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第11話 帝国軍、進発

 五日の期限が切れた、その翌日の早朝。


 帝国軍の先遣隊、およそ三千が、国境の山の鞍部を越えて、アウレリア領内に侵入した。


 観測ポストのセンサーが捉えた報告は、上空のドローンを経由して、拠点の作業棟に、夜中のうちに届いていた。


 時計を見ると、夜明け前の四時三十分。


 俺はベッドから起き上がり、灯りをつける前に、まず、深く息を吐いた。


 予想していた事態が、予想していたとおりに、起こった。


 昨日の夕刻、陛下の返書は、国境の帝国軍に届いているはずだった。拒絶の返答を受け取った帝国が、期限の明けたその日のうちに動く。教科書のような、律儀な開戦だった。


 それでも、自分の心臓が、いつもより少し速く打っているのを感じた。






 拠点の作業棟に降りると、クレアはすでに、メインスクリーンの前に座っていた。


 いつもの白い軍服。髪は後ろでまとめてある。表情は、いつもより一段、静かだった。


「人数は、変わらず三千ほどです。歩兵二千、騎兵五百、補給と工兵で五百」


「進路は」


「南の街道を進むと予測しました。最初の交戦予定地点は、街道沿いの『黒の谷』。我々の事前計画通りです」


「ロドリク卿には」


「すでに連絡しました。卿は、三日前から谷の手前の野営地に詰めておられます。第二騎士団、五百騎。歩兵を含めて千二百ほどが、すでに布陣を終えつつあります」


 数だけ見れば、三千対千二百。


 地球の中世戦術なら、勝負にならない数差だ。けれども、こちらには、別の道具がある。


「予定通り、進めよう」


「了解しました」


 彼女はコンソールに指を走らせ、上空のドローンと、布陣する騎士団と、そして艦隊との連携を、整然と組み上げていった。






 黒の谷は、その名のとおり、両側が黒い岩肌の崖になっている、細長い谷だった。


 帝国軍が大軍を活かそうとすれば、必ずここを通る。だが、谷の中では、軍勢を横に広げることができない。縦に伸びた行軍隊形を、そのまま強いられる。


 その地形を、俺たちは、最大限に利用するつもりだった。


 日が昇って間もなく、谷の北の入口から、帝国軍の先頭が見え始めた。


 俺とクレアは、まだ暗いうちに、光学迷彩を展開したシャトルで現地に入っていた。谷の南の縁、ロドリク卿の本陣からやや離れた高台に、観測席を構えている。携帯式の通信装置と、双眼ディスプレイ。それから、艦隊への直結回線。


 眼下の谷を、灰色の隊列が、ゆっくりと進んでくる。歩兵の靴音と、馬の蹄の音、そして、低い軍歌の唱和。


「敵の指揮官、確認」


 クレアが、ドローンの映像を拡大した。


「先頭の騎兵集団の中央に、装飾のある兜の人物。階級章から判断すると、千夫長クラス。連隊司令格と思われます」


「弓の射程に入るまで、こちらから手は出さない」


「了解です」


 ロドリク卿の騎士団は、谷の中央部、わずかに地形が広くなる場所に、横列を組んでいた。先頭には、白旗を持った騎士が一人。


『止まれ』


 ロドリク卿の声が、谷に響いた。


『これより先、アウレリア領なり。戦意なくば、退かれよ』


 帝国軍は、止まらなかった。


 先頭の千夫長が、馬上で剣を抜き、号令を発した。


『進め!』


 同時に、ロドリク卿の騎士団が、手はず通り、馬首を返して谷の南口へと下がっていく。この谷の風は、朝のうちは南から北へ抜ける。クレアが選んだ、風上の位置だった。






 その瞬間、クレアが、コンソールの一つのキーを、押した。


 谷の両側、岩肌の中腹、目立たないように設置された筒型の発射器が、ほぼ同時に作動した。


 発射器から放たれたのは、小型の樽のような容器。二十数発。それぞれが、谷の中央に向かって、ふわりと放物線を描く。


 樽は、行軍隊列の上空、頭上数メートルの高さで、静かに破裂した。


 濃い灰色の煙が、ゆっくりと、しかし確実に、谷の中に充満していく。


 帝国軍の動きが、目に見えて緩慢になり、そして止まった。


 兵士たちは、煙を吸い込むなり、ふらつき、武器を取り落とし、その場に膝をつき、やがて横たわった。気絶用の鎮静ガスだ。地球の現代医療で長年蓄積された、確実に意識を落とすが、後遺症の極めて少ない処方をベースにしている。哺乳類全般に作用するよう調整されているので、馬も例外ではなかった。


