第3話 見えざる影
翌朝、艦内のコンソールに「翻訳辞書 初期版(Ver.0.1)」という淡い緑の通知が点灯していた。
俺はまだ寝起きの目をこすりながら、自席のディスプレイを覗き込んだ。
「もう完成したのか」
「おはようございます、司令」
いつのまにかブリッジに来ていたクレアが、振り返らずに言う。クレアは俺より早起きだ。というより、彼女がいつ眠っているのかをよく知らない。
「ええ。簡単な日常会話と、看板や貨幣の文字は読めるようになりました。学術的な文献や、専門用語にはまだ対応していません」
「それで十分だよ」
ディスプレイには、昨日録音された市場の音声に、半透明の字幕が重ねられて再生されていた。
『今日のじゃがいもは大きいね』
『北の畑のだ。今年の出来はまずまずだよ』
市場のどこにでもありそうな会話だった。
俺は思わず笑ってしまった。三日間、画面の向こうで黙々と動いていた人々が、急に実感を伴って動き始めたような気がした。
午前中、ドローンを増やして、首都らしき大きな街と、西部国境付近の観察を並行して進めることにした。
首都――というのはまだ仮称だが、城壁の街よりも遥かに大きく、中央には白っぽい石造りの城が建っている。城は派手ではない。塔は四つだけ。装飾は控えめで、何度も補修された跡がある。むしろ清潔感のある、落ち着いた佇まいの城だ。
「立派な城だけど、贅沢な感じはしないね」
「内部の映像は撮れていませんが、外装の規模から推測すると、機能性を重視した造りと思われます」
クレアの声を聞きながら、メインスクリーンに表示された城を眺める。塔の上では、一定の間隔で兵士が歩哨に立っている。歩哨は退屈そうではなく、姿勢が良い。規律のある軍だ。
城の中庭で、若い女性が数人の侍女を伴って、噴水のそばに立っている映像が映った。淡い青のドレス。長い髪は薄い金色。遠目で表情までは読めないが、姿勢の良さがやはり目を引いた。
「身分の高い女性ですね」
「だろうね」
ドローンはそれ以上近づかない。誰かに発見されるリスクをまだ冒したくはなかった。
西部国境の方は、状況が変わりつつあった。
昨日確認した三万の軍勢の手前、二日ほどの行軍距離のところに、小さな砦がある。砦の規模は小さく、駐屯している兵は二百ほど。砦の周辺には、簡易な木柵の野営地がいくつも追加で築かれていた。
「援軍が集まっているようですね」
「砦の方の兵は、何人くらいまで増えている?」
「全部で千ほど。ただ、装備は雑多です。正規兵と、地方から駆り集められた農兵が混在しています」
千、と聞いて、俺は無言になった。
あちらは三万。
数字の上では、勝負にならない。
砦の北にある小さな村では、住人が荷車に荷物を積んでいるのが見えた。子どもや老人を乗せ、男は鍬や鋤を持って、東へ歩き出している。
「避難民、ですね」
「うん」
ゲーム内なら、戦争マップは戦闘員しかいない無機質な空間だった。村が攻められるイベントが起きても、住人はテキストで「逃げました」「避難しました」と表示されるだけで、実際に逃げる人々の姿が映ることはなかった。
今は違う。
荷車の上で泣いている小さな子どもの姿が、ドローンの望遠映像に映る。母親らしき女性が、子どもの背中を撫でながら、何度も後ろを振り返っている。
「クレア、音声、拾える?」
「拾えます。でも、聞きたいですか?」
俺は少し間を置いて、首を横に振った。
「いや、いい」
「了解しました」
クレアは小さく息を吐いて、音声出力をオフのままにした。
昼食は、艦内の士官食堂のさらに奥にある、小さな個室で取った。
ゲーム内では、艦長の専用ダイニングという設定の部屋だ。広い窓のような壁面ディスプレイに、外の宇宙が映っている。今日はそこに、青い惑星がゆっくりと回っている映像が流れていた。
昼食はパスタもどきと、サラダもどきと、ミネラルウォーター。
クレアは黙って食べている。
俺もしばらく黙って食べていたが、半分ほど食べたところで、フォークを置いた。
「あの軍勢、どうしようか」
「どう、とは?」
「介入するべきかどうか、ということだよ」
俺は腕を組んで、椅子の背にもたれる。
国境の砦に、千の兵。その向こうに、三万の軍勢。
俺たちの艦隊は、軌道上から制圧射撃をすれば、おそらく三万の軍勢を一瞬で壊滅させることができる。それくらいの火力は持っている。
だが、それは正しいことなのか?
