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戌井くんの国家論  作者: nodokara
第一章
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第一章

会場を埋め尽くしていたのは、サーバーラックが発する排熱の匂いと、何百人もの人間が放つ息苦しいほどの熱気だった。

ステージ中央に設置された巨大なホログラムスクリーン。そこには、数万手先まで計算し尽くされた極限の盤面が、冷徹な青い光を放ちながら浮かび上がっている。

戌井駆の組み上げた将棋プログラム『アポ』は、対局開始からわずか四十七手目で、すでに相手の思考の癖を完全に学習し終えていた。そこから先は、ただの作業だった。相手がどれほど必死に奇策を練ろうとも、どれほど時間をかけて泥臭い防戦を試みようとも、駆のアルゴリズムにとっては「すでに分かりきったログ」をなぞっているに過ぎない。

カチ、と静かな電子音が響く。

『アポ』が、一切の躊躇なく、最後の一手を指した。

【▲2二金】

その瞬間、巨大なホログラムスクリーンの対面に鎮座していた、国家プロジェクトの結晶──数百億円の政府予算と最新鋭のスーパーコンピュータを惜しみなく投入された国家最高峰の将棋AI『タケミカヅチ』は、完全に沈黙した。

敵陣の奥深くに孤立していた電子の『王将』は、既に退路を断たれている。上下左右、どこへ動こうとも次の瞬間には確実に取られる、完璧な、そして残酷なまでの詰みの形。

対局席の向こう側、白衣を着た政府お抱えの天才科学者や、国家プロジェクトの責任者たちが、信じられないものを見る目でモニターを凝視したまま凍りついている。彼らの顔は青ざめ、額からは大粒の汗が滴り落ちていた。

「……参りました」

システムが自動生成した合成音声が、敗北を告げる。

一瞬の、耳が痛くなるほどの静寂。

それから、国家の威信が崩壊した衝撃と、一人の青年が人類の歴史を塗り替えた興奮が混ざり合い、鼓膜を破らんばかりの歓声と怒号のような拍手が津波となってステージに押し寄せた。フラッシュの光が激しく明滅し、暗い会場を一瞬ごとに白く染め上げる。

「決まったあぁぁ! 圧倒的! 国家的予算で組まれた最強のAIを、個人開発のプログラムが完全に打ち砕いた! 第14回将棋プログラミング選手権、優勝は、戌井駆氏!!」

実況のアナウンサーが絶叫し、解説のプロ棋士が「これは将棋の歴史、いや、人工知能の歴史を数十年進めてしまったかもしれない……」と震える声で漏らす。国家が総力を挙げても到達できなかった「最適解」に、駆はたった一人で、それも私的な環境でたどり着いてしまったのだ。

その狂乱の中心で、十九歳の青年、戌井駆は、椅子の背もたれに深く体重を預けたまま、形の良い唇の端を滑らかに釣り上げた。

「……ふっ」

声にもならない、静かな微笑だった。それは、かつて人間の限界を競う過酷な奨励会に身を置き、そこで実力が足らずに退会した彼が、人間としての自分の限界をアルゴリズムによって完全に超越・精算した瞬間でもあった。

喧騒の裏、出口へ向かう駆の前に、黒塗りのリムジンが停まっていた。特区の職員が恭しくドアを開ける。駆は、泥一つついていない漆黒の車体を前にして、一瞬だけ足を止めた。

「……ここ、汚しちゃわないかな」

駆はつぶやき、履き古したスニーカーの底を念入りにマットでこすってから乗り込んだ。

シートは驚くほど深く、沈み込むような感触が身体を包む。かつて硬いコンクリートの上で仮眠をとっていた日々とは、明らかに空気が違った。目の前にはシャンパングラスが並び、モニターには先ほどまで彼が構築していたアルゴリズムが映し出されている。

車が滑り出す。路面の振動はサスペンションが完璧に消し去っていた。

駆は窓の外を見た。地下会場を出て、地上へと続くスロープを登っていく。車内で駆は端末を取り出すと、周囲の状況など目に入らない様子で、再びコードの海へと意識を沈めた。

