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第18話 静かなる勝利

 夜明け前の、ひんやりした空気の中で、俺は目を覚ました。


 窓の外は、まだ薄暗い。けれども、地平線の縁が、わずかに白み始めていた。


 台所に降りると、すでにクレアが、湯を沸かしていた。


「おはよう」


「おはようございます」


「眠れた?」


「あまり」


「俺もだよ」


 二人で、いつもの茶を飲んだ。湯気の向こうで、彼女の銀髪が、ほんのわずかに揺れていた。


 茶碗を置いてから、俺は、軍服の上着の襟を整えた。クレアも、白い軍服の肩章を、いつもと違うものに付け替えていた。野戦用の、わずかに色味の濃いものだ。


「行こう」


「はい」






 迎撃地点は、王都から西に30キロ、なだらかな起伏の続く平原に決めていた。


 地形そのものは、防御に向いていない。けれども、こちら側は、地形に頼って勝とうとしているのではなかった。広い平原は、軌道からの観測と、ロボットの展開には、むしろ都合がよかった。


 平原の手前、低い丘の上に、アウレリア騎士団は陣を敷いていた。先頭にロドリク卿。その後ろ、平原の左右に分かれて、ロボット部隊が、ほとんど目立たないかたちで、伏せられていた。


 俺とクレアは、丘の頂、簡素な天幕の下に、観測席を構えた。


 通信装置と、3台のディスプレイ。それから、艦隊との直結回線。


「すべて、配備完了です」


 クレアが、いつもの落ち着いた声で、言った。


「プレスト、低軌道に到達。ブーレー、クーラント、待機軌道。輸送艦より、ロボット第二陣、地上に降下中。気絶ガス散布装置、50基、平原中央に配置済み。麻痺音響装置、20基、左右翼に配置済み。光学迷彩、すべての装備に展開済み」


「……よし」


 俺は、双眼ディスプレイから、平原を見た。


 その平原に、目を凝らしても、ロボットの姿は、見えなかった。気絶ガスの装置も、見えなかった。すべてが、風景に溶け込んでいた。


 帝国軍は、見えていた。


 地平線の向こうから、灰色の塊が、ゆっくりと、しかし確実に、近づいてきていた。






 1時間ほどして、帝国軍は、平原の中央に、隊列を完全に展開した。


 歩兵は、四つの大きな方陣を組み、その前面に弩の射手を配置していた。騎兵は、左右翼に大きく回り、機動的に運用される構えだ。後方には、攻城用の投石機が、ゆっくりと運び込まれてくる。


 戦の作法を、よく心得た布陣だった。


 俺は、双眼ディスプレイで、最後の一つの場所を、確認した。


 帝国軍の本陣。投石機の後方、騎兵の予備隊に守られた天幕の集まり。中央の、ひときわ大きな天幕の前に、栗毛の馬に跨った人物が、馬上で号令を発していた。


 ヴァロル大公だった。


 40代後半。鎧は黒地に銀の縁取り。兜の頂には、赤い羽根飾り。


「指揮官、確認」


「視認しました」


「最初の作戦、段階1」


「了解」


 クレアの指が、コンソールの上を、滑った。






 平原の中央、帝国軍の方陣の真上の空に、わずかな揺らめきが走った。


 光学迷彩を切ったドローン群が、一斉に、姿を現したのだ。


 数百機のドローンが、平原の上空に、ゆっくりと、しかし整然と、隊列を組んで浮かんでいた。


 帝国軍の中で、悲鳴に近い声が、いくつも上がるのが、ドローンのマイクで拾われた。


 俺は、平原に向けて、艦内から拡声した俺自身の声を、流させた。


『帝国軍の指揮官に告ぐ。私は、葉山トウヤ。アウレリア女王陛下の客人である。これより、貴殿らに、撤退を勧告する。応じない場合、貴殿らの軍は、戦わずして無力化される。死者は、出さない。けれども、貴殿らは、戦うこともなく、皇帝陛下の御元へ戻ることになる。よく考えられたい』