俺たちは、彼らの世界の住人ではない。事情も知らない。あの三万の軍勢が「悪」だと、誰が決められるのか。
「介入には、いくつかのリスクがあります」
クレアが、フォークを置いて言った。
「第一に、現地の文化と政治の事情を、私たちはまだほとんど把握していません。第二に、軍事介入は、しばしば介入する側の意図とは異なる結果を招きます。第三に、艦隊の存在を一度でも明らかにすれば、それを取り消すことはできません」
「冷静だね」
「冷静でなければなりません。司令の決定は、艦隊の行く末を決めますから」
まっすぐに言われると、少しくすぐったい。
「私個人の意見を述べてもいいですか」
「うん」
俺はうなずいた。クレアが「私個人の意見」を述べることは、ゲーム時代を通じてほとんどなかった。
彼女は、視線をテーブルのナプキンに落として、しばらく言葉を選んでいるようだった。
「あの避難民の親子の映像を見て、私は……不快な気分になりました。何が正しい対応なのかどうかは、私にもわかりません。でも、あの軍勢を放置したまま観察を続けるのは、私にとって、ストレスです」
「ストレス、ね」
「はい」
「俺もだよ」
俺はテーブルの上で、両手を組んだ。
「とはいえ、いきなり制圧射撃みたいな乱暴なことはしたくない。まずは、あの国の事情を、ちゃんと知るところから始めよう」
「具体的には、どうしますか」
「まずは、あの国の統治者が誰なのかを特定したい。さっき中庭にいた女性は、確かに身分は高そうだったけれど、城主だとは限らない。客人として滞在している貴族かもしれないし、城主の縁戚かもしれない。誰がこの国を動かしているのかが分からないと、誰に会えばいいかも決められない」
クレアは目を伏せたまま、少し考えた。
「妥当な判断かと」
「ありがとう」
「観測の重点を首都に移します。市場や酒場での会話、城に出入りする人物の挙動を集中的に追います。住民の会話の量はそれなりにあるので、半日もあれば、何らかの輪郭が見えてくると思います」
「頼む」
俺は少し笑った。クレアも、ほんの少しだけ口元をゆるめた気がした。
午後、ブリッジに戻った俺は、首都に二機のドローンを増派した。
城の中の様子と、城下の住民の会話を、もっと詳しく調べるためだ。誰に会うべきか、どこから話を切り出すべきか。それを決めるには、さらなる情報がいる。
二時間ほどして、クレアが顔を上げた。
「司令、住民の会話と、城に出入りする官僚らしき人物の動きから、いくつか分かったことがあります」
「うん」
「現在の統治者は、若い女王が単独で務めているようです。前王と前王妃がともに数年前に病で亡くなり、当時十代だった一人娘が即位した、という経緯らしいです。名前は『エリアーナ』。年齢は二十一、二というところかと」
「女王か」
俺は少し驚いた。地球のヨーロッパ中世史では、俺が知る限り、女性が君主の座につく例は決して多くない。皆無ではないが、たいていは近親の男性が摂政や宰相として実権を握ることになる。よほど安定した王朝でなければ、若い女性の単独統治は難しい。
「住民は、その女王をどう思っているのか分かる?」
「拾えた範囲では、おおむね好意的です。『お若いが、よくやっておられる』『先王陛下の遺志をよく継いでおられる』という言い方が多く、目立った批判は聞こえませんでした。ただし、これは王都の中心地付近のサンプルに偏っているので、地方の声まで反映しているとは限りません」
「なるほど」
「それから――」
クレアが、いったん言葉を切った。
「先ほど中庭で見かけた青いドレスの女性ですが、年齢と装い、立ち居振る舞いから、その女王本人である可能性は高いと考えています。断定はできません。ただ、中庭から城内に戻る際、衛兵が深く頭を下げて道を空ける所作を見せていました」
「そうか」
俺はうなずいた。仮にあの女性が女王本人だったとしても、いきなり訪ねていくわけにはいかない。けれども、誰がこの国を動かしているのかが分かっただけで、頭の中の地図がずいぶん整理された気がした。
「司令」
「うん?」
「王都の北門で、騎馬の使者らしき集団が出てきました。十騎ほど。西方面、つまり国境方面に向かっています」
メインスクリーンに、王都の北門から出ていく騎馬の列が映った。先頭の騎手は、白い旗と、何かの紋章入りの旗を掲げている。
「使者、か」
「はい」
「あの三万の軍勢のところに行くのか、それとも国境の砦か」
「現時点ではわかりません。経路を追跡させます」
「頼む」
白い旗の意味が、ここでも「交渉」を意味するのかどうかは、まだわからない。ただ、もしそうだとしたら――この国は、戦う前に、まず話そうとしている。
理性的な国だ、とあらためて思った。
メインスクリーンの中で、騎馬の列は、午後の長く伸びた影を引きずりながら、西へと進んでいく。
その背中を、俺たちはただ黙って見送った。
※現地語のセリフは『』で表しています。




