第19話 講和の卓
帝都への正使は、宰相セラフ卿に決まった。
白いひげを胸まで伸ばした、七十前の老人だ。声は穏やかだが、若いころには国境の交渉を幾度も任され、晩年には先王の側近として国政を支えてきた、外交の作法に最も通じた人物だった。
ガルウィン卿は、エリアーナの傍を離れられない。陛下のお留守を、誰かが守らなくてはならない。だから、ガルウィン卿は王城に残り、セラフ卿が王宮の親書を懐に、帝都へ向かうことになった。
俺とクレアは、この使節団に「アウレリアの友邦からの客人」として、同行を許された。
立場は、あくまで補佐だ。発言は、セラフ卿の許しを得てからにすると、出発の前夜、エリアーナの前で約束した。
『当然のことです。けれども、どうぞ、卿のお力になってさしあげてください』
エリアーナは、簡素な白い夜着の上にショールを羽織って、俺たちを送り出してくれた。
帝都までは、シャトルなら、1時間とかからない距離だ。
けれども、俺たちは、その半分以上を、わざと時間をかけて飛んだ。シャトルの内部は、空調も、座席も、地球の旅客機よりずっと快適だ。にもかかわらず、ゆっくり飛ばないと、セラフ卿の身体に、空の旅は応えるかもしれないという気がしたのだった。
窓の外、雲海の上を、夕日が長く照らしていた。
『……なるほど、これが、空を渡る、ということですか』
セラフ卿は、しばらく窓を眺めてから、ゆっくりと言った。
『不思議な、心持ちがいたします』
『お疲れではありませんか』
『いえ。むしろ、長い旅を、半日に短縮していただいて、感謝いたします』
彼は、白いひげを撫でながら、わずかに笑った。
帝都「ザレフィエル」は、王都セレーナの百倍以上の人口を抱える、巨大な都市だった。
城壁は、石を高く組み上げた壮麗な造り。中央には、白と黒の石を組み合わせた、複雑な意匠の宮殿。広場は、王都のものより遥かに広く、行き交う人々の服装も、色とりどりだった。
帝国側は、アウレリアからの正使を、想像していた以上の格式で迎えた。
ヴァロル大公を解放したときに渡した書状が、すでに皇帝の手に届いていたのだ。書状の中で、大公は、敗戦の経緯と、相手側の「奇妙な敗け方」について、詳しく書き連ねていたらしい。
迎賓館で、俺たちは、丸一日、休むよう勧められた。
翌日の午後、俺たちは、宮殿の一室、講和のための小さな会議室に通された。
長い卓を挟んで、片側にセラフ卿、その隣に俺とクレアが座る。反対側に、ヴァルゼン皇帝、皇帝の側近とおぼしき宰相格の老人、それに通訳と書記が一人ずつ。
部屋の壁は、装飾を最低限まで切り詰めてあった。
会談の格を考えれば、これは、皇帝側からの一つの意思表示だった。
ヴァルゼン皇帝は、五十代半ば、肩幅の広い男だった。
短く刈った白髪混じりの黒髪。深い藍色の上着には、最低限の金の縁取り。胸の徽章だけが、皇帝のものらしく、大きな赤い宝石をあしらっていた。
彼は、卓に着くなり、軽く頭を下げた。
『遠路、よくお越しくださった。アウレリアの宰相、セラフ卿とお見受けする』
『陛下にあらせられては、御機嫌うるわしく』
セラフ卿が、深く一礼した。
『陛下のお召しに応じ、我が女王陛下より、親書を持参いたしました』
彼は、革の筒から巻物を取り出し、両手で皇帝に差し出した。皇帝は、自ら手を伸ばして、それを受け取った。
封蝋を解き、巻物を広げ、しばらくの間、無言で目を通した。
読み終えてから、彼は、巻物を、ゆっくりと丸め直した。
『……女王陛下のご文意、よく分かった』
『恐れ入ります』
『もう一度、確かめたい。アウレリアは、属州にも、連邦にも、加わるつもりはない、と』
『はい。けれども、対等な国としての通商と、相互不可侵については、いつでもお話を承る用意がございます』
ヴァルゼン皇帝は、しばらく、卓の上の親書を見つめていた。
彼の表情は、傲慢でも、苛立っているでもなかった。むしろ、長く考えてきた何かを、ようやく決められそうだ、というような、静かな表情だった。
『よろしい』
彼は、短く言った。
『連邦への加入を求めるのは、これをもって、撤回する』
