第13話 春の長雨
雨は、もう、八日続いていた。
灰色の空が、丘の上の拠点の窓ガラスに、絶え間なく細かい線を引いている。風は強くないが、雨そのものが、止む様子をまったく見せない。
拠点の居住棟の窓辺で、俺はカップを両手で包んで、外を眺めていた。中身は、ヘナの店の老婦人にもらった、薬草を加えた茶。少し苦いが、雨の朝に飲むには、ちょうどよかった。
「司令」
「うん?」
「お米が、心配です」
俺は、振り返った。
クレアは、台所のテーブルで、現地の住人から借りてきた農業手控えを開いていた。手控えといっても、本格的な書物ではない。木綿の表紙に、農夫が代々書き足してきた、手書きの覚書。
「米?」
「いえ、米作はこの国にはありません。あくまで、譬えとしての言い方です。麦と、果樹と、芋類の畑、いずれも、長雨が続けば収穫に影響します」
「そうだろうね」
「実害は、まだ出ていないようですが、雨期がもう一週ほど長引くと、街道沿いの低地の畑から、根腐れや病害が広がり始めます」
「うちの装備で、できることはある?」
「即効性のある救済は限られます。ただ、来年以降に向けて、いくつか提案できることはあります」
彼女はそう言って、俺の方に、手控えを向けて広げた。
午後、雨が、わずかに小降りになった。
その隙に、俺たちは、近郊の小さな村「ハーレ村」に出かけることにした。
ハーレ村は、王都の南、馬車で半時間ほどの距離にある、人口300人ほどの集落だ。先日の戦の際、避難してきた村人たちの大半が、戻っていた。彼らの畑が、低地に広がっており、長雨の影響を受けやすい。
馬車から降りた俺たちを出迎えたのは、村の長老、テドと名乗る70代の男だった。背は曲がっているが、目は澄んでいて、握手の手は、思いがけず力強い。
『これはこれは、ハヤマ殿。お足下の悪い中、ようこそ』
『お邪魔いたします』
『先日の谷でのお話、村の若い者から聞いておりますよ。誰も死なせずに、敵を眠らせて帰されたとか』
『噂が、こんな所まで』
『噂はね、雨より早く降りますからな』
彼は、皺だらけの顔で、にこりと笑った。
俺は、つられて、笑った。
ハーレ村の畑は、思っていたよりも、よく整えられていた。
区画は丁寧に区切られ、畝は等間隔。縁には、雨水を流すための溝が、人の手で、丁寧に掘られている。けれども、ここ数日の長雨で、その溝も水を捌ききれず、所々で水が溜まっていた。
『あの低い畝のあたりは、もう、芋がだめになっとるかもしれません』
テド老人は、雨に煙る畑を指差した。
『代々、ここで畑をやってきましたが、今年のような長雨は、十年に一度くらい、来ますな』
『……毎年では、ないのですね』
『あれば、もうとっくに、皆、別の作物に変えとります』
彼の言葉には、微かな誇りと、諦めの両方があった。
俺は、クレアに目で合図した。
「はい」
彼女は、コートのポケットから、小さな端末を取り出し、上空のドローンに指示を送った。
ロボットの一台が、輸送箱から這い出して、村の縁にゆっくりと降りてきた。胸の収納部から、長い金属の管と、何種類かの工具を取り出している。
『……あれは、何ですか』
テド老人が、目を細めた。
『畑の水を、低い土地に流すための、管です。地中に埋めて、雨水を一定の方向に逃がします』
『土の中に、管を、埋める』
『はい』
老人は、しばらくの間、ロボットの動きを見つめていた。
彼の表情には、初めてロボットを目にした日のガルウィン卿のような驚きはなかった。すでに、噂は届いている。だから、彼は驚かなかった。けれども、自分の畑のすぐ脇で、その「噂」が動き始めるのを見て、彼は、少しだけ、息を呑んだ。
『手伝うことはありますか』
『……特には。ただ、村の方々で、邪魔にならない場所から、見守っていただければと』
『そりゃ、邪魔をするわけにはいかんですな』
彼は、ふっと笑って、村の方へ、何人かの若い者を呼びに行った。
ロボットは、半日ほどかけて、畑の縁に三本の太い排水管を埋めた。
管の出口は、村の縁の、もともと小さな水路だった溝に繋ぎ、その水路を、ロボットがさらに掘り下げて、近くの川まで導通させた。
最後の仕上げに、管の上に元の土を被せ、芝を貼り直す。作業が終わってみると、畑の見た目は、ほとんど変わっていなかった。けれども、雨が降り続けても、低地に水が溜まることは、もう、なかった。
夕方、村の集会所に招かれた。
長い木のテーブルに、村人たちが集まっていた。テド老人と、若い夫婦と、子どもたちと、それからもう少し年配の何人か。
夕食は、雨でもよく作れる、と言って出された、塩漬け肉と豆と根菜の煮込み、それから黒パン。素朴だが、深い味だった。
『お代わり、いるかい?』
俺の隣に座っていた、10歳くらいの男の子が、こちらの椀を覗き込んできた。彼の名前はリオというらしい。
『じゃあ、半分だけ』
『おっちゃん、星から来たって本当?』
「おっちゃん」と呼ばれる年齢になっていることを、俺はしばし、考えた。
『……星、というか、空のずっと上から、来たよ』
『へえ。空のずっと上には、何があるの』
『何もない』
『何もないの?』
『何もない。けれども、何もない場所の向こうに、いくつもの星があって、星には、それぞれの世界がある』
『俺、行ってみたいなあ』
彼はそう言って、煮込みを大きく一口、頬張った。
俺は、しばらく、その横顔を見ていた。
いつか、この子のような子どもが、本当に星を渡る日が来るのかもしれない、と思った。けれども、それは、たぶん、俺たちが踏み込みすぎると、起こらない。彼らが、彼ら自身の力で、空を見上げ続けて、そして、ひとつひとつ歩み進めていくときに、初めて、起こることなのだろう。
集会所を出るころには、雨は、ようやく本格的に小降りになっていた。
テド老人が、村の入口まで、見送ってくれた。
『ハヤマ殿』
『はい』
『私は、もう年で、新しいものを覚えるのが億劫な質ですが』
『はい』
『今日見せていただいた、あの管の話、来月、村の若い者に、教えていただけませんかね。次に十年に一度の長雨が来たとき、私は、もうここにはおらん。けれども、若い者は、おる。彼らに、覚えておいてほしい』
『喜んで』
俺は、深く頭を下げた。
『土地の作法は、土地に長くおられる方に、教えていただきます。代わりに、こちらにある仕組みのうち、お役に立つものは、できる限り、お伝えします』
『……それは、ありがたいです』
老人は、雨の中、ゆっくりと頭を下げた。
俺たちは、馬車に乗り込み、拠点へと戻っていった。
馬車の中、クレアは、しばらくの間、窓の外を眺めていた。
「司令」
「うん?」
「今日は、いい一日でした」
「うん」
「戦の話を、まったくしませんでした」
「そうだね」
「これが、できるだけ、長く続けばいいですね」
「そうだね」
俺は、窓の外に視線を戻した。
雨は、もう、ほとんど止んでいた。雲の切れ目から、夕日の橙色が、わずかに差し込んでいた。畑の溝の水が、夕日を反射して、細い光の筋を引いていた。
拠点に戻ったら、湯を沸かして、温かい茶を、二杯淹れよう。
そのくらいのことを考えるのが、ちょうど、よい時間だと思った。