 声は、平原全体に、ゆっくりと、響いた。


 ヴァロル大公は、双眼鏡らしきものを目に当てて、上空のドローン群を見ていた。


 馬上の彼の表情は、驚きと、警戒と、それから、どこか冷静な観察の混ざった、複雑なものだった。


 しばらくの沈黙の後、彼は、号令を発した。


『……前進。射手、構え』


 俺は、深く、息を吐いた。


「段階2」


「了解」






 それから先のことは、俺の記憶の中では、ひどく静かに、進んだ。


 平原の中央に、伏せられていた気絶ガス装置が、いっせいに作動した。


 濃い灰色の煙が、平原全体に、ゆっくりと、しかし確実に、広がっていく。煙の濃度は、黒の谷のときとは違い、人馬を即時に倒すほどの濃度ではない。じわりと、しかし確実に、平原全体を、不可逆に覆いつくす濃度だ。


 帝国軍の隊列が、目に見えて、動きを失っていった。


 弩を構えた射手の手が、緩む。槍を握った歩兵の腕が、下がる。馬上の騎兵は、馬とともに、ゆっくりと、地面に膝をついた。


 投石機の後方では、騎兵の予備隊が、馬首を返そうとした。けれども、その馬たちもまた、ゆっくりと、足を緩めていった。


 ヴァロル大公は、最後まで、馬上で、踏みとどまっていた。


 彼は、何度も号令をかけ直そうとした。けれども、号令を受け取るべき兵たちは、すでに、動かなくなっていた。


 やがて、彼自身の手から、剣が、地面に滑り落ちた。


 彼の馬が、深く、深く、膝を折った。


 大公は、地面に、ゆっくりと、倒れた。


 平原の上から、軍歌の代わりに、ただ風の音だけが、聞こえるようになった。






 ガスの消散を待ってから、ロドリク卿の騎士団と、ロボットたちが、平原の中央に、降りていった。


 武装解除と、負傷者の手当てに、丸一日かかった。死者は、出ていなかった。重傷者は、足の骨を折ったり、頭を強く打ったりした、数十名のみ。彼らは、ロボットの医療設備で、即座に処置された。


 ヴァロル大公は、夕方、目を覚ました。


 彼は、簡素な寝台に横たわっていた。両手両足の自由は、束縛されてはいなかった。けれども、寝台のすぐ脇には、ロドリク卿が、椅子に座って、静かに彼を見守っていた。


『……ここは、どこだ』


『アウレリア領、迎撃地点の野戦本陣にあります』


『……我が軍は』


『全員、無事です。すでに、武装解除のうえ、皆、目覚めて、解放のための準備中です』


 ヴァロル大公は、しばらく、天井を見つめていた。


 それから、彼は、低く、笑った。


『……敗けたか』


『はい、大公閣下』


『敗け方が、奇妙だな』


『はい』


『俺の兵を、誰一人、殺さなかったのか』


『はい』


 ヴァロル大公は、長い沈黙の後で、言った。


『……あなた方の御主は、どなたか』


『アウレリア女王、エリアーナ陛下にあられます』


『なるほど』


 彼は、もう一度、笑った。


 今度の笑いには、敗将の苦さと、同時に、何か別の感慨が、混ざっていた。


『その女王は、皇帝陛下と、話をしたい、と仰せか』


『はい』


『……ふむ。よろしい。私から、皇帝陛下に、書状を書こう。ハヤマ殿、というお方に、直接、お持ちいただきたい』


『お任せいたします』


 ロドリク卿は、深く、一礼した。






 その夜、俺とクレアは、野戦本陣の天幕の外で、月を見上げていた。


 平原の遠くで、解放の準備をしているロボットの灯りが、ぽつりぽつりと、見えていた。


「終わりましたね」


「いや」


「いえ、ここまでは、終わりました」


「うん。本番は、これからかな」


「ええ」


 風が、平原を渡っていった。


 草の匂いと、わずかな煤の匂い。


 明日からは、皇帝陛下のもとへ、長い旅が始まる。


 その旅の終わりに、ちゃんと、講和の卓が、待っていますように。


 俺は、月を見上げたまま、もう一度、そっと、心の中で、つぶやいた。



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