部屋の中の空気が、わずかに、揺れた。
セラフ卿は、白いひげを撫でながら、深く頭を下げた。
『陛下のご寛大に、深く感謝申し上げます』
『寛大ではない。合理だ』
ヴァルゼン皇帝は、微かに、口元を緩めた。
『7万を以ってしても、貴国を屈服させられぬのであれば、10万を送ろうが、20万を送ろうが、結果は変わらぬであろう。であれば、無駄な兵を送るより、貴国と対等な席に着くほうが、私の収支に合う』
飾らない物言いだった。
セラフ卿は、穏やかに、うなずいた。
『陛下のご賢察、おそれいります』
ヴァルゼン皇帝は、それから、視線を、俺の方に向けた。
『……ハヤマ殿、と仰せになるか』
『はい』
『先の戦の指揮を、執られたのは、貴殿、と聞き及ぶ』
『はい』
『一つ、伺ってもよいか』
俺は、隣のセラフ卿に、目を向けた。
セラフ卿は、穏やかに、わずかにうなずいた。
『どうぞ』
俺は皇帝に向き直った。
『なぜ、我が兵を、一人も殺さなかった』
短く、しかし、本質的な問いだった。
俺は、少しの間、考えてから、答えた。
『私たちが持っている力は、この大陸の方々にとっては、強すぎる、と感じております。その力を、人を殺めるために使うのは、私たちの良心が、許しません』
『……良心』
『はい』
『その良心は、貴殿らの軍勢の総意なのか、それとも、貴殿、お一人のものなのか』
『私一人のものです。けれども、私の軍勢は、私の良心に従います』
ヴァルゼン皇帝は、しばらく、俺の顔を見つめていた。
それから、彼は、静かに、笑った。
『……奇妙な御方であるな』
『よく言われます』
部屋の中に、わずかに、笑いの気配が広がった。セラフ卿も、微かに、口元を緩めた。皇帝の側近の老人も、視線を伏せたまま、わずかに肩を揺らしていた。
張り詰めていた空気が、一段、ほどけた。
その日のうちに、講和の枠組みについての、ひととおりの合意が、卓の上に出来上がった。
三本の柱だった。
第一に、相互不可侵。両国は、互いの領土を尊重し、武力をもってこれを犯さない。
第二に、対等な通商。両国の商人は、互いの領土を自由に往き来し、合意された関税のもとで、商いを行うことができる。
第三に、定期的な対話。両国は、毎年、外交使節を交換し、近隣の情勢、貿易の調整、共通の課題について協議する。
いずれも、地球の19世紀ヨーロッパで行われていたような、極めて常識的な枠組みだ。けれども、この大陸の、現在の文明レベルを考えれば、これは、相当に画期的な合意だった。
『この内容を、双方で持ち帰り、最終的な批准に向けて、文面の整理を進めます』
セラフ卿が、合意のたたき台を、丁寧に丸めながら言った。
『よろしい』
ヴァルゼン皇帝は、うなずいた。
彼は、最後に、俺の方を、もう一度、見た。
『ハヤマ殿』
『はい』
『貴殿らが、我が国にも、あの「人型の機械」を紹介くださる日が、いずれ参るのであろうな』
『……陛下が、それを望まれる日が、いつか参りましたら』
『そうか』
彼は、卓に頬杖をついて、しばらく、天井を見ていた。
『私が生きておるうちは、たぶん、そうはならぬであろうな』
彼の声には、わずかな、寂しさのようなものがあった。
『けれども、私の孫か、そのまた孫の代には、見たいものを見られるかもしれぬ』
『はい』
俺は、深く、頭を下げた。
その夜、迎賓館の客間で、セラフ卿は、ふと、ぽつりと言った。
『ハヤマ殿』
『はい』
『今日は、ありがとうございました』
『私は、ほとんど何も』
『いえ。卿のお人柄が、あの席にあったことが、皇帝陛下の御心を、ほどいたのです』
『……それは、ちょっと、買いかぶりです』
『買いかぶりではありません』
セラフ卿は、白いひげを撫でながら、笑った。
『……これで、私も、安心して、隠居できそうです』
『ご隠居、ですか』
『そろそろ、若い者に、外の仕事を譲らねばなりません』
部屋の窓の外、帝都の夜景が、広く広がっていた。無数の灯りが、夜の中に、一つひとつ、ぽつりぽつりと、ともっていた。
その夜景を眺めながら、俺は、長い旅の終わりが、ようやく見えてきたような気がした。




