第20話 星の海に
帝都ザレフィエルから王都セレーナまで、シャトルは、行きと同じくらい、ゆっくりと飛んだ。
雲海の上、夕日の橙色が、機体の外殻を、長く染めていた。
『……ハヤマ殿』
セラフ卿が、ふと、口を開いた。
『はい』
『昔、若いころに、私は、海を渡ったことがございます。三月かかる、長い旅でした。船の上で、何度も、夕日を見ました』
『はい』
『……あの時の夕日と、今日の夕日は、形は同じだが、こちらに伝わってくる重みが、違いますな』
『それは、年齢の違いでしょうか』
『いえ』
セラフ卿は、白いひげを撫でながら、わずかに笑った。
『この夕日が、ようやく落ち着いて見られるようになった、ということなのでしょう』
俺は、それ以上は、何も言わなかった。
夕日は、やがて、雲海の縁の下に、ゆっくりと沈んでいった。
王都に帰還した俺たちを、エリアーナは、玉座の間ではなく、城の中庭で迎えた。
初めてドローン越しに見た、あの中庭だった。噴水と、白い石畳。彼女は、青いドレスではなく、簡素な白い夏物を着ていた。
『お帰りなさい、皆さま』
彼女は、ガルウィン卿と、ロドリク卿と、ラウスト神官長と並んで、俺たちを出迎えた。
『陛下、ただいま戻りました』
セラフ卿が、深く一礼した。
『皇帝陛下と、講和の枠組みについて、合意いたしました。文面の最終整理は、今後、双方の事務方が進めることに』
『……ありがとうございます、卿』
エリアーナの目に、わずかに、光るものがあった。
彼女は、それを隠そうとはしなかった。代わりに、彼女は、ガルウィン卿に向かって、軽くうなずいた。ガルウィン卿は、慎ましく、しかし長く、頭を下げた。
ラウスト神官長は、何も言わなかった。
ただ、彼の口元には、これまで一度も見たことのない、穏やかな表情が、わずかに浮かんでいた。
その日から、季節は、ゆっくりと進んでいった。
夏の盛り、麦の穂が、城下町の郊外で、黄金色に揺れた。
秋が来た。市場には、果物の籠が、いつもより多く並んだ。ヘナの店には、新作の、胡桃と蜂蜜のパンが加わった。
冬が来た。城下町の屋根に、薄く、雪が降った。子どもたちが、それを集めて、小さな雪の像をつくっていた。
俺とクレアは、相変わらず、丘の上の拠点に住んでいた。
艦隊の艦内資材を切り詰めていけば、あと10年は、無理なく暮らせる、とクレアが計算してくれた。10年あれば、現地の素材だけで、自給自足の体制を整えていける。
日中は、王宮や、各地の村々を回って、技術と知識の伝授を、急がず進めた。鍛冶のハーカン親方の弟子たちは、艦内素材で作った正確な温度計を使いながら、自分たちの目を、磨き続けていた。サウェ村の井戸は、村の若者たちが自主的に組んだ「水番衆」が、月に一度、清掃と検査を続けていた。
ハーレ村のテド老人は、冬の半ばに、家族に看取られて、亡くなった。葬儀は、村人と、若い神官たち、それから、リオが、皆、ぽろぽろと泣きながら、見送った。テド老人は、最後の数日、若い者に、畑のすべてを引き継いだ、と聞いた。
誰もが、それぞれの場所で、それぞれの時間を、生きていた。
冬の半ば、ある日、城に呼ばれた。
エリアーナは、執務室の窓辺で、俺たちを迎えた。
『ハヤマ殿、クレア殿』
『はい』
『一つ、お尋ねしたいことがあります』
『どうぞ』
彼女は、少し迷ってから、ゆっくりと言った。
『お二人は、いつまで、この国にいてくださるおつもりでしょうか』
予想していなかったわけではない、けれども、いざ問われると、すぐには答えが出てこない問いだった。
『……正直に申し上げます』
俺は、しばらく考えてから、言った。
『私たちは、元の場所に帰る方法を、いまだに見つけられていません。たぶん、これからも、見つかりません。ですから、私たちは、たぶん、ずっと、この世界に居ることになります』
『……そう、ですか』
