第17話 嵐の予兆
翌朝、城に上がった俺は、エリアーナと、ガルウィン卿、ロドリク卿、ラウスト神官長、宰相のセラフ卿を前に、観測の結果を報告した。
『帝国軍主力、内陸の練兵地に集結中です。歩兵およそ五万、騎兵八千、攻城用の投石機を含む工兵部隊、それに兵站部隊を合わせると、総勢七万強。指揮は、皇帝直属の北部軍総司令官、ヴァロル大公。皇帝陛下ご自身は、今のところ、出陣のご様子はありません』
『七万、にございますか』
セラフ卿が、長い白いひげを撫でながら、低く呟いた。
『先の谷の三千の、二十倍以上ですね』
『はい』
部屋の中に、長い沈黙が落ちた。
『陛下』
ロドリク卿が、口を開いた。
『正面から会戦に応じれば、我が国の正規軍は、半日で潰えます。城に籠れば、籠城は可能ですが、城下と地方の村々は、一つ残らず、踏み躙られましょう』
『……分かっております』
エリアーナの声は、わずかにかすれていた。けれども、彼女は、まっすぐに前を見ていた。
『ハヤマ殿』
『はい』
『あなたがたの、お力を、お借りすることになります』
短い言葉だった。
けれども、彼女は、それを言うために、ずっと、黙って準備をしていたのが、見て取れた。
『お引き受けいたします』
俺は、深く頭を下げた。
『ただ、一つだけ、お約束ください』
『何でしょう』
『戦が終わった後、皇帝陛下と、対等な席で、お話をなさる場を、お持ちください。私たちは、その席を作るために力を使います。一方的に滅ぼすためではありません』
エリアーナは、しばらく目を伏せた。
顔を上げたとき、彼女の目には、少し疲れた、けれども揺るがない光があった。
『お約束いたします』
ラウスト神官長が、長く息を吐いた。
彼は、何度かうなずいてから、低く言った。
『……陛下のご決断、神官団も、お支え申し上げる』
その一言は、彼にとって、いくつもの逡巡を超えてきた言葉だった。
その日のうちに、王宮では、総動員の布告が出された。
アウレリアの全土から、徴集に応じる男たちが、王都に集まり始めた。けれども、その動きは、地球の中世の総動員のような騒々しさからは、遠いものだった。
集まってきた男たちの多くは、農民であり、職人であり、商人だった。彼らは、剣を抜くために来たのではなく、家族と村を守るために来た。彼らは、軍歌を歌わなかった。代わりに、城下の広場で、出征の前に、子どもや妻に、手紙を書いていた。
俺は、ロドリク卿と相談して、彼らに、危険な役割を与えないことを約束した。
彼らに任せるのは、後方の物資輸送、避難民の誘導、傷病者の看護といった、戦闘の外側の仕事だ。前線には、正規の騎士団と、艦隊のロボット、そして俺とクレアが立つ。
『農民たちを、戦の盾にせぬ、と仰っていただいて、安心いたしました』
ロドリク卿は、馬具を整えながら、言った。
『あの方々は、戦に勝ったとて、家に戻れば、また鍬を振らねばなりません。鍬を振る手を、剣で斬り落とすわけには、いかないのです』
『その通りです』
城下町は、俺がここに来てから初めて見る、緊張した佇まいになった。
市場には、いつもよりも多くの人が出ていた。けれども、彼らは買い物のためではなく、別れの挨拶のためや、最後の仕入れのために、出ていた。
ヘナの店の前を通ると、老婦人が、店の軒先で、若い徴集兵の青年に、固焼きパンの包みを、いくつも渡していた。
『これを、村のおっかさんとこへ、持って帰っとくれ』
『でも、かあちゃん、お代を』
『いいから持っていきな。まだ小さい弟さんもいるんだろ』
若者は、何度か頭を下げて、パンを抱えて、走り去っていった。
老婦人は、その背中を見送ってから、ふと、俺たちに気づいて、顔を上げた。
『……ハヤマさん』
『はい』
『あんた、ご無理は、なさらんでくださいね』
『はい。気をつけます』
『あんたとお嬢さんが、星の上に帰る日まで、私らは、ちゃんと、ここにおりますから』
老婦人は、そう言って、笑った。皺の深い、優しい笑顔だった。
俺は、何度か、頭を下げた。
言葉は、出てこなかった。
出陣の前日、夕方。
俺は、ハーカン親方の鍛冶場を、最後にもう一度、訪ねた。
親方は、鎚を持ったまま、こちらを振り返った。
『……行くんですかい』
『はい』
『ご無事で』
『はい』
親方は、そう言って、また鎚を振り始めた。
話は、それだけだった。
彼は、注文された鋤の修理を、夜遅くまで続けるのだろう。
俺は、彼の背中を、しばらく眺めてから、店を出た。
火床の赤い光が、扉の隙間から、夕暮れの通りに、長く伸びていた。
拠点に戻ると、丘の上、夕日が、いつも通りに沈み始めていた。
居住棟の窓からは、王都の城壁の上に、いくつもの新しい旗が立てられているのが見えた。アウレリアの月と麦の意匠の旗。それから、近郊の領主たちが、応援に駆け付けてきた、それぞれの紋章の旗。
夕食は、簡素にした。
パンと、スープと、地酒を、わずかに二杯。
食事の途中、クレアが、ふと、口を開いた。
「司令」
「うん」
「この先、何があっても、私は、司令の決定に従います」
「うん」
「ただ、一つだけ、お願いがあります」
「なに?」
「司令ご自身が、無理をしないでください」
「……わかった」
「私が、近くにいます」
「うん」
クレアは、それきり、何も言わなかった。
俺も、何も言わずに、グラスの地酒を、ゆっくりと口に運んだ。
窓の外の夕日が、丘の縁に、長く長く、影を落としていた。
その夜、俺は、ベッドに横になってから、なかなか眠れなかった。
明日の作戦は、すでに頭の中に、何度も組み上げてある。輸送艦から降ろした追加のロボット、上空のドローン群、軌道上の艦艇の配置、非殺傷武器の発射タイミング――それぞれの数字が、頭の中で、何度も繰り返されていた。
数字は、間違っていない。
たぶん、明日、誰も死なない。少なくとも、こちら側からは、誰も死なない。
けれども、それでも、俺の心臓は、いつもより、わずかに速く、打ち続けていた。
窓の外、夜空に、月が出ていた。
月の光の中に、ぽつりと、ひときわ明るい星が見えた。
たぶん、あれは、軌道上のミネルヴァだ。
俺たちの艦隊の、一隻一隻が、夜空のあちこちで、静かに、動いている。
俺は、長い時間をかけて、ようやく目を閉じた。
目を閉じてから、俺は、最後にひとつ、心の中で、つぶやいた。
誰も、殺すな。
誰も、殺されるな。
その短い祈りが、明日の朝までに、ちゃんと届きますように、と思いながら、俺は、ようやく眠りについた。




