?」

黄緑色の光に照らされた駆の顔を見て、結衣が思わずお腹を抱えて笑い出した。リビング全体がまるで怪しい秘密基地か、毒沼のような怪しい雰囲気に包まれている。

「違う、違うんだ! 僕がちょっと緊張してるから、バイタルが混乱してるだけだよ! よし、次は結衣さんの番だ。AI、今度は結衣さんのイメージカラーにして!」

『――了解しました。補助者・結衣様のデータをスキャン。照明を変更します』

フッ、と部屋の照明が切り替わる。

今度は、おもちゃ箱をひっくり返したような淡いピンクと、柔らかなパステルイエローの光が、グラデーションを描きながら壁を優しく包み込んだ。

「わあ……綺麗……」

結衣が嬉しそうに見上げると、光の粒がまるでホタルのように彼女の周りをふわふわと舞い踊る。

「すごい! ぴったりだね、結衣さん。やっぱりAIも分かってるなぁ」

「もう、戌井様、さっきの黄緑色と違いすぎます。ずるいです!」

「じゃあ次は、もっと面白いやつを……。AI、クラブのディスコみたいな感じにして! 音楽もノリノリのやつで!」

『――ディスコ・モードを起動します。音量にご注意ください』

ズンズン、と重低音のビートが床から響き始め、部屋の照明が赤、青、紫と激しく点滅し、ミラーボールのような光の渦がリビング中を激しく駆け巡り始めた。

「うわあ! なにこれ、目が回るー!」

駆は眩しさに手をかざしながら、わざとロボットのような不格好なダンスのステップを踏んでみせる。地下工場での暗い生活からは想像もつかないような、くだらなくて、中身のない贅沢な時間。

「ふふっ、あははは! 戌井様、ダンスが変です!」

結衣も光の点滅に合わせてステップを踏む真似をしながら、少女らしい無邪気な声を上げて笑った。特区の教育機関で「完璧な人形」になることだけを求められてきた彼女が、今、激しく光るライトの下で、誰よりも人間らしく、楽しそうにステップを踏んでいる。

「……やれやれ」

部屋の隅で、赤や青の光に交互に照らされながら、冴子が静かにため息をついた。

「戌井様、結衣様。食後の運動としては少々激しすぎます。それに、その光の点滅は私の網膜にも少々優しくありません」

「あ、すみません! AI、ストップ! 通常モードに戻して!」

駆が慌てて叫ぶと、ズンズンという重低音はピタリと止まり、リビングは何事もなかったかのように、元の穏やかな朝の光へと戻った。

激しい光のあとの静けさの中で、駆と結衣は息を切らしながら、顔を見合わせてまた「くすくす」と笑い合った。

特区のAIに無駄な命令を出して笑い合えるこの空間こそが、今の駆にとって、間違いなく本物の「楽園」だった。










「ふぅ、遊びすぎてちょっとお腹が空いてきたかも……」

「戌井様、さっき朝ご飯を食べたばかりですよ」

ソファにぐったりと倒れ込む駆を見て、結衣が呆れたように笑った。

そんな二人の様子をじっと見つめていた冴子が、すっと人差し指を立てて、いつも通りの静かなトーンで告げた。

「お二人とも、良い運動の後は、さらに有意義な時間が待っております。……そう、お掃除とお洗濯です」

「えっ、お掃除? でもこの家、自動でお掃除ロボットとかがやってくれるんじゃ……」

駆が不思議そうに首を傾げると、冴子は少しだけ厳しい目を向けた。

「もちろん、自動の清掃ドローンは配備されております。ですが、人間の手でしか拭い去れない『心の澱み』というものが家には溜まるのです。それに、戌井様が今着ていらっしゃる衣服、そして先ほど落とされたタオルの洗濯もございます」

「あ、タオルの洗濯……! 確かに、あれは僕のせいです。やります!」

駆はガタッと勢いよくソファから立ち上がった。地下工場では「自分の身の回りのことはすべて自分でする」のが絶対のルールだったため、手伝いと言われると体が勝手に動いてしまうのだ。