エリアーナの目には、心配と、それから、わずかな安堵のようなものが、混ざっていた。
『ただ、一つの場所に、ずっと留まり続けるのが、よいのかどうかは、まだ、分かっておりません』
『と、申しますと』
『私たちが、王都の近くに、長く留まり続ければ、この国の人々は、私たちの力に、頼り続けることになるでしょう。それは、長い目で見れば、この国にとって、必ずしも良いことではない、と考えています』
エリアーナは、わずかにうなずいた。
『ですので、いずれ、王都の近くを離れて、もう少し遠くの土地に、移ろうかと思っています。あちこちの国を、ゆっくりと、見て回りながら――』
『……寂しくなりますね』
彼女は、ふっと、笑った。
『けれども、お考えは、よく分かります』
『陛下』
『はい』
『離れていても、私たちは、いつでも、駆けつけられます』
『はい』
『お困りごとがあれば、いつでも、お知らせください』
『ありがとうございます』
エリアーナは、窓の外を見た。
窓の外には、雪の積もった城下町が、白く、静かに広がっていた。
その白さの中に、人々の暮らしの煙突から立ちのぼる、細い、しかし途切れない煙の筋が、何本も、ゆっくりと、空に伸びていた。
春が、また、来た。
俺たちは、その春の終わりに、王都を離れることに決めた。
行き先は、特に決めていなかった。海の向こう、まだ訪れていない国々を、シャトルで、ゆっくり巡っていく予定だ。年に一度くらいは、王都に戻ってきて、エリアーナに、近況をお伝えしようと思っていた。
拠点の片付けは、ロボットたちにほぼ任せた。
居住棟の柱には、リオが置いていった、木彫りの小さなお守りが、ぶら下がったままになっていた。子鳥の形を、ちゃんと模ろうとして、ちょっと失敗した、そういう不格好さが、かえって愛おしかった。
俺は、そのお守りを、上着のポケットに入れた。
出立の前夜、俺は、最後に、丘の縁に立った。
いつもの場所だった。
クレアが胸の内を明かした、あの深夜。
出陣の前の、あの夕暮れ。
何度もここに立って、王都の夜の灯りを眺めた。
今夜は、夜空が、特に澄んでいた。
月はまだ昇っておらず、頭上には、無数の星が、息をのむほどの密度で、広がっていた。
しばらくしてから、クレアが、俺の隣に来て、立った。
「……星、多いですね」
「うん」
「地球から見えていた星空とは、配置が、まるで違います」
「だね」
彼女は、しばらく、空を見上げていた。
春の夜風が、彼女のシルバーブロンドの髪を、わずかに揺らしていた。
「司令」
「うん」
「いつかの夜、私は、自分の気持ちを、まっすぐお伝えできない、と申し上げました」
「うん」
「その答えは、まだ、出ていません」
「うん」
「けれども」
彼女は、わずかに、空から視線を外して、俺の方を、見た。
「これからも、司令の隣にいたい、ということだけは、本当です。それだけは、誰の指示でもなく、私自身が、そう望んでいます」
「……うん」
俺は、しばらく、夜空を見上げていた。
「俺もだよ」
「はい」
俺たちは、それきり、何も言わずに、夜空を見上げ続けた。
無数の星々が、見たことのない配置で、しかし、人類が地球で見上げてきた星々と、同じくらいの優しさで、瞬いていた。
あの中のどこかに、ミネルヴァが、いる。
ブリッジには、もう誰もいない。コンソールは、すべて自動制御に任せてある。ただ、俺たちが、いつかまた戻れるように、ずっと、開けたままになっている。
「行こうか」
「はい」
俺たちは、丘を降りた。
拠点の灯りが、いつものように、温かく俺たちを迎えてくれた。
明日からは、また、新しい旅が始まる。
その旅の終わりが、いつ、どこに辿り着くのかは、まだ分からない。
けれども、隣にクレアがいる。
それだけで、たぶん、この長い旅は、なんとかなる気がしたのだった。




