第12話 灯火の夜会
夜会の招待状が届いたのは、黒の谷の戦いから三日目の、朝のことだった。
城の使者が拠点まで運んできた、薄い布張りの封筒。中には、繊細な草花の意匠で縁取られた一枚の便箋。
『陛下のご生誕を祝う、ささやかな宴を、明後日の夜、王宮にて催します。ハヤマ殿、クレア殿のお二人にも、ぜひお越しいただきたく――』
ガルウィン卿の達筆な字の脇に、少し小さな字で、一行が添えられていた。
『いつもの年の通りに催すことこそが、民への何よりの報せである、との陛下のお考えにございます』
谷の一件から、まだ日も浅い。それでも――いや、だからこそ、なのだろう。戦があっても、この国の暦は、変わらずに巡る。女王の誕生日が来れば、いつもの年のように、ささやかな宴が開かれる。それを城下の人々に見せることが、あの若い女王の選んだ、静かな宣言なのだった。
「夜会、ですか」
クレアが、便箋を覗き込みながら言った。
「うん」
「私たち、出るのですか」
「出ないわけには、いかないだろうね」
「服装は、どうしましょう」
その点を、俺は、まったく考えていなかった。
艦内の合成繊維で、それらしい礼装を作ることはできる。けれども、現地の感覚から浮かないだろうか。それとも、現地の仕立屋に頼むほうがいいのか。
迷っていると、夕方になって、城から侍女が二人、馬車で訪ねてきた。
手には、布張りの大きな箱。
『陛下より、お二人にお召し物が届けられております。お試しになってみてくださいませ』
箱の中には、二着のドレスと、男性物の上下が一式、入っていた。
俺の方は、深い紺色の上着とズボン。襟と袖口に、銀の細い刺繍。派手ではないが、見るからに上等な布地だった。
クレアの分は、淡い灰色の絹のドレス。袖は長く、首元は控えめ。装飾は、胸元の小さな銀のブローチだけ。
「……これは、私が、着るのですか」
彼女は、ドレスを箱から取り出して、しばらくの間、じっと眺めていた。
「うん」
「私、ドレスを、着たことがありません」
「だろうね」
「司令は、どう思いますか」
「どう、と言われても」
俺は言葉を選んだ。
「俺の意見が、参考になるとは思えないけど」
「それでも、伺いたいです」
「……似合うんじゃないかな」
その答えで合っているのかどうかは分からなかったが、クレアは、わずかにうなずいて、ドレスを胸に当てて、小さな鏡を覗き込んでいた。
夜会の当日。
馬車に乗り込む直前、俺は、もう一度クレアを見た。
ドレスを着たクレアは、いつもの彼女と、まるで違う印象だった。シルバーブロンドの髪は、後ろで上品にまとめられ、小さな白い花が一輪、髪飾りに添えてあった。化粧は最低限。けれども、ドレスの色とブローチの銀が、彼女の髪と瞳に、不思議なほどよく合っていた。
「司令、何か変ですか」
「……いや」
「では、行きましょう」
「うん」
俺は、それ以上、何も言えなかった。
馬車に乗り込んでから、しばらくの間、二人とも、無言でいた。窓の外を、城下の灯りが、ゆっくりと流れていく。
城は、いつもよりも多くの灯がともされていた。けれども、それでも、過度な華やかさはなかった。回廊の壁には、必要なだけの蝋燭。庭園には、小さな手提げのランプが、一定の間隔で吊り下げられているだけ。
『お二人とも、よくお越しくださいました』
玄関でガルウィン卿に出迎えられ、回廊を通って、奥の小広間に案内された。
夜会は、思っていたよりも、ずっとささやかだった。
集まっていたのは、二十人ほど。城の重臣と、その家族。それに、地方から呼ばれたらしい数人の老貴族。夜会というよりは、家族の集いに近い雰囲気だった。
部屋の奥に、白い椅子が一つ。
その椅子に、エリアーナは、控えめな白い夜会服で座っていた。
彼女の前には、簡素な椅子がいくつも並べられ、誰もが順に挨拶に向かう。けれども、長く話し込む者はいない。短い言葉を交わし、静かに頭を下げて、それぞれの場所に戻っていく。
『ハヤマ殿、クレア殿』
俺たちの番が来たとき、エリアーナは、軽く立ち上がった。