「私もお手伝いします! 冴子さん、私は何をすればいいですか?」

結衣も楽しそうにエプロンの紐を結び直した。

こうして、特区の最高級住宅であるはずの邸宅で、3人の「だらだらとした大掃除」が始まった。

まずは洗濯からだ。昨日、結衣が教えてくれた全自動のボックスに、駆の着替えた作業着や床に落ちたバスタオルを投げ込む。

「AI、デリケート素材、除菌消臭モードで洗浄を開始してください」

結衣がボックスのパネルに話しかけると、カシャリと音がして、透明なガラスの向こうでナノバブルの泡がぶくぶくと湧き上がり、衣服が優しく回り始めた。

「おお……やっぱりこれ、ずっと見てられるなぁ……」

駆は洗濯機の丸い窓にピタリと顔をくっつけ、泡の中でぐるぐる回る自分のボロ作業着を、まるで水族館の魚でも見るかのような目で凝視している。

「戌井様、あまり近づきすぎるとスキャンセンサーが誤作動いたします。……次はリビングの雑巾がけに移りますよ」

冴子から手渡されたのは、ハイテクな特区にはおよそ似つかわしい、真っ白で四角い、ごく普通の綿の雑巾だった。

「特区の床材は特殊なナノコーティングが施されておりますが、こうして人の手で乾拭きをすることで、独特の美しい光沢が保たれるのです。さあ、どうぞ」

「了解です、冴子先生!」

駆と結衣は並んで床に膝をつき、大理石の滑らかなフローリングを「せーの」で拭き始めた。

「あはは、戌井様、早すぎます! ちゃんと隅っこも拭いてください!」

「これでも地下のコンクリート磨きで鍛えたんだよ! スピードだけなら負けないからね!」

勢いよく雑巾を滑らせる駆だったが、特区の床があまりにもツルツルと滑るため、勢いが余ってズサーッとリビングの端の壁まで滑っていき、頭をゴツンとぶつけてしまった。

「いたたた……」

「もう、大丈夫ですか!? 戌井様って、天才プログラマーなのに、なんだか時々すごく不器用ですよね」

結衣はまたお腹を抱えて笑い、その楽しそうな笑い声が、広いリビングに木霊した。

「……ふふ」

そんな二人を後ろから見守っていた冴子の口元から、今度は本当に小さな、けれど確かな優しい笑みがこぼれていた。

いつも主人の顔色を窺い、完璧な機械として動くことだけを求められてきた家政婦の仕事。けれど、目の前で雑巾を持って頭をさすっている少年と、それをからかって笑っている少女の姿は、冷たい特区の家を、本当の「我が家」へと変えていくようだった。

「お二人とも、手が止まっております。そこが綺麗になったら、次はベランダの窓拭きですよ。……それが終わったら、お昼ご飯は特製の手作りオムライスにいたしましょう」

「オムライス!? やったぁぁ!」

「私、ケチャップでハート描きたいです!」

不格好で、だらだらとした、けれどこれ以上ないほど愛おしい午前中の時間が、3人の間にゆっくりと流れていった。

よし、窓拭きもこれにて完了!」

駆が最後のガラスをピカピカに磨き上げると、リビングにはすっかりお昼のまばゆい太陽の光が差し込んでいた。床も窓も、3人の手によって見違えるほど輝いている。心地よい疲労感と共に、駆と結衣のお腹から、まるで合図を合わせたように同時に「きゅ~」と小さな音が鳴り響いた。

「あはは、お腹ペコペコですね。戌井様、約束のオムライス、作りましょう!」

「うん! 冴子さん、僕たちにできることがあれば何でも言ってください!」

エプロンの紐をきゅっと結び直した結衣に続いて、駆もやる気満々でキッチンへと向かった。

冴子はそんな二人を頼もしそうに見つめながら、「では、まずは卵を割るところから始めましょうか」と、静かに微笑んだ。

完璧な自動調理機「マルチ・フードマイスター」の電源は、今日もオフのままだ。キッチンには、本物のフライパンがカチャカチャと触れ合う音、トントンと小気味よく玉ねぎを刻む音が響き渡る。