 数分のうちに、谷の中の三千は、ほぼ全員、地に伏した。馬たちも、騎手から滑り落ちるようにして、ゆっくりと膝を折り、その大きな体を地面に横たえた。


 軍歌は、止まった。


 残ったのは、谷を吹き抜ける風の音と、遠くで鳴く鳥の声だけだった。






 風が、時間をかけて、煙を谷の上に押し流していった。


 ガスが完全に消散したのを確認してから、ロドリク卿の騎士団と、艦隊から派遣された医療ロボットが、谷の中に降りていった。


 倒れている兵士たちを、一人ひとり、安全な姿勢に直し、武器をひとまとめにし、馬を集める。意識のない兵士のうち、頭部を打ったり、転倒で骨折した者は、医療ロボットがすぐに処置を始める。


 俺とクレアも、観測席を降りて、谷の中に向かった。


 近くで見ると、地面に伏した兵士たちは、皆、ただ深く眠っている子どものようだった。年若い者も、ひげを生やした年配の者も、見分けなく、安らかな顔で、息を吸っては吐いている。


『……これは、いったい、何が起こったのですか』


 ロドリク卿が、馬から降りて、俺に近づいてきた。彼の声には、勝利の高揚はなく、むしろ、戸惑いが滲んでいた。


『眠らせる薬を、空気に混ぜました』


 俺は、なるべく単純に説明した。


『彼らは、数時間後に目を覚まします。多くの者には、後遺症はありません。一部、転倒で怪我をした者は、こちらで治療いたします』


『……敵兵を、ですか』


『はい』


『なぜ』


『敵だから殺してよい、というのは、戦が長く続く理由になります。彼らの命を救って帰したほうが、後々、皇帝陛下と話をするときに、お互いの選択肢が増えます』


 ロドリク卿は、しばらくの間、地面に伏した兵士たちを見ていた。


 それから、彼は、ゆっくりとうなずいた。


『戦士の言葉ですな』


『また、それですか』


『また、それです』


 彼は、わずかに、口元をゆるめた。






 昼過ぎ、谷の中で目を覚ました帝国兵たちは、武装解除のうえ、谷の北側、彼らがやって来た方向に向けて、解放された。


 水筒と、半日分の糧食を渡した。馬は、騎兵には返した。武器のうち、剣と槍は、ひとまずアウレリア側で預かることにした。


 千夫長は、最後まで、状況を理解しかねている表情をしていた。


『……我々は、生かして帰されるのか』


『はい』


『そちらの戦力なら、我々を全滅させることもできたはずだ』


『その通りです』


『……何故』


『皇帝陛下に、お伝えいただきたい言葉があります』


 俺は、少し考えてから、続けた。


『アウレリア王国は、属州にも、連邦にも、加わるつもりはありません。けれども、皇帝陛下と、対等な席で、いつでもお話を伺う用意はあります、と』


 千夫長は、俺の顔を、長い時間、まじまじと見つめた。


 それから、彼は、無言で、馬の手綱を取り、自分の兵を率いて、北へ歩き始めた。


 帝国の先遣隊は、来たときよりもずっと静かに、来た道を引き返していった。


 国境の向こうの本隊、およそ二万七千は、ついに山を越えてはこなかった。ドローンの映像の中で、彼らの野営地は、静まり返ったまま、動きを止めていた。






 夕方、拠点に戻った俺は、居住棟の台所の椅子に、腰を下ろしたまま、しばらく動けなかった。


 誰も死ななかった。


 それは、もちろん、最良の結果だ。


 けれども、俺は、自分が、人を殺さなかった、というそのことに、なぜか強い疲労を感じていた。


「司令」


 クレアが、お茶を淹れながら、横目で俺を見た。


「人間を、戦場で『眠らせる』というのは、本当は、ひどく失礼なことだったのかもしれません」


「失礼?」


「彼らは、命を懸けて来ていました。それを、こちらの都合で、勝手に眠らせて、勝手に帰した。彼らの『戦う覚悟』を、私たちは、否定したかもしれません」


「……かもしれないね」


 俺は、しばらく天井を見ていた。


「でも、殺すよりはずっと、いい」


「ええ」


「次も、これでいくよ」


「はい」


 窓の外、夕日が、いつものように、丘の上を斜めに照らしていた。


 長い一日が、ようやく、終わろうとしていた。


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