『お越しくださって、ありがとうございます』
『お招きいただき、光栄に存じます』
俺は深く頭を下げた。
『陛下、お誕生日、おめでとうございます』
クレアが、低い、しかし、はっきりした声で、覚えたばかりの祝辞を述べた。
エリアーナは、わずかに目を細めて、クレアを見つめた。
『美しい言葉で、ありがとう』
『陛下のお召し物の、白が、よくお似合いです』
『あら』
エリアーナの口元に、ふっと、思いがけない柔らかさが広がった。
『……女性に、装いを褒めていただいたのは、ずいぶん、久しぶりです』
その一言に、俺は不意を打たれた。
彼女は、いつも、いくつもの視線の中心にいる。けれども、彼女の装いを「褒める」者は、もしかすると、もう、ほとんど残っていないのかもしれない。彼女に必要なのは、判断であり、判決であり、決定だ。装いを褒めるという、ただそれだけのささやかなやりとりは、女王には許されていないのかもしれなかった。
『今夜は、政治の話は、できれば、しないことにしましょう』
エリアーナは、椅子に座り直しながら、言った。
『一晩、ただ、夜会としての夜を、過ごしたいのです』
『仰せの通りに』
夜会の後半、庭園に出た俺は、池のほとりの低い石の縁に、エリアーナが、一人で座っているのを見つけた。
従者は、少し離れたところに控えていた。
月が出ていた。月の光と、石の縁の周りに置かれた小さなランプの光が、池の水面に、静かな波紋を描いていた。
『お邪魔ですか』
『いえ』
俺は、彼女の横、適切な距離を空けて、石の縁に腰掛けた。
『今夜は、ありがとうございました』
『こちらこそ』
しばらくの間、俺たちは、池を眺めていた。
彼女が、不意に言った。
『ガルウィン卿に、よく言われます。陛下は、もう少し、息を抜かれたほうがよろしい、と』
『お疲れですか』
『……いつも、疲れています』
『それは、お役目ですから』
『はい。けれども、それを、誰かに言ってもよい場所が、私にはあまりありません』
彼女は、池の水面を見つめたまま、続けた。
『両親が亡くなる前、私は、誰にでも、何でも、話せる気がしていました。両親に、ガルウィン卿に、神官長に、子どものころから仕えてくれている侍女たちに。けれども、即位してから、その「何でも話せる」感覚が、少しずつ、痩せていきました。話せば、皆、それぞれの立場で、私のために動こうとしてくださる。それは、ありがたいのです。けれども、ありがたいだけで、寂しい……』
彼女の年齢を考えると、それは無理からぬことのようにも思われた。
『お分かりになりますか』
『……分かるとは、申し上げられません。けれども、寂しい、というお気持ちを、想像することはできます』
エリアーナは、わずかに、笑った。
『正直な方ですね』
『嘘がつけないだけです』
『ふふ』
彼女は、それから、しばらく、ただ、月の光を見ていた。
やがて、彼女は立ち上がり、俺に向かって、軽く一礼した。
『今夜のことは、誰にも言わないでくださいね』
『はい』
『おやすみなさい、ハヤマ殿』
『おやすみなさい、陛下』
彼女は、従者に伴われて、回廊の方へ戻っていった。
俺は、しばらく、池の縁に座ったまま、月の光を眺めていた。
帰り道、馬車の中で、クレアは、しばらく、窓の外を見ていた。
「司令」
「うん?」
「私、夜会というものは、もっと、賑やかなものだと思っていました」
「俺も、ちょっとそう思ってた」
「でも、今夜のような夜会の方が、私は好きです」
「うん。俺も」
馬車は、城下の暗い道を、ゆっくりと拠点へと向かっていた。
「ドレス、とても似合っているよ」
俺は、できるだけ普通の声で、言った。
クレアは、しばらく、何も言わなかった。
それから、窓の外に視線を向けたまま、
「ありがとうございます」
と、本当に小さな声で、答えた。
馬車の灯りが揺れ、ドレスの絹の表面に、淡い光の波紋が走った。
俺は、それきり、何も言えなくなって、窓の外を見た。
夜は静かで、城下の灯は、思いがけず、優しかった。