「わ、わわっ、結衣さん、卵が、片手で割れない……!」

「あはは! 戌井様、殻が入っちゃってます! スプーンで取りますから待ってください!」

慣れない手つきで卵まみれになっている駆の横で、結衣が器用に殻をすくい取る。地下工場では料理などしたことがなかった駆だったが、結衣に教わりながら、不器用なりに一生懸命フライパンのチキンライスをかき混ぜた。香ばしいケチャップとバターの甘い香りが、キッチンの湯気と共にふわっとリビング全体に広がっていく。

「戌井様、チキンライスを器に盛ってください。卵は私が仕上げます」

冴子がフライパンを握ると、その動きは流れるように美しかった。トントンと持ち手を叩くだけで、黄色いラグビーボールのような美しいオムレツが、チキンライスの塊の上にふわりと乗せられる。

「うわあ……すごい、魔法みたいだ……」

「これが職人の技です、戌井様。さあ、結衣様。仕上げをお願いいたします」

「はい!」

結衣は嬉しそうにケチャップのボトルを手に取ると、駆のオムライスの端から端まで、真剣な表情でノズルを動かした。真っ赤なケチャップで描かれたのは、不格好だけれど、とても大きな綺麗なハートマークだった。

「できました! 戌井様、どうぞ!」

「ありがとう、結衣さん! 食べるのがもったいないくらい可愛いね」

「もう、恥ずかしいから早く食べてください……!」

照れくさそうに笑う結衣を囲んで、3人は再びガラスのテーブルへとついた。

「いただきます!」

駆がスプーンでオムライスの真ん中にそっと刃を入れると、とろりと半熟の卵がチキンライスを包み込むように溢れ出た。大きく一口すくって、口へと運ぶ。

「……っ、美味しい……!!」

じっくり炒められた玉ねぎの甘み、チキンの旨味、そして何より、冴子が絶妙な火加減で仕上げた卵のふわふわ感が、口の中で完璧なハーモニーを奏でた。結衣の描いたケチャップの酸味が、さらにその味を引き立てている。

「最高です、冴子さん、結衣さん! 自分でちょっとだけ炒めたからかな、昨日食べたどんな高級料理よりも、ずっとずっと美味しい!」

「良かったです。私も、こんなに誰かとワイワイしながらご飯を作ったの、初めてで……すごく楽しいです」

結衣も自分のオムライスを美味しそうに頬張りながら、本当に幸せそうな笑顔を浮かべた。特区の無機質な教育機関では、食事はただの「栄養補給」でしかなかった。けれど、こうして誰かのために作り、誰かと美味しいねと言い合う食卓が、こんなにも心を温かくしてくれるなんて知らなかったのだ。

「……ふふ。お二人がそこまで喜んでくださるなら、朝から腕を振るった甲斐がありました」

冴子も自分の分のオムライスを上品に口へ運びながら、静かに、けれど心の底から満足そうに目を細めた。

窓の外には、相変わらず冷徹で、完璧に管理された特区の街並みが広がっている。けれど、この部屋の中に流れる温かい空気だけは、どんなテクノロジーも侵せない、3人だけの特別な「楽園のルール」で守られているようだった。

「冴子さん、これなら僕、毎日お掃除もお洗濯も頑張れちゃいます!」

「調子の良いことをおっしゃる方は、午後の皿洗いも担当していただきますよ、戌井様」

「ええっ!? あはは、了解です!」

スプーンが器に当たる軽やかな音と、絶えない笑い声。お昼の光に包まれた賑やかな食卓は、どこまでも優しく、のんびりとした時間を刻み続けていた。

「お皿、どんどん洗っちゃいますからね!」

食後の宣言通り、駆はキッチンの流し台の前に立ち、袖を大きくまくり上げていた。

隣には、洗い終えたお皿をふきんで受け取る係の結衣が並んでいる。冴子は「では、私は少し失礼して、リネンの補充をしてまいります」と、二人にキッチンを任せて静かに奥の部屋へと向かっていった。