「ここ、変えられるな。分岐をもっと効率的に……」

リムジンの外では、彼を乗せた車が整然とした速さで街を抜けていく。駆は、自分がどこへ運ばれているのかも、周囲がどう扱おうとしているのかも気にかけていない。

その熱狂から、わずか数時間後。

「うわあ……。本当に、空が広いんですね」

専用の自動運転車が地上へのスロープを登りきった瞬間、駆は窓の外を見上げ、無邪気な子供のように目を輝かせていた。

地下五十メートル。そこが昨日までの駆の世界のすべてだった。カビと鉄錆の匂いが充満するインフラ工場で、昼も夜もなく、都市の排泄物を処理する巨大なパイプを保守するためだけに身体を壊しながら働き続ける毎日。そこには空なんてなかった。ただ煤けたコンクリートの天井と、高熱の蒸気が吹き出す配管があるだけだった。

しかし、自作のプログラム『アポ』が叩き出した驚異的な勝率と、それによって得た巨額の「優勝懸賞金」が、駆の人生を一夜にして上の世界へと押し上げたのだ。

自動運転車は、特区を囲む巨大なセキュリティゲートの前で静かに停車する。

網膜スキャンと同時に、駆の個人口座へと振り込まれた懸賞金のデジタル残高、そして『アポ』のライセンス認証が瞬時に行われ、重厚な防壁が左右にスライドした。

「驚くのも無理はない、戌井くん。だが、君をここに引っ張り上げたのは懸賞金だけじゃない」

自動運転車の隣のシートで、キーボード型のホログラムディスプレイを滑らかに叩いていた男──榊が、眼鏡の奥の鋭い瞳を和らげて微笑んだ。

榊は、防衛省の国家級AIを難解な迷路にハメて脳を焼き切った駆の『アポ』、そのソースコードの美しさと異常なまでの局所最適化能力に最も衝撃を受け、彼を最底辺の地下工場から見初めた張本人だった。

「君のあの『アポ』のプログラミング能力は、今の国家インフラの最適化にどうしても必要なんだ。僕が君の才能を保証する」

「……あ、ありがとうございます。榊さんにそう言ってもらえるなんて、すごく嬉しいです」

駆は前髪を揺らしながら、これ以上ないほど純朴で、優しい笑顔を榊に返した。地下の工場では、どれだけ効率的なコードを私的に組んでみせても、上司からは「黙って手を動かせ」と怒鳴られるだけだった。自分の技術が、誰かに必要とされる。その事実が、駆の胸の奥をじんわりと満たしていく。

ゲートを潜り抜けた瞬間、駆の視界を埋め尽くしたのは、まばゆいばかりの白亜のタワーマンション群と、計算され尽くした緑豊かなストリートだった。

通りを行き交うのは、汗水垂らして働く労働者ではない。仕立ての良い服を着て、穏やかな笑みを浮かべた若き富裕層の男たち。そして、その横を歩く、信じられないほど美しく、艶やかな衣装をまとった何人もの女性たちだった。

駆は窓の外の光景を見つめながら、かつて地下の粗末な端末で貪るように読んだ新旧の教科書の記述を、対比するように思い出していた。

かつての古い教科書に躍っていたのは、**【一億総活躍社会】や【男女共同参画】**という、今思えば空虚な美名だ。男も女も、そして本来なら守られるべき若者さえもが「労働力」という名の歯車として等しくすりつぶされ、老人の福祉を維持するためだけに税金を吸い上げられていた時代。誰もが平等を叫びながら、その実、誰も子供を残せず、国全体が息もできないほどの酸欠に陥っていた、かつての日本。

(あの頃の言葉は、まるで呪いのようだった……)

