第7話 朝のパン
夜明け前に目が覚めてしまった。
原因は、たぶん鳥の声だ。窓の外で、何種類もの鳥が、それぞれの節回しで鳴いている。俺は都市部にしか住んだことがないので、外から聞こえてくる音は、車の走行音やクラクション、人の生活音ばかりだった。鳥の声で目覚めるのが「普通」のことだと思える日も、いずれ来るのだろう。
ベッドから起き上がり、窓を開けた。
冷たい空気が、頬と腕を撫でた。森の匂い、湿った土の匂い、それから、どこかから漂ってくる、薪を燃やす匂い。誰かがすでに朝食の支度を始めているのだ、と思った。
居住棟の小さな台所に降りていくと、すでにクレアがいた。
白い軍服ではなく、現地で買い揃えた、薄い灰色のブラウスとロングスカートを身につけている。髪は後ろで簡単にまとめてあった。
「おはよう」
「おはようございます」
「早起きだね」
「鳥の声で目が覚めました」
「俺もだ」
クレアは、艦内から運び込んだ電気ケトルでお湯を沸かしていた。隣に、現地で手に入れたばかりの素朴な陶器のティーポットが置いてある。
「私たちの食料、いずれは尽きてしまいますね」
「合成食なら、まあ、当面は問題ないけど」
「でも、ずっと合成食ですか」
彼女は、手元の作業を続けながら、横目で俺を見た。指摘されると、確かに、それは寂しい。
「だね」
「現地の食材にも、慣れていった方がよさそうですね」
「うん」
ティーポットに茶葉を入れ、湯を注ぐ。湯気の中に、知らない香りがほのかに広がった。城のガルウィン卿が包んでくれた、現地の茶葉だ。
朝食を簡単に済ませてから、俺たちは、城下町に出かけることにした。
目的は、買い物と、町の様子の観察。要するに、ちょっとした散歩だ。
拠点から城下町までは、馬車を使わず、徒歩で半時間ほどの距離。歩いて行くと決めたのは、クレアだった。「この国の人たちと同じ目線で歩きたい」というのが理由だった。
森を抜け、街道を下る。途中、荷車を引いた農夫とすれ違った。彼は俺たちを一瞥して、ほんの少し怪訝そうな顔をしたが、すぐに視線を戻して、自分の荷車を引いていった。
「私たち、目立っていますね」
「うん」
俺もクレアも、髪の色が周りと違う。それでも、現地の服に着替えていれば、よそから来た商人、くらいの認識で通り過ぎてもらえるようだった。
城下町の南門を抜けると、すぐに市場の喧騒が聞こえてきた。
ドローン越しに何度も観察した光景を、自分の耳と目で受け止める。値段を呼ばわる商人の声、子どもの笑い声、馬のいななき、荷車の車輪の軋む音。それらが渾然となって、空気そのものに重みを持たせている。
「すごいな」
「はい」
クレアは、市場の入口で立ち止まったまま、しばらくの間、ただ目を細めて、その情景を見ていた。
パン屋に立ち寄った。
店の構えは小さい。煉瓦造りの壁に、木の看板。看板にはパンの絵と、パン屋の名前らしき文字が書かれている。翻訳辞書によれば「ヘナの店」と読むらしい。
『おはようございます』
俺が挨拶すると、店主と思しき小柄な老婦人が、カウンターの向こうから顔を上げた。
『おやおや、見慣れない方々だねえ』
声に警戒の色はなかった。むしろ、新しい客に対する、純粋な興味のような響きがあった。
『ええ、遠くから来ました。お勧めの一品はありますか』
老婦人は、にっこり笑って、一番手前の籠を指差した。
『これさ。塩と胡桃を入れた、固焼きのパン。日持ちするから旅の人にいい』
『二つ、いただきます』
『あいよ』
老婦人がパンを紙に包む間、俺は店内を見渡した。窯はカウンターの奥に作り付けてあり、薪の火が静かに燃えている。粉を捏ねる作業台、棚に並んだ素焼きの瓶、小麦粉の袋。すべてが必要最低限で、けれども清潔だった。
『あんたら、商人かい?』
『そんなところです』
『どこの国から』
『……このあたりじゃ誰も知らないような、遠いところからですよ』
老婦人は、不思議そうに眉を上げたが、それ以上は問わなかった。代わりに、彼女は、紙包みの上に、もう一個、小さな丸いパンを乗せた。
『おまけだよ。試しにお食べ』
『え、いいんですか』
『この街は、よその人を冷たくはしないさ』
俺は何度か頭を下げて、銀貨を一枚、カウンターに置いた。城に着いた日にエリアーナから「滞在中のお礼に」と贈られた、王家の刻印のある銀貨だ。
老婦人は、その銀貨を一目見た瞬間、目を見開いた。
『これは、お客さん――』
『どうかしましたか』
『……いや、何でもないよ』
彼女は黙って銅貨を数えながら、俺の顔をちらちらと見ていた。何かを察した、というより、察したくて察しきれない、という戸惑いの表情だった。
市場をひととおり巡って、野菜と、卵と、ハーブと、地酒を買った。
帰り道、俺はおまけにもらった丸いパンを、半分にちぎって、クレアに渡した。
「食べる?」
「はい」
二人で歩きながら、ぱくぱくと食べた。表面はかりっと固く、中はふわっと柔らかい。塩がほんの少しだけ効いていて、噛むほどに小麦の甘さが出てくる。
「美味しい」
「はい。とても」
クレアの返事には、いつもより少しだけ、余韻のようなものがあった。
しばらく歩いてから、彼女は付け加えた。
「人が手で作るものには、合成食には出せない、揺らぎがあります」
「揺らぎ?」
「焼き加減のばらつきとか、塩の偏りとか、そういうものです。それが、味の奥行きになっている、ような気がします」
「それって、つまり、作り手の気持ちみたいなものが乗ってるってことか」
彼女は少し黙ってから、
「分かりません」
と答えた。
「分からないけど、これが美味しいと感じている、ということだけは確かです」
「うん」
俺は、それでいいと思った。
拠点近くまで帰ってきたとき、ポケットに入れていた端末が震えた。取り出してメッセージを確認する。
《艦隊偵察ログ更新あり。西部国境の帝国軍、二日分前進》
「予定より早いですね」
「うん」
俺はクレアと顔を見合わせた。
日々の暮らしを丁寧に積み上げていく一方で、地平線の向こうでは、別の時計が、別の速度で進んでいる。それを意識しないわけにはいかない。
「ガルウィン卿に連絡する。明日にでも城に行こう」
「はい」
居住棟に戻り、俺は買ってきた野菜を、台所の作業台に並べた。
夕食は、現地の食材で作るスープと、買ってきたパンと、それから、クレアが艦内から持ってきていた合成食のチーズもどきだ。
料理はゲームの中でもやったことがある。だが、本物の野菜を、本物の包丁で刻むのは、初めてだ。じゃがいもの皮を剥きながら、俺は何度か手を滑らせかけた。
「不器用ですね」
「うるさいよ」
クレアが、めずらしく口元に微かな笑みを浮かべた。
窓の外で、夕日が沈んでいく。
西の空が赤く染まる先には、帝国軍の野営地がある。けれども、今この瞬間、台所には湯気が立ちのぼり、まな板の上ではじゃがいもの皮が落ちていく。
今日のところは、それでいい、と俺は思うことにした。
1話飛ばしてしまっていましたので修正します(2026/7/30)。