こうして、広いキッチンには駆と結衣の二人きりになった。

蛇口から流れるぬるま湯の音と、洗剤の泡がパチパチとはじける音が心地よく響く。

「戌井様、手際がいいですね。プログラマーの方って、ずっとパソコンの前に座っているイメージでした」

結衣が、駆から手渡された真っ白な大皿を慣れた手つきで拭きながら、感心したように声をかけた。

「あはは、これでも地下工場にいた頃は、自分の食器や道具は全部手洗いが基本だったからね。油断するとすぐカビが生えちゃうような環境だったから、洗うスピードだけは自信があるんだ。……ほら、次、お椀いくよ!」

「あ、はい! ……ふふ、なんだか不思議ですね」

結衣はお椀を受け取りながら、窓の外の眩しい青空へ視線を向けた。

「私、ずっと怖かったんです。特区の教育機関にいた頃、いつかどこかの家に配置されるって決まった時から……。きっと冷たくて、命令ばかりされて、ロボットみたいに働かされるんだろうなって。でも、戌井様は全然違いました」

「僕? 僕なんて、昨日お風呂の出し方も分からなくて大慌てしてただけの、ただの役立たずだよ」

「そんなことないです。お風呂のことも、お酢のことも、さっきのAIのことも……あんなに楽しそうに笑って、何度も『ありがとう』って言ってくれる主人様なんて、特区には絶対にいません。私……戌井様の担当になれて、本当によかったです」

結衣は少し顔を赤らめながら、けれど真っ直ぐに駆を見つめて、心の底からの言葉を紡いだ。

その素直な瞳に見つめられ、今度は駆のほうが照れくさくなってしまい、慌ててスポンジを動かして泡を飛び散らせた。

「わ、わわっ、ごめん! 泡が飛んじゃった!」

「もう! 戌井様、せっかく真面目なお話をしてたのに!」

二人はまた顔を見合わせて、キッチンで小さく笑い合った。

お皿洗いを終えた二人は、リビングの真ん中にある、信じられないほど柔らかくて大きな高級ソファへと移動した。

お腹はいっぱいで、お家の中はピカピカ。窓から差し込む午後のポカポカとした日差しが、二人の瞼をどうしようもなく重くしていく。

「ふぁ……なんだか、急に眠気が……」

駆が大きなあくびをして、ソファのクッションに体を深く沈めた。地下工場では硬いコンクリートの床に薄い敷布団一枚だったため、この雲の上にいるようなソファの座り心地は、それだけで極上の催眠術のようだった。

「お疲れ様です、戌井様。午前中、たくさん動きましたから……」

隣に座った結衣も、トロンとした眠たげな目でコクコクと頭を揺らしている。

「結衣さんも、お昼寝しなよ。……ここでは、誰にも遠慮しなくていいんだから」

駆が微睡みの中でそう呟くと、結衣は嬉しそうに、けれど少しだけ緊張しながら、「じゃあ、失礼します……」と、駆の隣でそっと体を丸めた。

静かなリビングに、二人の穏やかな寝息だけが交互に響き始める。

そこへ、奥の部屋から戻ってきた冴子が、足音を立てずにすっと近づいてきた。ソファで無防備に丸くなって眠る駆と結衣の姿を見て、彼女はいつもの無表情をほんの少しだけ緩めると、抱えていた柔らかな毛布を、二人の体にそっと優しく掛けた。

「どうぞ、良い夢を。……我が家の、小さなお二人さん」

冴子がリビングのカーテンを少しだけ閉めると、部屋は心地よい木漏れ日のような明るさになった。

外の世界がどれほど冷たく管理されていようとも、この毛布の下にある小さな温もりだけは、誰にも邪魔させない。3人の穏やかな午後は、静かに、そしてどこまでも優しく流れていくのだった。

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