しかし、大転換を迎えた今の教科書に書かれている言葉は、あまりにも明快で、道理に満ちている。

そこには、【若年層優先主義ジュベノクラシー】、そして**【一夫多妻制による少子化の完全克服】**という力強いインデックスが刻まれていた。

利権と汚職まみれだった高齢者の選挙権を剥奪し、国家のリソースのすべてを若者と繁殖へと集中させる。女性に男と同じ労働を強いる歪んだ平等を捨て、経済力のある男の欲望を肯定する代わりに「完全な庇護」を提供する。これこそが、この国を底なしの沼から救い出した、新世界の完璧な統治システムなのだ。

「どうした、戌井くん。まだ、眩しいか」

「あ……すみません、榊さん。なんだか、本当に夢みたいで。僕みたいな、奨励会も落ちて、地下でパイプを磨くことしかできなかった人間が、こんな綺麗な場所にいていいのかなって」

「君は自分の価値を過小評価しすぎだ。君の頭脳は、この新世界の、何百万人もの人間が行き交う物流やエネルギー、その膨大なインフラの最適化を担うためにあるのだから」

自動運転車は緩やかに減速し、特区の一画へと滑り込んでいく。美しく区画整理されたエリアに佇む、流線型の近代的な超高層タワーマンションが、彼らを迎えるようにそびえ立っていた。

榊は一枚の電子カードを駆の手元に滑らせた。

「これは準市民のIDだ。最上階の部屋と……そして、君のその圧倒的なプログラミング能力によって『保護』される資格を得た、女性のデータが入っている」

「僕が……この人を守るんですか?」

駆は少し顔を赤らめ、困ったように、けれど本当に嬉しそうな笑顔を咲かせた。

エントランスを抜け、最上階へと直行する超高速エレベーターのカプセルに乗り込んだ瞬間、駆の身体に心地よい重力がかかった。静かに上昇していくデジタル表示を見つめながら、駆はふと、自分が潜り抜けてきた「試練」の重みを噛み締めていた。

「改めて、将棋プログラム選手権の優勝、おめでとう戌井くん」

榊が、ホログラムの端末を閉じながら駆に語りかけた。

「地下の『歯車セカンド・クラス』が、合法的かつ一瞬でこの特区へ上がってくるための『試練』を突破した者は、今年の特区全体でも君を含めて数人しかいない」

この国において、地下の住人たちに与えられた「上に上がるための試練」は、極めて厳格で、同時に完璧に平等な合理主義の塊だった。

かつての腐敗した民主主義の時代には、親の七光りや利権の汚職、既得権益のコネを持った者だけが甘い汁を吸い、底辺の若者がどれだけ努力しても上に上がれない絶望の社会があった。今の国家体制は、その不平点を力尽くで破壊したのだ。

ルールは一つ。「既存の国家エリートや最新の政府AI(防人)を、自らの圧倒的な知力と技術力で凌駕し、最適化のロードマップを提示すること」。

「かつての日本なら、君のような独学の天才は、学歴がないというだけで一生あの泥水の中で埋もれていたはずだ」

「……そうですね。僕、学校にもまともに行けなかったですから。でも、この国の試練は、僕が書いたコードの『結果』だけをちゃんと見てくれました」

知性やプログラミング能力という、未来を創るための「真の実力」だけを査定する試練。それを突破した者には、労働からの完全な解放と、複数の女性を最上の環境で庇護する資格が与えられる。一見すると冷酷な格差。しかし、泥沼の汚職と不条理な格差に塗れていた旧時代に比べれば、己の実力一つで楽園の切符を捥ぎ取れるこの試練のシステムこそが、地下の若者たちにとっては唯一の、そして絶対的な「光」だった。

チン、という電子音と共にエレベーターの扉が開く。

「さあ、君の部屋だ。試練を乗り越えた対価を、存分に受け取るといい」

榊に見送られながら、駆は厚い絨毯が敷かれた廊下を進み、自分に与えられた部屋の重厚なドアの前に立った。

(これでようやく、あの過酷な労働から解放されたんだ……。これからは、僕の技術で、僕の周りの人たちを優しく幸せにするんだ)

切実な安堵を胸に、駆が電子カードをかざすと、静かに扉が開いた。

そこには、新しい主の到来を緊張の面持ちで待つ、二人の女性の姿があった。

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