第15話 クレアの問い
熱の村から戻ってきてから、クレアの様子が、少しだけ変わった。
大きく違うわけではない。朝には変わらず台所に立ち、いつもより少し早く茶を淹れ、いつものように艦内のコンソールに座って、艦隊の状況を確認する。会話の数も、語尾の感じも、ほとんど普段通りだ。
けれども、彼女が、ふと窓の外を見つめたまま動かなくなる時間が、ここ数日、少しずつ、長くなっていた。
俺は、それに気づいていた。けれども、本人が話さないものを、こちらから掘り起こすのは、違う気がしていた。だから、俺は、いつも通りの暮らしを、いつも通りに続けることにした。
朝食を作り、二人で食べる。
日中は別々に作業をする。
夕食の支度を、どちらかが先に始める。
夜になれば、暖炉の火を見ながら、それぞれの日報を確かめる。
それを、ただ、繰り返した。
その夜、ふと、目が覚めた。
時計を見ると、午前一時を、少し回ったところだった。
俺は、寝室を出て、台所に水を飲みに行こうとした。
階段を降りて、居間に入ったところで、玄関の方の、扉の鍵が外れる音が、微かに聞こえた。
窓越しに見ると、クレアが、コートを羽織って、玄関の外に出ていくところだった。
彼女は、深夜に外に出るような人ではなかった。
俺は、しばらく迷ったが、結局、ガウンを羽織って、自分も外に出ることにした。
拠点の周りは、夜空が広く、月は、ちょうど真上に近い位置にあった。
月明かりが、丘の上の草を、銀色に染めていた。
クレアは、丘の縁に立って、王都の方を見ていた。
城下の家々の灯りは、もうほとんど消えていて、城の塔の窓に、ぽつりぽつりと、夜番の灯がついているだけだった。
俺が後ろから近づくと、彼女は、振り返らずに、小さく言った。
「司令」
「うん」
「起こしてしまいましたか」
「いや、たまたま目が覚めただけ」
「そうですか」
彼女は、それきり黙った。
俺も、その横、少し離れたところに立って、同じ方角を見た。
夜の空気は、思っていたより、温かかった。もう夏が近い、ということなのかもしれない。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
「司令」
「うん」
「以前の私のことを、覚えていらっしゃいますか」
「以前?」
「ゲームの中の、私です」
俺は、しばらく考えた。
「もちろん、覚えてるよ」
「私は、あの頃、AIでした」
「うん」
「司令の指示に従って、艦隊を運用するための、補助的な人格でした。表情も、言葉も、すべて、司令にとって居心地のよい範囲に、調整されていました」
「うん」
「あの頃の私が、人格と呼ぶに値するものだったのか、それとも、単なる対話用のプログラムだったのか、結局のところ、はっきりとは、答えられません」
彼女の声には、いつもの落ち着きの中に、わずかな、低い揺らぎがあった。
「ここに来てから、私は、いろいろな感覚を得ました。空腹、喉の渇き、疲れ、雨の冷たさ、パンの美味しさ、夜会のドレスの絹の感触――それから、ヘナの店の老婦人に、お代を多めに渡されたときの、申し訳のなさのような、もやもや」
「もやもや、ね」
「はい」
「うん、分かるよ」
「そういう感覚を得るたびに、私は、自分が以前の私とは、別のものに、なりつつある気がします。けれども――」
彼女は、そこで、いったん言葉を切った。
月の光の下で、彼女の銀髪が、わずかに揺れた。
「けれども、私は、本当に変わったのでしょうか」
「変わった、と俺は思うよ」
「でも、私は、以前の私の延長です。司令の指示に従いやすいよう作られた人格の、その延長線上で、たぶん今も、考えています」
「……そう?」
「司令」
彼女は、初めて、こちらに顔を向けた。
「私は、司令を、慕っています」
「……うん」
俺は、かろうじて、それだけを返した。
「けれども、私は、それが、私自身の感情なのか、それとも、AI時代の私が、司令にとって居心地のよくあるよう設計された、その名残なのか、分からないのです。私が、司令を慕うとき、私が司令を慕っているのか、私の中の古いプログラムが、私に司令を慕わせているのか――」
彼女の声は、震えてはいなかった。
むしろ、いつもより一段、落ち着いていた。
けれども、その落ち着きが、ひどく痛々しく感じられた。
「だから、私は、自分の気持ちを、司令に、まっすぐお伝えすることが、できません」
俺は、すぐに答えなかった。
答えるべき言葉が、すぐには、出てこなかった。
夜風が、丘の縁を、ゆっくりと流れていった。
遠くで、鳥の小さな声がして、すぐに止んだ。
しばらくして、俺は、口を開いた。
「クレア」
「はい」
「俺は、たぶん、その問いに、すぐ正しい答えを返せないと思う」
「はい」
「ただ、一つ、思うことがある」
「はい」
「俺は、ゲームの中の頃のクレアと、今のクレアは、同じでもあり、別でもあると思っている」
「……別」
「うん。声は同じだし、見た目もほぼ同じだ。だから、地続きだと言えなくもない。けれども、ハーレ村の畑で長靴を泥だらけにして歩いたクレアは、ゲームの中のクレアじゃない。サウェ村のテントの脇で、夜中まで患者の容態を確かめていたクレアも、ゲームの中のクレアじゃない。あの夜会で、ドレスを、緊張しながら着てきたクレアも――」
「……はい」
「あれは全部、今のクレアだよ。今のクレアが、過去のクレアの延長だとしても、それは、過去のクレアじゃない。今のクレアが、自分の意志で、ここまで来た、その結果だ」
彼女は、黙って、俺の言葉を聞いていた。
「だから、クレアの気持ちが、AI時代の名残かどうかを、無理に切り分ける必要はないと思う。それは、たぶん、切り分けられない。古い部分も、新しい部分も、全部含めて、今のクレアだから」
俺は、自分でも、何を言っているのか、よく整理できないまま、それでも、最後まで言った。
「結論を急がなくていいよ。俺は、急がない。クレアが、自分の中で、一つの答えに辿り着くまで、何年でも待てる」
クレアは、目を伏せた。
ややあって、彼女は、低く言った。
「……ありがとうございます」
その声は、いつもより、ほんの少しだけ、湿っていた気がした。気のせいかもしれない。気のせいかもしれないが、たぶん、気のせいではないと、俺は思った。そう、思いたかった。
俺たちは、しばらくの間、何も言わずに、月の光の下に、並んで立っていた。
城の方角の、夜番の小さな灯が、ほんのわずかに揺れていた。
「司令」
「うん」
「夜風が、冷たくなってきました」
「だね」
「戻りましょうか」
「うん」
俺たちは、来た道を、ゆっくりと歩いて、拠点へ戻った。
居間の暖炉に、まだ、わずかに熾火が残っていた。
「お茶を淹れます」
「ありがとう」
彼女は、台所に立って、いつものように湯を沸かし始めた。
いつもの動作。いつもの音。いつもの、湯気の立ちのぼる気配。
けれども、その「いつも」が、今夜は、いつもより、ほんの少しだけ、ありがたく感じられた。
俺は、椅子に座って、暖炉の熾火を眺めながら、しばらくの間、何も考えないことにした。
明日になれば、また、いつもの一日が始まる。
その「いつもの一日」を、これから先、どれだけ続けていけるかが、たぶん、俺たちにとって、いちばん大事なことなのだろう、と思った。




